荒木拙三大尉
安倍総理はG7サミット後、日本の首相として初めてマルタを訪問します。
(日本人はすっかり忘れているけど)日本は第一次世界大戦では戦勝国ですが、それにしても、何故マルタに大日本帝国海軍の慰霊碑があるのか?
大日本帝国海軍が活躍して多くの人を救助していたという感動的な話を紹介します
あすからイタリア、マルタ訪問=サミット出席、日米会談も-安倍首相 2017/05/24
・・首相はサミット出席後、日本の首相として初めてマルタを訪問し、ムスカット首相と会談。第1次世界大戦中に当時の日英同盟に基づき連合軍の輸送船護送のため派遣され、付近の海域で戦死した旧日本海軍将兵の墓地も訪れる。
大日本帝国海軍の慰霊碑の話です
《【第一次世界大戦から100年】地中海に大日本帝国海軍の慰霊碑。『地中海の守護神・第二特務艦隊』》 2016年1月 6日
・・この中で、特にあまり知られていない話。何故第一次世界大戦で日本は戦勝国なのか・・
・・井上氏は、インドネシアで戦後、現地に残っていた旧日本兵がオランダからの独立のために戦い、戦死者が慰霊されている事例などを紹介し「中国、韓国以外に、アジアに反日国家はない」と指摘。安全保障関連法に関しては「アジアに目を向ければ、中国、韓国だけが反対の声を挙げている」と述べた。
また、地中海のマルタには、第1次世界大戦でドイツの潜水艦攻撃から輸送船団を守った日本艦隊の戦没者の墓地があることにも言及。「第一次大戦で日本は連合国側に立ち、世界秩序のために戦った。戦勝100周年にあたる2018(平成30)年には、堂々と戦勝国であるという認識を持てばよい」と強調した。
に関して紹介します
《地中海に大日本帝国海軍の慰霊碑。『地中海の守護神・第二特務艦隊』とは? 【いま世界は】》より抜粋
・・「第1次世界大戦百年」と題してやっていたんですが、その中で「知られざる第一次世界大戦と日本の関係」の部分だけ記録しました(青字はナレーション)
一応日本は戦勝国なんだけど、正直、第一次世界大戦の話って日本人はよく知りませんよね。
日本の海軍が活躍して多くの人を救助していたのも知らなかったけど・・いい話です
木佐氏「コチラは地中海のマルタ共和国にある日本海軍の慰霊碑です。なぜ地中海にあるのか、知られざる第一次世界大戦と日本の関係です。」
安倍総理「忘れてならないのは来年丁度その勃発から100周年を迎える『グレートウォー(第一次世界大戦)』において、日本海軍将兵は並外れた操艦技術を発揮をし、英国船護衛に成果を挙げ、『地中海の守護神』と呼ばれた事実です。」
安倍総理が言う、『地中海の守護神』とは、第一次世界大戦で地中海に遠征した大日本帝国海軍『第二特務艦隊』を指す。その事実を今に伝えるものが地中海の島国に残っていた。
地中海で戦死した帝国海軍兵士の慰霊碑がマルタのイギリス海軍基地内に人知れず建っている。
なぜ地中海なのか? なぜ派遣されたのか? そして『第二特務艦隊』とは。
古い写真帳がある。ここには第一次世界大戦に参戦し、地中海へ派遣された大日本帝国海軍『第二特務艦隊』の軍務が記録されている。
地中海の島国マルタ第一次世界大戦当時、イギリス海軍の補給基地となっていた。『第二特務艦隊』は、開戦3年後の1917年4月からそこに派遣された。
任務は連合国側の船舶の護衛だった。開戦翌月の8月に連合国の1員として参戦した日本はドイツ疎開地の攻略などアジアでの軍事作戦が中心だった。
参戦の背景となった日英同盟に遠くヨーロッパまで派兵する義務は無かったが、連合国はイギリスを中心に繰り返し日本に派兵を要請する。
