竹島アシカ
韓国で英雄視されている、「独島義勇守備隊」(一方的に武力を行使した民間義勇隊)が、竹島侵略の始まりです。
殉職すれば国家功労者として国立墓地に埋葬される英雄?なんですが、そのお決まりの英雄伝説の壮大な誇張がバレました
私も以前、竹島アシカの件で、この「独島義勇守備隊」を記事にしていたんですが、韓国メディアの受け売りで、疑いなく33人だと思い込んでいましたよ(苦笑) という事で、改めて記録しておきます。
まずはこの件を簡潔にまとめられている シンシアリーさんのブログ (8/3)から
韓国の英雄「独島義勇守備隊」、勲章欲しさに隊員の数を水増しか・・韓国のネットメディアが報道
・「国軍傷痍勇士(※)で構成された33人が独島を守るために兵舎を建て、武器を用意し、独島近海に出没した日本の巡視船と戦って追い返した」
※公務による負傷などで軍をやめた人たち
・1996年8月16日、東亜日報は小学四年生の教科書「社会と探求」に↑のような内容が掲載されたと報道した。独島義勇守備隊33人の英雄の話だ。
・1996年国家報勲処が推薦して閣議で議決された独島義勇守備隊への国土守護有功者の栄誉授与が行われた。独島義勇守備隊は1953年4月から1956年12月までの3年8ヶ月の間活動した。鬱陵島の青年たちが憤然と立ち上がって独島を守ったという内容だ。公的調書にも、その期間中に「劣弱な環境の中で何度も日本の侵入を撃退した」となっている。
・だが、「メディア今日」の調査によると、この歴史は嘘である。
・実際の活動期間はずっと短い。1956年の調査によると、そんな組織はすでに存在しなかった。1954年には鬱陵島住民による自衛団が結成されたが、独島義勇隊はその前身にすぎない(すでに1954年には別の組織に入れ替わっていた)可能性が高い。・隊員の数が水増しされている。資料(隊員が軍を離れた時期など)に基づいたものだけでも、6人の隊員が偽物だ。
・義勇隊のH隊長は隊員33人全員に勲章や補償を要求した。その33人には彼の妻が含まれているなど、家族や知り合いにも勲章を与えるために隊長が隊員の数を増やした可能性が高い。実際、当時の警察局や住民たちはそういうH隊長を非難していた。警察局には例の6人に何の功績もないことを記した記録がいまでも残っている。
・日本の巡視船を追い返したのも彼らではなく、該当地域の警察だ。警察記録にも残っているし、韓国側の警察が抗議している内容が当時の日本の雑誌などにも載っている。
・武器や兵舎も政府の支援によるものであり、当時政府は彼らを積極的に支援していた。
・政府もマスコミも、(調べるとすぐにわかることなのに)口を閉ざしている。・・
無かったものに肉付けして強引に仕立てていく・・・挺対協のやり口とちょっと似てますね。
ちなみにH隊長というのは、1954年、洪淳七(ホン・スンチル)隊長の事で、東島の岩肌へ「韓國領」と彫らせた人。
この竹島侵略の元となった「独島義勇守備隊」自体が、豆みたいなものを象のような話にしてるんですが、新潟日赤センター爆破未遂事件に係わった工作員12名が戦没者として祀られた「護国英霊」施設・顕忠院にも祀られている人もいます。
《「顕忠日」の記念式典でパク・クネ大統領の国民との約束。そもそも国立顕忠院とは? 【韓国KBS】》2014年06月07日 より
・・・あ~、あとついでに「護国英霊を祀る」にしてはあまりにもショボイ。やっぱ異常な国だという事例を1つ紹介・・
独島義勇守備隊記念事業会、「独島大勝日」を宣言…水土奉呈式行う
独島(ドクト、日本名・竹島)義勇守備隊記念事業会が21日を独島大勝日とすると宣言した。独島大勝日は1954年11月21日に独島義勇守備隊が独島に接近する日本の武装巡視船2隻を迫撃砲で撃退させた戦闘を記念する日だ。
