炭鉱
『在日韓人歴史資料館内の映像』と姜徳相氏によるの説明です。(地名がよく分からないのでカタカナにしてあります^^;)
「ここは船ですね。最初の頃に出航していた船ですね。済州島と大阪の間を往来した船です。
君が代丸って言います。航路は下関からレイスイ。博多からレイスイ。1920年代。1910年から朝鮮は日本領になるんです。それで、総督府という植民地としての地位になって、まあ従属した形です。
ですからその間に、朝鮮から日本に労働者として移動してくる。
あるいは戦争中には炭鉱などに強制的に労務動員される。そういう形で在日っていうのは作られているっていうことですね。」
「これ、大変面白い。朝鮮の北の方のタンゲってとこなんですけどね。ここからこうーー来て、東京までの汽車の切符です。42年ですね。昭和で言うと16年ですか。17年ですか。で値段がね、39円55銭。今の貨幣価値にして・・、あの頃、普通のサラリーマンの月給にして50円あったかなかったかじゃないですかね。」
「これはね、炭鉱ってのはすごく劣悪な労働条件ですね。保安施設も非常に貧しいわけです。
これは宇部っていう山口県の炭鉱で海底炭鉱なんです。海の下に石炭山があるんですね。
だから、陥没しちゃったんです。海が。海水がワッと入ってきてここの人は全滅をしたんです。
ところが、この鉱山はこの人たちを水をかき出して死体を取り出すと物凄く金が掛かるわけです。
で、この山はもう駄目なんだ。だから埋めちゃった。ですからここに居た数百人の人はまだ骨も回収されない。そのまま。その時の賃金の支払い票とか、その後の色んな捜査が行われているということですね。まだ死体はこの中にある。骨も回収されてないですね。そういうのが宇部の炭鉱の話で、大変に有名な話です。」
「これはね、1930年代の、多摩川の砂利採取の労働現場です。
そして今でも多摩川の川っ淵、チョウス、シチュウ、イナダ、ノボリト、南武線のツタヤマ、(※調布?、府中?、稲田、登戸、津田山)
あの辺は朝鮮人はとてもたくさんいます。その砂利採取をした人たちがあそこに定着した、それの子孫なんですね。」
「で、これ一日30銭で働いて。で、生活はというと極貧です。多摩川の川べりにあった彼らの住居です。」
「これがね当時の・・朝鮮人には家、貸さないんですよ。ですからやむなくね、こういう河川敷だとか、こういう基地を占拠して自分で家を建てる。これは朝鮮式のオンドルです。
これ炊き口ですね。円筒が向こうに通ってて、これオンドル小屋です。こういう家を建てました。
で実際に私もこういうとこに泊まった事がありますから。戦後暫くまで残っていたとこです。そこにはまさにこういう朝鮮性そのものの生活、が残っていた所です。」
「・・・これね、金持ちのおまるです。これ貧乏人のです。日本の住宅で、なんでおまるが必要かと思うでしょ。それはね、これで分かるんです。」
「これは、東京の朝鮮人部落です。これはさっき言った砂利採集ですね。でこれは豊島区・・今のカナメ町(※要町)の辺りです。西武線が通ってます。これです。池袋から次の駅の間に昔はあったんですね。これ見るとね、おまるが必需品って分かるんです。トイレと水道がないんですよ。全体の中に一箇所か二箇所しかないんですね。そうするとやっぱり夜は危険だから、トイレに行けない。そういう事が珍しくなかったです。だからどうしても、これが必需品だったということが分かりますね。」
「在日朝鮮人にとっては、忘れることの出来ない、すべてある面でトラウマと言っていいと思いますね。
関東震災です。もう日本政府は当時の偶然的なことで、一部日本人自警団がやったんだということで蓋をしちゃってますが、実際そうじゃないですね。
戒厳令を軍隊がしいて、朝鮮人が暴動を起こしてると。・・軍隊が真っ先に出て行くんです。そして警察がその軍隊を道案内して朝鮮人虐殺をする。
それに自警団が俺の町は俺たちが守ろうと言うんで、軍隊や警察に協力すると、そういう形での官民一体の形での体制が出来ている。これが真実です。これ軍隊ですよね。これは警官ですよ。警官は後ろで手縛って連れて来てますよね。そして自警団が日本刀や槍あるいは、とび口これでこういう風に殺している。民衆はこうやって見ている。
恐らくこれ隅田川なんです。エイタイバシの辺りには官憲の記録がちゃんと残っています。
朝鮮人を殺したっていうね。多分そうだろうと思います。」
「これは戦争中の日本人になれ。郷に入っては郷に従えと、日本風の生活をしろということを教え込んだ協和会。これ大阪本部です。」
「これがね、創氏改名の通信簿で、ちょっと話題になった資料です。これ見るとね、昭和15年度です。創氏改名なった年、1940年。そして、この人は3年なんですね。で、3年の時の通信簿、一学期はイ・モヨン、二学期は武田茂と、本名が消されて日本名になるんですね。で、創氏改名が日本でなされていると。私の記憶と全く同じです。私もこの人と同学年で、3年の時に二学期に担任の先生に教壇に呼ばれて、みんなの前に・こう言いましたよ『キョウ君は今日から神農に替わったから、みんなそのように心得て』そう言ったのハッキリ覚えてますよ。で、友達たちはアイツ養子に行ったのかなぁと思ったそうです。」
「これが1945年までの状況です。で、この虐殺の問題に関しては、未だに日本政府は一言も調査もしないし、謝罪もしないし、もう頬かむりした状況のままです。
そして、在日が・・よく朝鮮人怖いと言う人いますね。それはね、この時の流言蜚語からなんです。朝鮮人が爆弾投げた。火をつけた。強姦したというね。
これがね間違いだと言うことを日本政府、言ってないんですよ。未だに。あのやっぱりきちっとね間違ったことをやったならやったと、歴史の汚名の回復って言うんでしょうか、歴史的な濡れ衣を・・・きちっとしてくれないと困るなという感じがしております。」
歴史資料館内の説明はここまで。・‥…━━━・‥…━━━・‥…━━━
在日の人の生活と主張は、よく分かりました。
で、関東大震災時の朝鮮人虐殺数について、当時の政府(司法省)の調査では233人、吉野作造の調査では2711人、最も犠牲者を多く見積もる立場からは6415人(「独立新聞」社長の金承学の調査)と幅が見られ、(ウィキペディアより)韓国の教科書では、多い数をとっているそうです。
あの当時、閉鎖された中で、こんな情報がもたらされたら、皆パニックになるのではないでしょうか。
朝鮮人が暴徒となって放火していると伝える大阪朝日新聞(大正12年9月3日号外)