石津明之氏「参戦する義務はないんですけども、当然、同盟国であるイギリスが戦って苦労している中で日本が『自分達は関係ないという態度が取れるのか』という考えを持ってましたし、その機会を上手く利用して日本がアジア、とりわけ中国大陸への地歩を固めていこうという意味で当時の外務大臣だった加藤高明という人は『非常にいいチャンスだ』という事で主導して、あとに出てくる地中海への艦隊派遣に繋がったと思いますねぇ」(防衛研究所)
当時の地中海は、ドイツの潜水艦・Uボートの攻撃で"魔の海"と呼ばれる危険なエリアだった。
駆逐艦・『榊』と『松』がイギリスの輸送船『トランシルヴァニア』の護衛任務についていた1917年5月。
マルセイユを出た輸送船の左舵後方にドイツ軍の魚雷が命中した。『松』は直ちに攻撃された乗組員の救出にあたるが、その最中、更に2発目の魚雷が迫ってきた。『松』の乗組員の日記にはこうある。
- 一条の航跡を残して真一文字に疾走してきているではないか。後甲板からの観測ではちょうど松の艦橋下位を狙っているように思われて、到底命中を避け難いものと観念の目を瞑った -
魚雷は『松』の10m前方をかすめて輸送船の中央部に命中してしまう。 この時、『榊』はわずか5分で1000人もの兵員を収容する手際の良さだった。その時の写真がコレだ。
その後、かけつけた別の艦船と3000人を救助。こうした救助は非常に危険を伴うという。
石津氏「ドイツ海軍の潜水艦がまだ自分達の周りをうようよしているかも知れないし、自分達がトランシルヴァニアの近くで止めた瞬間に撃ってくるかも知れないという危険がある上で、それを承知の上で救助活動に向って、出来る限りの人命を助けたと、、」
駆逐艦の迅速な行動はイギリス海軍司令部を驚かせた。
「英国海軍及び英国海軍省の名を持って、両艦の勇敢なる行為と作業とに深き謝意を表する」
マルタの『第二特務艦隊』司令部には、当時海軍大臣だったチャーチルから謝意を伝える電報が届いたという。
更に、『榊』『松』両駆逐艦の艦長以下27人にはイギリス国王・ジョージ5世から勲章が授与された。
この救出劇のあと、『第二特務艦隊』には護衛の依頼が殺到。司令官の佐藤皐蔵少将は各国から勲章を受けている。
だが、トランシルヴァニア救出から1ヶ月後、『榊』は魚雷攻撃を受けて大破。59人が犠牲になった。 その駆逐艦・『榊』乗組員の遺族を訪ねた。旗艦大尉として『榊』に乗り組んでいた荒木さんの祖父は急死に一生を得たという。
荒木純夫さん「これはですね(当時名古屋新聞に出た)号外なんですけど、、」
当時の号外は、『榊』が撃破され、愛知県出身の『荒木拙三大尉が死亡』と報じている。
荒木純夫さん「祖母の話によるとですね、白木の位牌を作ってもう拝んでたと、そういう状態だったらしいんですよね。でポンと祖父が帰ってきてびっくりしたと聞いてるんですよ。」
これが帰還当時の荒木大尉。攻撃を受けた時、船の前方にいた艦長以下59人が死亡したが、荒木大尉は奇跡的に難を逃れた。
荒木純夫さん「魚雷攻撃を受ける5分前までブリッジにいて艦長の隣に立ってたんですね。でたまたまもうお昼ご飯にしようと船の後部の機関室に移動していて一命を取り留めてるんですよ。祖父はおひつを抱えてご飯をよそってたらしいんですよね。そこにドカーンときたという話を聞いてます。」
荒木さんは<一世紀前の新聞記事や祖父の写真を日本からヨーロッパ戦線に派遣された『第二特務艦隊』の戦歴を伝える貴重な資料として英文の説明を加え、インターネット上で公開している。 すると思わぬ人物から書き込みがあった。
荒木純夫さん「それがなんとですね、祖父が乗っていた駆逐艦・『榊』はオーストリア海軍のUボートの攻撃を受けてるんですけども、そのUボートの魚雷士のひ孫さんから連絡がありまして、祖父を攻撃した人達の顔写真とかU-ボートがどんなものか全部分かったんですね。」