この日事業会は大田(テジョン)顕忠院(ヒョンチュンウォン)にある独島義勇守備隊員の墓地に独島の水と土を供える「独島水土奉呈式」を行った。生存隊員であるオ・イルファン氏とチョン・ウォンド氏が遺族らと共に故イ・ヒョンウ隊員の墓地に独島の水と土、独島の模型を捧げている。
1953年に日本の不法独島占領計画により故ホン・スンチル隊長など33人が義兵を組織した独島義勇守備隊は現在のチョン・ウォンド、オ・イルファン氏を含む、計9人だけが生存している。国立大田顕忠院にはイ・ヒョンウ隊員とキム・ビョンヨル隊員が埋葬されている。なんか日本と戦って殉職したっぽく書いてあるけど・・?尚、この独島義勇軍の蛮行に関してはコチラ
《韓国KBS「日本の軍国主義復活に警告する為に独島(竹島)上陸、与野党は一丸となり日本の歴史歪曲や妄言を糾弾する構えです」 【ワールドWave】》2013年08月14日
とにかく日本を敵視して死んだら、烈士・義士として護国英霊になれるようです。 靖国に文句つける前に、この施設をなんとかしろっ!と思いません!?
で、例えば、竹島のアシカの件!、韓国側は「日本が絶滅させた」と批判していますが、独島義勇守備隊が取引に使う為に殺していました。
そもそもこの頃、日本人は一切竹島に近づけなかったんだから、この独島義勇守備隊が絶滅させた事になりますね。
《『私たちの島~竹島問題解決のためには~』、絵本「メチのいた島」完成 前半 【TSKスーパーニュースSP】》 2013年03月03日 より
・・で、後半の記事に関連する、ニホンアシカを独島義勇守備隊が射撃の的にして絶滅させたわけですが、その凶暴性を報じた(白状した)記事をお読みください。
常習的に侵犯する日本人を決死阻止した独島義勇守備隊 2012年08月19日 [ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]
写真拡大 独島義勇守備隊。 1954年11月21日明け方、日本の海上保安庁の艦艇3隻が独島(トクト、日本名・竹島)に接近した。1000トン級PS-9、PS-10、PS-16艦は、左右と中央から島を包囲した。日本の航空機も旋回した。600メートル前。拳銃の音とともに一斉射撃が始まった。M-1小銃が火を吹いた。迫撃砲弾はPS-9艦の甲板に当たった。PS-10艦も暗雲のような煙を吐き東に逃げた。(ホン・スンチル『この地がどこの地なのか』)
53~54年に入り独島を侵した日本は痛手を負った。死傷者は16人。
恐れを知らずに銃と大砲を海上保安庁の艦艇に撃ちまくった彼らは独島義勇守備隊だった。日本人の山座円次郞が独島を飲み込もうとする陰湿で凶悪な計略を出して50年余り、体で独島を死守した彼らが義勇守備隊だ。
独島義勇守備隊構想は機甲部隊の傷痍軍人出身ホン・スンチル(当時23歳)のアイデアだった。鬱陵島(ウルルンド)出身で軍に入隊し韓国戦争で負傷して52年7月に島に戻った彼は、ある日杖をついて鬱陵警察署長を訪ねおかしなものを見る。「島根県隠技郡五箇村竹島」と書かれた標木だ。日本が独島を自分の土地だとした表示を韓国の漁夫がはずしてきたのだ。
