烈士墓地

2015年05月03日12:13国立カリバタ英雄墓地に眠る、インドネシア独立の為に戦った最後の残留元日本兵・小野盛さんの思い 【news every.サタデー】

日本テレビ【news every.サタデー】(5/2)で、

インドネシア独立の為に戦った数百人の残留元日本兵の中で、去年亡くなった最後の元日本兵がどのような思いでインドネシアに残ったのかを取材していたので記録しました(青字はナレーション)

残留日本兵の存在すら知らない日本人が多いけど、

人さし指民放のテレビが、もっとこういう先の戦争の側面の部分を普通に報じていったら、「日本は悪い国」という国民の洗脳も解かれていくかも。

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アナ「太平洋戦争当時、日本が占領・統治していたインドネシアでは終戦後数百人の日本兵が現地に残り、インドネシア独立の為に戦いました。」

女子アナ「去年亡くなった最後の日本兵、どのような思いでインドネシアに残ったのかその記憶を取材しました。」

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独立戦争を戦った戦士達が眠る東ジャワ市の(バトュ)英雄墓地。 

そこに出身地「北海道」、そして「ONO」という日本人の名前が刻まれています。 

去年、95歳で亡くなった小野盛さんの墓です。 

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オランダの植民地だったインドネシアは太平洋戦争中の1942年に日本が占領

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終戦で日本が撤退した後、オランダからの独立戦争に突入しました。

その戦いには現地に残った元日本兵、数百人も参加していました。

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陸軍に所属していた小野さん日本兵からなるゲリラ部隊に身を投じ、戦いで左手を失いながらもインドネシアが独立を勝ち取るまでの4年間戦い続けました

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独立後にインドネシア国籍を取得し、現地で結婚。多くの子供に恵まれました。躾には厳しい父親だったと言います。

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(小野盛さんの二男)エルスヨノさん「ちょっと厳しいけど、でも子供達の為だから厳しいね。」(日本語で)

インドネシア独立に貢献した英雄として国立の英雄墓地に埋葬された小野さん戦争については多くを語らず、ある言葉を繰り返していたと言います。

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エルスヨノさん『インドネシアの為の独立の為』だけ。お父さんが言ったのはそれだけ。」(日本語で)

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日本統治時代に、日本がインドネシアと交わした『将来の(インドネシアの)独立を認める』という約束を守るため、現地に残ったのだというのです。 日本人とインドネシア人の血をひくエルスヨノさん。日本にどのような思いを抱いているのでしょうか。

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エルスヨノさん「昔はインドネシア人の子供の中には日本人を見て恐れていた子供もいたけど。今は"オハヨウ"や"アリガトウ"と声をかける身近な存在になっている。過去をきちんと認識して、次の世代に生かさないといけないと思う」。

インドネシア独立の英雄を父に持つエルスヨノさん。歴史を認識した上で過去の悪を非難するだけでなく互いに未来を見据えて日本との関係をより良くしていければと望んでいます以上

日本は敗戦したけど、残留日本兵がその志を受け継ぎ、日本がインドネシアと交わした約束は守られました

そのインドネシア独立の為に残留した日本兵ですが、たくさんの命が犠牲になりました右

▲ 残留日本兵 1945年8月15日、日本の敗戦で中国や東南アジア諸国で多くの日本兵が取り残された。その後、帰国せず現地に留まった者もいる。インドネシアでは、オランダとの独立戦争に多くの日本兵が身を投じた。福祉友の会によると、約900人の日本兵が参戦し、531人が戦死や行方不明。324人が生き残りインドネシア国籍を取得。45人が日本へ帰国した。

ホント、「過去をきちんと認識」しなければいけませんね。

歴史には光と影があります。戦後70年の今だから、日本がインドネシアでやった事を日本人はしっかり知るべき右

《『朴大統領演説の波紋と日韓外交"迷路"出口』、渡部昇一氏、小倉紀蔵氏の議論 (後半) 【プライムニュース】》より抜粋

大東亜会議70周年記念大会 ⑦ ヘンリー・ストークス「日本はアジアの希望の光だ」より)右

人さし指この際、インドネシアがオランダの植民地時代に酷い搾取され、その後農業指導した日本人に感謝している話も紹介します右

《インドネシア幻のコーヒー「トアルコトラジャ」を復活させた日本人。日本とトラジャ族の知られざる絆 【未来世紀ジパング】》より抜粋

話を残留日本兵 に戻します。インドネシアもだけど、ベトナムなどに残った日本兵が現地で教育・指導し評価された事をみても、「日本はアジアの光」と言われていたのが分かりますね右

中国[編集]

中国大陸では、残留日本軍が非軍人の在留日本人とともに多数が国民党軍共産党軍に参加し、国共内戦を戦った。山西省では国民党軍に軍人・非軍人合わせ約2600人の日本人が参加し、終戦後も4年間にわたり戦闘員として戦った中国山西省日本軍残留問題)。また、八路軍支配地域では旧日本陸軍の飛行隊長を始めとする隊員300名余りが教官となってパイロットを養成した(東北民主連軍航空学校)。 

インドネシア[編集]

第二次世界大戦終結後、インドネシアでは日本軍から多くの武器が独立派の手に渡り、再植民地化を試みたオランダとの間に発生したインドネシア独立戦争では、旧日本軍将兵が独立軍の将兵の教育や作戦指導するとともに、自ら戦闘に加わるなどした。戦後、インドネシアでは多くの元日本兵が独立戦争への功績を讃えて叙勲されている

インドネシア残留日本兵が作った互助組織「福祉友の会」は、日本に留学する日系インドネシア人学生に奨学金を与えるなど、日本とインドネシアの架け橋としての役割も果たした。元残留日本兵は、毎年行われるインドネシアの独立式典にも呼ばれているが、全員が死亡したり、高齢で体調が悪化したりなどで参加者は減っていき、2014年の式典には1人も参加できなかった[1]

2014年8月25日、小野盛(インドネシア名:ラフマット)が94歳で死去した。小野は、行方不明者を除くと、最後の残留日本兵とされ、これで所在が確認できるインドネシアの残留日本兵は全員死亡したとされる[2][3]小野の葬儀はインドネシア国軍が執り行い、にはインドネシアの国旗が被せられ、カリバタ英雄墓地埋葬された。

ベトナム[編集]

ベトナムでは700人から800人の日本兵が残留し[5]、ベトナム独立戦争中の1946年に設立されたクァンガイ陸軍中学などいくつかの軍事学校で旧日本陸軍将校・下士官による軍事教育が行われた。ベトナム独立戦争に参加して戦死した旧日本兵には烈士墓地に顕彰されているものもいる[5]

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