日本と、敵国・オーストリアの兵士の孫とひ孫同士が1世紀の時を超え、繋がった。
『第二特務艦隊』の駆逐艦の面影を今も見ることが出来る場所がある。
北九州市にある「軍艦防波堤」・・・これは『第二特務艦隊』で活躍した駆逐艦・『柳』の船体を利用して造った防波堤だ。
1995年、マルタに寄港した海上自衛隊練習艦隊は慰霊碑を訪れ、献花した。
ヨーロッパを主戦場にした第一次世界大戦。その後の世界情勢を大きく変えた人類初の世界大戦に日本が参戦した記憶は遥か地中海にひっそりと残っている。
(VTR終了 スタジオトークはやや要約)
(中略)
小松アナ「去年、安倍総理は、中国の台頭に『今のアジアは第一次世界大戦前夜に似ている』という話をしていた。アメリカの覇権は20年位、、特にここ最近とみに弱ってる感じがするが?」
ロバート・キャンベル氏「及び腰・戦えないアメリカと言われている。
第一次世界大戦の後半に参戦してアメリカも一応戦勝国となったが、その後全てヨーロッパから引き上げてもう干渉しないと非常に内向きになった、あとで見ると、ナチス・ドイツ台頭と第二次世界大戦を回避できなかったのかというのは米国内でも検証されている。
大きな犠牲からの教訓もあるが、良かった事も付け加えると、何百何人の女性が戦争の最中に工場・職場に行き、それが戦後、男女同権に繋がったり、ウクライナ・ポーランドが独立した。」(東京大学大学院教授)
外岡氏「今まで日本ではほとんど研究者が居なかったが、最近注目を集めている。中東の混乱の出発点が帝国崩壊の後始末の失敗。」
小松アナ「そのほころびの1つがウクライナ。(今のイラクも:キャンベル) 民族自決権を認めたかどうかが今も大きな問題になっている。
だから『第二特務艦隊』の働きも含めて、なぜ我々は知らないか。(知らない:木佐) 歴史教育も含めてもう一回ちゃんと伝えていく必要がある、今日は良い特集だったと思う。」以上
海上自衛隊練習艦隊が慰霊碑を訪れて、整列して献花した場面はジーンときました。
(ちなみに「1921年、摂政裕仁親王は、訪欧の際にマルタ島の二特戦死者慰霊碑への訪問を強く要望した。」そうです。)
で、海軍派遣の件ですが、当時ロシアがウザかったから日英同盟(1902-1923年)はとても重要だったし、
イギリスが要請したらそりゃ日本海軍の成り立ちからして断れません。
それに日露戦争(1904-1905年)の時には、金欠の日本に英国は外債を引き受けてくれたりもしたし、
あの「坂の上の雲」でお馴染みの"三笠 "などの建造もだけど、ダグラス教官団(イギリス海軍顧問団)の海軍教育とか、日本帝国海軍の成り立ちはイギリスのお陰様だし、恩があったんです。
当時9条もないし、何より日本人気質として困ってるのを見てみぬ振りできなかったんでしょうね。
小松アナの「『第二特務艦隊』の働きも含めて、なぜ我々は知らないか」という問い、これを考える良い機会だと思います。
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BS朝日【いま世界は】(6/29)、いませか特集で
「第1次世界大戦百年」と題してやっていたんですが、その中で「知られざる第一次世界大戦と日本の関係」の部分だけ記録しました(青字はナレーション)
一応日本は戦勝国なんだけど、正直、第一次世界大戦の話って日本人はよく知りませんよね。
日本の海軍が活躍して多くの人を救助していたのも知らなかったけど・・いい話です
木佐氏「コチラは地中海のマルタ共和国にある日本海軍の慰霊碑です。なぜ地中海にあるのか、知られざる第一次世界大戦と日本の関係です。」