血が沸き立った彼はまもなく守備隊組織に着手した。警察からいくつかの銃器の貸与を受け合宿訓練もした。戦争中である2軍と慶北(キョンブク)兵事区司令部を訪ね小銃、拳銃、軽機関銃1丁を得た。釜山(プサン)のヤンキー市場に行きアシカ1頭と引き替えに拳銃と小銃を取得した。すべて自費だった。そのように編成された義勇軍は15人規模の戦闘隊2組、補給連絡担当3人、予備隊5人、補給船船員5人など45人だった。装備は軽機関銃2丁、M-2小銃3丁、M-1小銃10丁、拳銃2丁、手榴弾50発、0.5トンのボート1隻。53年4月20日に義勇隊は独島の西島に上陸した。すぐ日本の独島侵犯が始まった。5月28日午前11時ごろ、日本の水産試験船島根丸が船員30人を乗せて現れ6人が上陸した。魚を釣っていた韓国人漁夫30人余りを不法に調査した。6月にも艦艇2隻が米国旗を掲げ独島西島に表示板を作った。
義勇守備隊は6月24日に日本の水産高校の実習船を西島の150メートル前で捕まえ、「独島は韓国領」であることを周知させ解放した。7月12日午前5時、日本のPS-9の侵犯時は真価を発揮した。艦艇の90メートル前から軽機関銃で200発を打ち込んだ。
53年7月の休戦後、韓国政府が警察4人を少しの間派遣し、海兵隊815-LST艦が一時立ち寄り、慶尚北道(キョンサンブクド)警察局長が慰問に来たが義勇対を代替できなかった。その渦中に日本は8月に5回、9月に2回、10月に1回と何度もやってきた。韓国当局はほとんど知らなかった。ホン・スンチルは8月に彼らが接近するのが目撃された時は銃を撃って阻止した。
54年にも侵犯は続いた。10月2日に現れた日本の船は、義勇守備隊が作った木製のにせの大型大砲にだまされ逃げた。侵犯は11月21日の義勇隊の攻撃後に消えた。このように義勇隊は56年12月30日まで独島を守り国に任務を引き渡した。3年8カ月にわたった。彼らがいなかったら独島は日本の実効支配に置かれかねなかった。義勇隊は66年の防衛勲章を受けた。輝かしい活動に対する報いにはみすぼらしかった。
そして韓国マスコミも、妄言をずーっと報じ続けていました
<インタビュー>独島義勇守備隊長の未亡人、パク・ヨンヒさん 聯合ニュース-2011/08/13
【九里聯合ニュース】1953年から1956年まで、日本から独島を守ったホン・スンチル独島義勇守備隊長の未亡人、パク・ヨンヒさんは日本が独島の領有権を主張し、海外地図に東海が「日本海」と表記されている一連の事態に興奮を隠せなかった。パクさんは20歳にホン隊長と結婚し、独島に近い鬱陵島で生活した。パクさんも独島義勇守備隊の隊員として活躍し、武器と食糧の供給を担当していた。
守備隊は朝鮮戦争後に地元の鬱陵島に戻った軍人21人と住民12人により、1953年に結成された。当時は武装艦艇の護衛を受けた100トン級の日本漁船が独島や鬱陵島付近に頻繁に出没し、韓国の漁師を追い払った時期だった。
日本は朝鮮戦争直後、韓国内の状況が混乱していた隙を突き、実効的支配を通じ独島を所有しようとした。だが、韓国は力がなかった。守備隊の武器は朝鮮戦争で使っていた小銃と迫撃砲だけで、政府の支援はなかったという。守備隊は劣悪な環境でも約50回にわたり日本の武装艦艇と戦った。
日本の艦艇3隻が出動し、空では戦闘機が守備隊を脅した1954年11月の戦闘では「全員が命を落とすと思った」という。だが、日本側は砲弾を撃たなかった。武力を誇示することで、独島をあきらめさせようとする意図だった。
パクさんは「日本は砲を撃てば、国際問題に飛び火することを懸念した」と話す。「これは独島を韓国領土と認めていることを裏付ける。自分の領土なら守備隊は(独島を)侵略しているはず」と声を上げた。
33人が命がけで対抗したため、日本艦艇は徐々に減った。この頃、守備隊の資金も底を打ち、余力はなかったという。1956年、守備隊の隊員10人が警察に任官され、警察が独島の警備を担当することになり、守備隊は解散した。
ホン隊長はその後、独島に住民が暮らせる住宅を建てるため、奔走した。1969年と1972年、開発計画書を独島が属する慶尚南道に提出したが無視された。1976年に提出した時は予算がないとの返信が来た。情報機関に3日間拘留され、「これからは独島に触れるな」と強要されたこともあった。
パクさんは「政権が日本の顔色をうかがった。弱小国の悲哀だった」と涙を流した。
守備隊の33人のうち、23人がなくなった。パクさんは「今からでも遅くない。日本よりも独島を勉強し、研究する人材を育てなければならない」と話す。「韓国も大国の仲間入りを果たそうとしているだけに、日本の無理な行為を座視してはならない」と語気を強めた 。
この独島義勇守備隊長の未亡人の証言も、ほぼ嘘
約50回にわたり日本の武装艦艇と戦った。・・ここだけ見ても大嘘だと分かりますね
そもそも一方的な砲撃を、「戦った」とは言わない。・・やはりこういう事かな
慰安婦問題が針小棒超大になった経緯もこんなもんだと思いますよ。最後に、元記事が消えているので、2006年の2ちゃんねる記事で締めくくります。その実体は漫才みたいなオチです
【韓国】独島義勇守備隊、95%が嘘!~『独島義勇守備隊に英雄は居なかった』[10/30]
・・・これは亡くなった洪淳七大将が1978年に代筆して発行した『独島守備隊』という本です。本(独島 守備隊)の『いよいよ大接戦』本文175ページから…
>> ドカーン!タタタ…、迫撃砲の初発が発射されると同時に、隊員達は一斉に歓声を上げた…』
>> 「迫撃砲16発、機関銃3、000発以上です!」
>> 「砲台長、ソ・ギジョン万歳!]
>> 洪淳七は天辺に上がり周辺を一周見回した。三隻の敵艦は、遠く水平線上にぼんやり消えてから
>> 発見されなかった。
>> …洪淳七は隊員達から、ある超人的な能力の持ち主であると評価された。
洪氏はこの本を通じ、独島義勇守備隊の活躍の姿と彼らの犠牲を述べました。
ソース:NAVER/oh my-TV(韓国語)
http://news.naver.com/news/read.php?mode=LSD&office_id=118&article_id=0000001632
(>>2以降につづく)2 :ちょーはにはにちゃんwφ ★:2006/10/30(月) 12:29:17 ID:??? (>>1のつづき)
■チェ・ホンシク=「…、90%嘘だね。これが何故90%嘘って?、95% 嘘だ!。(鬱陵島の)知り合いは全員洪淳七大将が、どうして(独島に)警備に行ったのか…水浴びしに行ったんだ」
■ソ・ギジョン[78歳:蔚山(ウルサン)広域市:1954年独島義勇守備隊・第一戦闘大将]=「(独島義勇守備隊の)銃撃戦を私が?(独島に)行ったけれどそんな事はありません!」
実は取材陣は確認の為に、去る9月末から浦項と鬱陵島の現地を訪問し、当時の状況を憶えている
元警察官や生存している独島義勇守備隊員に会いました。取材陣はこの過程で知られていない事実を発見しました。
<2>:【独島義勇守備隊員は33名?3年8ヶ月独島警備?】
現在、独島義勇守備隊員33名は昨年、ヨルリンウリ党の田炳憲(チョン・ビョンホン)議員の提案で設けられた独島義勇守備隊特別支援法により、国家の有功者に準した待遇を受けています。しかし名簿に載っている33名の中には、独島に行ていない人も多数含まれている事が明らかになりました。
■イ・ギュヒョン=「(1996年の保国勳章を授与の際に) 33名が挙げられているが、原則的に報勳を取り計らって望めば事故も起こらなかったが、勲章を授かろうとソウルに行くと、独島に行っていない人達が居るんですよ」
また、当時の状況を憶えている元警察官達は、これらが独島警備よりもワカメ採取の為に独島へ行ったと証言しました。