安倍総理「忘れてならないのは来年丁度その勃発から100周年を迎える『グレートウォー(第一次世界大戦)』において、日本海軍将兵は並外れた操艦技術を発揮をし、英国船護衛に成果を挙げ、『地中海の守護神』と呼ばれた事実です。」
安倍総理が言う、『地中海の守護神』とは、第一次世界大戦で地中海に遠征した大日本帝国海軍『第二特務艦隊』を指す。その事実を今に伝えるものが地中海の島国に残っていた。
地中海で戦死した帝国海軍兵士の慰霊碑がマルタのイギリス海軍基地内に人知れず建っている。
なぜ地中海なのか? なぜ派遣されたのか? そして『第二特務艦隊』とは。
古い写真帳がある。ここには第一次世界大戦に参戦し、地中海へ派遣された大日本帝国海軍『第二特務艦隊』の軍務が記録されている。 地中海の島国マルタ第一次世界大戦当時、イギリス海軍の補給基地となっていた。『第二特務艦隊』は、開戦3年後の1917年4月からそこに派遣された。
任務は連合国側の船舶の護衛だった。開戦翌月の8月に連合国の1員として参戦した日本はドイツ疎開地の攻略などアジアでの軍事作戦が中心だった。
参戦の背景となった日英同盟に遠くヨーロッパまで派兵する義務は無かったが、連合国はイギリスを中心に繰り返し日本に派兵を要請する。
石津明之氏「参戦する義務はないんですけども、当然、同盟国であるイギリスが戦って苦労している中で日本が『自分達は関係ないという態度が取れるのか』という考えを持ってましたし、その機会を上手く利用して日本がアジア、とりわけ中国大陸への地歩を固めていこうという意味で当時の外務大臣だった加藤高明という人は『非常にいいチャンスだ』という事で主導して、あとに出てくる地中海への艦隊派遣に繋がったと思いますねぇ」(防衛研究所)
当時の地中海は、ドイツの潜水艦・Uボートの攻撃で"魔の海"と呼ばれる危険なエリアだった。 駆逐艦・『榊』と『松』がイギリスの輸送船『トランシルヴァニア』の護衛任務についていた1917年5月。
マルセイユを出た輸送船の左舵後方にドイツ軍の魚雷が命中した。『松』は直ちに攻撃された乗組員の救出にあたるが、その最中、更に2発目の魚雷が迫ってきた。『松』の乗組員の日記にはこうある。
- 一条の航跡を残して真一文字に疾走してきているではないか。後甲板からの観測ではちょうど松の艦橋下位を狙っているように思われて、到底命中を避け難いものと観念の目を瞑った -
魚雷は『松』の10m前方をかすめて輸送船の中央部に命中してしまう。
この時、『榊』はわずか5分で1000人もの兵員を収容する手際の良さだった。その時の写真がコレだ。
その後、かけつけた別の艦船と3000人を救助。こうした救助は非常に危険を伴うという。
石津氏「ドイツ海軍の潜水艦がまだ自分達の周りをうようよしているかも知れないし、自分達がトランシルヴァニアの近くで止めた瞬間に撃ってくるかも知れないという危険がある上で、それを承知の上で救助活動に向って、出来る限りの人命を助けたと、、」
駆逐艦の迅速な行動はイギリス海軍司令部を驚かせた。
「英国海軍及び英国海軍省の名を持って、両艦の勇敢なる行為と作業とに深き謝意を表する」
マルタの『第二特務艦隊』司令部には、当時海軍大臣だったチャーチルから謝意を伝える電報が届いたという。
更に、『榊』『松』両駆逐艦の艦長以下27人にはイギリス国王・ジョージ5世から勲章が授与された。 この救出劇のあと、『第二特務艦隊』には護衛の依頼が殺到。司令官の佐藤皐蔵少将は各国から勲章を受けている。
だが、トランシルヴァニア救出から1ヶ月後、『榊』は魚雷攻撃を受けて大破。59人が犠牲になった。 その駆逐艦・『榊』乗組員の遺族を訪ねた。