■キム・サンリ[78歳:慶北浦項市:1950年代鬱陵警察の警査)=「署長がワカメでも採るようにと…3年を暮らす事にしたんです。軍需しながら3年間ワカメを採る事にした。4月の中旬です」
1953年当時、鬱陵警察で警査の仕事をして巡視船と海上談判をしたチェ・ホンシクさん。チェさんは、 独島義勇守備隊員らが1954年の4月初旬に独島に行った後、ワカメ採取が終わった3ヶ月後に鬱陵警察と引き継ぎを終えたと説明しました。
■チェ・ホンシク=「(独島義勇守備隊が)警備をしたといっても僅か。したと言うのはせいぜい2ヶ月 程度、しかしこれを3年8ヶ月の間をワカメ採りをしたのではなく警備をしたが…」
4 :ちょーはにはにちゃんwφ ★:2006/10/30(月) 12:29:36 ID:??? (独島守備隊の本を)見ると1954年の7月に(警察が)宿舎を建てに(独島に)息ました。この時 、(鬱陵警察が)警備を引き受けたと思いますが。その過程で一部の独島義勇守備隊員達は鬱陵警察に特別 採用されています。
■チョン・ウォンド[78歳:慶北鬱陵郡:1954年、独島義勇守備隊・第2戦闘大将]=「独島に行った経歴があるので、私達が鬱陵島の警察署から特別に採用されたんです」
<3>:【独島義勇守備隊は鬱陵警察署が任命した『義勇警察』?】
当時のこれらの過程に深く関与したキム・サンリさんは、独島義勇守備隊員が独島に行って武器を持つ事ができたの鬱陵警察署長の支援があったからと強調しました。
■キム・サンリ=「義勇警察という名前の下に洪淳七には警査、拳銃も与え、約10人だと憶えているが38式、99旧式を貸して貰えた。
独島義勇守備隊の歴史は、皆誰も疑う事の無かった『英雄談』でした。しかし韓日の独島紛争の状況で洪淳七氏は歴史を操作しました。短かった独島の生活の誇張と、独島に行った事が無い人々に対する英雄化。
今は彼らの真実が、まな板の上に上がるようになりました。
備考(独島義勇守備隊活動期は1953年から1956年までとされている)
韓国軍による日本人漁民殺害や日本漁船拿捕
1952年1月18日に韓国の李承晩大統領によって海洋主権宣言に基づく漁船立入禁止線(いわゆる李承晩ライン)がひかれ、竹島が韓国の支配下にあると一方的に宣言した。1952年のこの宣言から1965年(昭和40年)の日韓基本条約締結までに、韓国軍はライン越境を理由に日本漁船328隻を拿捕し、日本人44人を死傷(死亡者数は不明)させ、3,929人を抑留した[15]。韓国側からの海上保安庁巡視船への銃撃等の事件は15件におよび、16隻が攻撃された。
1953年(昭和28年)1月12日、韓国政府が「李承晩ライン」内に出漁した日本漁船の徹底拿捕して以後、日本漁船の拿捕や銃撃事件が相次ぎ、日本の漁業従事者に死傷者が多数出る事態となった。同年2月4日には第一大邦丸事件が発生した。済州島付近で同船の漁労長が韓国側に銃撃を受け死亡。また日本人漁師の瀬戸重次郎が殺害されている。
同年4月20日には韓国の独島義勇守備隊が、竹島に初めて駐屯。6月24日、日本の水産高校の船舶が独島義勇軍守備隊に拿捕される[23]。6月27日に日本の海上保安庁と島根県が竹島調査を行い、「日本島根県隠岐郡五箇村」の領土標識を建て、竹島に住み着いていた韓国の漁民6名を退去させた。すると、7月12日に竹島に上陸していた韓国の獨島守備隊が日本の海上保安庁巡視船「へくら」(PS-9[23]) に90mの距離から機関銃弾200発を撃ち込む事件が起きる[23]。
以後、韓国は竹島の武装化を進め、日本の艦船の接近を認めていない。日本政府はこの韓国による竹島を武装化する動きに抗議しているが、韓国側は「内政干渉」として退けている。
なお当時韓国には拿捕の法的根拠である漁業資源保護法は施行されておらず、日本漁船拿捕は国際法また韓国国内法においても非合法的な行為であった[24]。この韓国の行為に対して日本の水産庁は「他国の類似事例とは比較にならないほど苛烈」と評した[25]。
また、韓国李承晩体制下に行われたかかる行為を、1960年駐日米国大使ダグラス・マッカーサー2世は、国務省への機密電文[26]の中で「国際的な品行や道徳等の基本原理を無視した実力行使の海賊行為」と表現し、「日本人は李承晩の占領主義的手法で苦しんでいる」と訴えている[27]。
にほんブログ村 ←ちょっと共感!の方はポチッとよろしく
NHK-BS【ワールドWave】韓国KBSで、韓国議員団の竹島上陸のニュースをやっていたので記録しました(青字はナレーション) 島根県の竹島で妄言を叫んでいます
コップの中だけでギャーギャー騒いでないで、早く国際司法裁判所に出て解決すりゃいいのにぃ~
アナ「明日の独立記念日を前に、政治家が相次いで独島(竹島)を訪問しています。昨日の、最大野党・民主党の幹部らに続き、明日は与党・セヌリ党の議員らが島に上陸します。」キム・ハンギル代表ら、民主党の指導部が独島を訪問しました。日本の軍国主義復活に警告を発する為に上陸したとして、日本が防衛白書に島を日本の領土であると明記するなど誤った行動を続けていると強く批判しました。キム代表です。
「明らかに暴言であり、歪曲に他なりませんっ。いかなる妄言や歪曲も独島が韓国の領土であるという事実を覆すことができませんっ。」
キム代表は、「日本が歴史に対して心からの謝罪と反省をする事で新たな韓日関係の未来が開かれる」と述べました。
民主党の指導部は、日本の政治家による妄言や右翼団体の集会など日本の右傾化を強く非難しました。
与党・セヌリ党の議員団も明日島を訪問して大型の国旗を掲揚し、国の花であるムクゲを警備隊に手渡す予定です。
政治家が島に上陸するのは昨年8月のイ・ミョンバ前大統領以来1年ぶりです。
独立記念日を前に与野党は一丸となって、日本の歴史歪曲や政治家の妄言を糾弾する構えです。以上
敵国だという事がドンドン明らかになってますね。去年もいろいろと海外でもキチガイ沙汰やってたけど
《韓国ニュース「日本は過去の歴史の反省なしに他国の領土を欲しがってる」日韓竹島対決・オーストラリア編 【ワールドWave】 》2012年8月16日 より抜粋
・・今年の5月にも、現地の韓国人がシドニー空港に掲げた独島の電光板が日本政府の抗議で4日目に撤去されるなど、海外でも日本の反応は非常に敏感で執拗です。
レポーター「新聞広告を載せた韓国系企業は、日本の圧力には屈しないとして、今後も独島が韓国の領土である事をオーストラリア国民に知らせる為に貢献したいと述べました。」・・
《韓国が独島手帳を中国で配布。島根県は竹島対策室設置。政府は領土・主権対策企画調整室を新設 【TSKスーパーニュース】》より
ちなみに、議員団が花をたむけている墓標みたいなのは、「独島義勇守備隊」の殉職者(?)のものと思われます。
《『私たちの島~竹島問題解決のためには~』、絵本「メチのいた島」完成 前半 【TSKスーパーニュースSP】》 より
・・・で、後半の記事に関連する、ニホンアシカを独島義勇守備隊が射撃の的にして絶滅させたわけですが、その凶暴性を報じた(白状した)記事をお読みください。
常習的に侵犯する日本人を決死阻止した独島義勇守備隊2012年08月19日12時22分 [ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]