旗艦大尉として『榊』に乗り組んでいた荒木さんの祖父は急死に一生を得たという。
荒木純夫さん「これはですね(当時名古屋新聞に出た)号外なんですけど、、」
当時の号外は、『榊』が撃破され、愛知県出身の『荒木拙三大尉が死亡』と報じている。
荒木純夫さん「祖母の話によるとですね、白木の位牌を作ってもう拝んでたと、そういう状態だったらしいんですよね。でポンと祖父が帰ってきてびっくりしたと聞いてるんですよ。」
これが帰還当時の荒木大尉。攻撃を受けた時、船の前方にいた艦長以下59人が死亡したが、荒木大尉は奇跡的に難を逃れた。
荒木純夫さん「魚雷攻撃を受ける5分前までブリッジにいて艦長の隣に立ってたんですね。でたまたまもうお昼ご飯にしようと船の後部の機関室に移動していて一命を取り留めてるんですよ。祖父はおひつを抱えてご飯をよそってたらしいんですよね。そこにドカーンときたという話を聞いてます。」
荒木さんは、一世紀前の新聞記事や祖父の写真を日本からヨーロッパ戦線に派遣された『第二特務艦隊』の戦歴を伝える貴重な資料として英文の説明を加え、インターネット上で公開している。
すると思わぬ人物から書き込みがあった。
荒木純夫さん「それがなんとですね、祖父が乗っていた駆逐艦・『榊』はオーストリア海軍のUボートの攻撃を受けてるんですけども、そのUボートの魚雷士のひ孫さんから連絡がありまして、祖父を攻撃した人達の顔写真とかU-ボートがどんなものか全部分かったんですね。」
日本と、敵国・オーストリアの兵士の孫とひ孫同士が1世紀の時を超え、繋がった。 『第二特務艦隊』の駆逐艦の面影を今も見ることが出来る場所がある。
北九州市にある「軍艦防波堤」・・・これは『第二特務艦隊』で活躍した駆逐艦・『柳』の船体を利用して造った防波堤だ。
1995年、マルタに寄港した海上自衛隊練習艦隊は慰霊碑を訪れ、献花した。
ヨーロッパを主戦場にした第一次世界大戦。その後の世界情勢を大きく変えた人類初の世界大戦に日本が参戦した記憶は遥か地中海にひっそりと残っている。
(VTR終了 スタジオトークはやや要約)
木佐氏「今夜は第一次世界大戦から何を学ぶべきかを考えているが、こういうのを知ると第一次世界大戦は他人事ではないなと、、」
外岡氏「マルタは騎士団が開発した地中海の要衝で、海軍が最も重要視していた場所。第一次世界大戦で何を学ぶかというと私は塹壕戦、総力戦だと思う。全ての国民が戦争に動員されるという戦争の新しい局面に移り変わった戦争。
日本では戦勝国としてパリ講和条約に参加したり、国際連盟で常任理事国になったりしたので、きちんとその悲惨さが当時認識されてなかった気がする。なので学ぶべきは、いかに欧州が多くの犠牲を払ったのかを受け止める事。」(元朝日新聞編集委員)
阿達氏「今のアジアの状況は第一次世界大戦の前のヨーロッパと似てるという話がよくある。
大英帝国の覇権が崩れてそこに新興国ドイツがドンドン台頭した状況と、今のアメリカの覇権と日本の経済に中国がドンドン台頭している状況。
覇権が移り変わる時は色んなことが起こりやすく、権力の空白が起こりやすい。そういう時にそれぞれの国のリーダーがどういう対応をするのか。単に国民に強硬な姿勢を訴えればいいのか非常に難しいところ。
第ニ次世界大戦も、英独間でミュンヘン危機の時にイギリスがドイツに強硬姿勢を示せず、したいままにさせてしまったのが結びついた。
そのミュンヘンの教訓に学ぶのか、サラエボの教訓に学ぶのか、これは今のアジアにとって非常に大事な問題。」(米国ニューヨーク州弁護士)
小松アナ「去年、安倍総理は、中国の台頭に『今のアジアは第一次世界大戦前夜に似ている』という話をしていた。アメリカの覇権は20年位、、特にここ最近とみに弱ってる感じがするが?」