写真拡大 独島義勇守備隊。 1954年11月21日明け方、日本の海上保安庁の艦艇3隻が独島(トクト、日本名・竹島)に接近した。1000トン級PS-9、PS-10、PS-16艦は、左右と中央から島を包囲した。日本の航空機も旋回した。600メートル前。拳銃の音とともに一斉射撃が始まった。M-1小銃が火を吹いた。迫撃砲弾はPS-9艦の甲板に当たった。PS-10艦も暗雲のような煙を吐き東に逃げた。(ホン・スンチル『この地がどこの地なのか』)
53~54年に入り独島を侵した日本は痛手を負った。死傷者は16人。
恐れを知らずに銃と大砲を海上保安庁の艦艇に撃ちまくった彼らは独島義勇守備隊だった。日本人の山座円次郞が独島を飲み込もうとする陰湿で凶悪な計略を出して50年余り、体で独島を死守した彼らが義勇守備隊だ。
独島義勇守備隊構想は機甲部隊の傷痍軍人出身ホン・スンチル(当時23歳)のアイデアだった。鬱陵島(ウルルンド)出身で軍に入隊し韓国戦争で負傷して52年7月に島に戻った彼は、ある日杖をついて鬱陵警察署長を訪ねおかしなものを見る。「島根県隠技郡五箇村竹島」と書かれた標木だ。日本が独島を自分の土地だとした表示を韓国の漁夫がはずしてきたのだ。
血が沸き立った彼はまもなく守備隊組織に着手した。警察からいくつかの銃器の貸与を受け合宿訓練もした。戦争中である2軍と慶北(キョンブク)兵事区司令部を訪ね小銃、拳銃、軽機関銃1丁を得た。釜山(プサン)のヤンキー市場に行きアシカ1頭と引き替えに拳銃と小銃を取得した。すべて自費だった。そのように編成された義勇軍は15人規模の戦闘隊2組、補給連絡担当3人、予備隊5人、補給船船員5人など45人だった。装備は軽機関銃2丁、M-2小銃3丁、M-1小銃10丁、拳銃2丁、手榴弾50発、0.5トンのボート1隻。53年4月20日に義勇隊は独島の西島に上陸した。すぐ日本の独島侵犯が始まった。5月28日午前11時ごろ、日本の水産試験船島根丸が船員30人を乗せて現れ6人が上陸した。魚を釣っていた韓国人漁夫30人余りを不法に調査した。6月にも艦艇2隻が米国旗を掲げ独島西島に表示板を作った。
義勇守備隊は6月24日に日本の水産高校の実習船を西島の150メートル前で捕まえ、「独島は韓国領」であることを周知させ解放した。7月12日午前5時、日本のPS-9の侵犯時は真価を発揮した。艦艇の90メートル前から軽機関銃で200発を打ち込んだ。
53年7月の休戦後、韓国政府が警察4人を少しの間派遣し、海兵隊815-LST艦が一時立ち寄り、慶尚北道(キョンサンブクド)警察局長が慰問に来たが義勇対を代替できなかった。その渦中に日本は8月に5回、9月に2回、10月に1回と何度もやってきた。韓国当局はほとんど知らなかった。ホン・スンチルは8月に彼らが接近するのが目撃された時は銃を撃って阻止した。
54年にも侵犯は続いた。10月2日に現れた日本の船は、義勇守備隊が作った木製のにせの大型大砲にだまされ逃げた。侵犯は11月21日の義勇隊の攻撃後に消えた。このように義勇隊は56年12月30日まで独島を守り国に任務を引き渡した。3年8カ月にわたった。彼らがいなかったら独島は日本の実効支配に置かれかねなかった。義勇隊は66年の防衛勲章を受けた。輝かしい活動に対する報いにはみすぼらしかった。関連記事
私が2006年に見た、山陰ローカルのこのドキュメンタリー番組で、竹島問題をしっかり捉え始めました
当時、嘘ばっかりついて議論しても論破されそうになると火病起こす韓国人のキチガイっぷりに唖然としたなぁ・・(遠い目)
日本のマスコミ、特にテレビは、韓国側のキチガイっぷりをありのまま日本国民に報じなければならないと思う・・まだまだお花畑が多くて・・・(;一一)
にほんブログ村 ←ちょっと共感!の方はポチッとよろしく