ロバート・キャンベル氏「及び腰・戦えないアメリカと言われている。
第一次世界大戦の後半に参戦してアメリカも一応戦勝国となったが、その後全てヨーロッパから引き上げてもう干渉しないと非常に内向きになった、あとで見ると、ナチス・ドイツ台頭と第二次世界大戦を回避できなかったのかというのは米国内でも検証されている。
大きな犠牲からの教訓もあるが、良かった事も付け加えると、何百何人の女性が戦争の最中に工場・職場に行き、それが戦後、男女同権に繋がったり、ウクライナ・ポーランドが独立した。」(東京大学大学院教授)
外岡氏「今まで日本ではほとんど研究者が居なかったが、最近注目を集めている。中東の混乱の出発点が帝国崩壊の後始末の失敗。」
小松アナ「そのほころびの1つがウクライナ。(今のイラクも:キャンベル) 民族自決権を認めたかどうかが今も大きな問題になっている。
だから『第二特務艦隊』の働きも含めて、なぜ我々は知らないか。(知らない:木佐) 歴史教育も含めてもう一回ちゃんと伝えていく必要がある、今日は良い特集だったと思う。」以上
海上自衛隊練習艦隊が慰霊碑を訪れて、整列して献花した場面はジーンときました。
(ちなみに「1921年、摂政裕仁親王は、訪欧の際にマルタ島の二特戦死者慰霊碑への訪問を強く要望した。」そうです。)
で、海軍派遣の件ですが、当時ロシアがウザかったから日英同盟(1902-1923年)はとても重要だったし、イギリスが要請したらそりゃ日本海軍の成り立ちからして断れません。
それに日露戦争(1904-1905年)の時には、金欠の日本に英国は外債を引き受けてくれたりもしたし、
あの「坂の上の雲」でお馴染みの"三笠 "などの建造もだけど、ダグラス教官団(イギリス海軍顧問団)の海軍教育とか、日本帝国海軍の成り立ちはイギリスのお陰様だし、恩があったんです。
当時9条もないし、何より日本人気質として困ってるのを見てみぬ振りできなかったんでしょうね。
あと、日露戦争後、ガーター勲章を明治天皇に贈られてました
日本に対しては、日英同盟の関係から1906年に明治天皇が東アジアの国の元首として初めて贈られ、以後の歴代天皇も授与されている。大正天皇は1912年、昭和天皇が1929年にそれぞれ叙勲されたが、第二次世界大戦中は敵国となったため昭和天皇の名前が騎士団の名簿から抹消され、バナーも撤去された。しかし、1971年10月のイギリス訪問時に復帰し、今上天皇も1998年のイギリス訪問時に他国の王室に授けられる“Stranger Knights and Ladies”のガーター勲章に叙せられた。
1902年にモザッファロッディーン・シャーに対して贈られて以降、日本の天皇以外で非キリスト教徒の外国君主が叙された例はなく、エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世が退位により団員資格を喪失した1974年以降は、ヨーロッパ人以外でガーター騎士団に叙されているのも日本の天皇のみである。
で、日本からは最高位の勲章「大勲位菊花章頸飾 」を贈っています
エドワード7世 イギリス国王 1902年(明治35年)[9] ジョージ5世 イギリス国王 1911年(明治44年)[9]
そういう関係性だったわけです。
小松アナが言ってるように、第一次世界大戦って歴史教育としてあまり詳しく習ってないので、第一次世界大戦100周年をきっかけに少しずつ掘り起こすべきだと思いました。
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