朴慶南「私はですね『イアンカラッテ』(あなたの心にそっと触れさせて頂きます)っていうのを、必ず公演の時に最初に話すんですね。とってもアイヌの言葉って心に響く暖かい良い言葉がすごく多い。」
辛淑玉「・・・雑誌のノンノ(花)もアイヌ語で、キロロ(喜び)もそうなの。で、東京にアイヌがいないと思っている人が多い。不思議だよね。アイヌって移動の自由がないと思っているのか知れないけど、実際には?!」
さくらにゃん
★概要 在日3世の辛淑玉さん(61)。広告代理店などの仕事を経て1985年に人材育成会社を設立、女性の人材活用やハラスメント研修などの企業教育プログラムを展開、人一倍の努力と実力でキャリアを築いた。社会的な発言も続けてきた。その辛さんが3年前、壮絶なバッシングに晒され、国外へ避難する事態に陥る。米軍基地反対運動の黒幕だと名指ししたデマが流され、脅迫メールや手紙、直接の嫌がらせなどがなだれ込んだからだ。 この2年間、ドイツで研究員生活をしていたが、2019年11月17日「一時帰国」することになった。おりしも日韓関係は悪化の一途をたどる。「差別とは享楽なのだ」。そう指摘する辛さんは帰国後、何を見て何を思うのか。帰国直前には大好きだった弟が病死し、今後の進路に悩む。在日を生きる辛さんの目を通し、このニッポンの姿を見つめなおしてみたい。(ディレクターは斉加尚代氏)※辛淑玉氏の通名は、新山 節子(にいやま せつこ)
正直、若い頃のモデルの写真がキレイでビックリしました(◎_◎;)
「せつこ」という名は昭和の大女優・原節子の大ファンという母が付けました。
年末は片づけに追われます。子供の頃はせっちゃんと呼ばれ負けず嫌いな少女でした。
(庭の木の枝を切る様子)
(会議室のような所に入り・・)「あ~こんにちは。」
ビジネスの世界を遮二無ニ駆け上り、メディアの取材も数限りなく受けてきました。赤裸々に自身の体験を語ります。
辛淑玉氏「アタシ、なんか近所で朝鮮人ごっこして遊んでたんですよね。『今から朝鮮人ごっこするー!お前は朴!、お前は李!、お前は金!』とか言ってさぁ(大笑い) そしたらさ、なんかさ、ちょっと意地悪なゆうちゃんって子がいてね『ねぇねぇねぇせっちゃん僕にも朝鮮人の名前を付けて』。
『お前は気に入らないから日本人のままーー!とかさ、アハハハハハ」
せっちゃんには2歳年下の弟がいました。2人は在日コリアン3世です。(弟のアパートを片付ける様子)
その弟が去年10月急死します。まだ58歳。アパートの狭い部屋で息絶えた弟は不遇の日々を重ねていました。
何故1人で亡くなったのか。死に目に会えず、悔やんでも悔やみきれない姉。そこには複雑な事情が絡み合います。
辛淑玉氏「死ぬ数時間前・・2時間位前に、助けを求めて・・だけど明日の朝まで様子を見ましょうみたいな事を言われたり、もしくはアタシと同じで『お前甘えてんじゃないの?! 』みたいな言い方しちゃったんだよね。そしたら本当に死んじゃいましたね・・」
姉と弟は全く異なる人生を歩みました。それはこの社会の中に慄然と続く見えにくい壁によって左右されたのではないのか。在日というマイノリティーが生きる、この国と社会のいまを見つめます。 (始終 暗ーいBGM)(2019年11月17日 成田空港)
2年間に及ぶドイツの大学での研究生活を終え、東京に戻った辛淑玉さんです。
辛淑玉氏「東京ってやっぱり凄いねぇ。ビルもネオンも。なんか田舎から来た感じ(笑)」
「ただいま~」
一人暮らしの自宅です。弟の葬儀の後ドイツへとんぼ返り。3週間後に帰宅しました。
(東京・世田谷区の自宅の様子)
「こぎつねの家」と名付けられた築48年になる家です。
5年前、辛さんがこの家を借りたのは、在日コリアンなどのマイノリティー当事者とその支援者達が安心して集えるシェルターのような場を作りたいと考えたからです。誰もが使いやすいようあちこち改装し、小さな活動の拠点にしました。
辛淑玉氏「この家のどこが気に入ったか・・前の竹やぶかな。うーんあそこが一番、、もう来た時はねぇ、ご近所様に虫の供給をしている位荒れてたんですよ。弟の面倒を見るんじゃなくて、弟のような人達を皆一纏めで見て行こうかなって思って。」
貧しい家庭に生まれた辛さんは、公立の小学校へ入学後、朝鮮学校へ移り、およそ6年間民族教育を受けます。しかしそれも肌に合わず、都立の商業高校へ進学しました。
高校生の時からアルバイトで家計を助け、卒業後はモデル業からビジネスの世界へ。
コンパニオンを養成する会社を1985年に設立し、企業で研修などを行う人材育成コンサルタントとして脚光を浴びて行きます。34歳で知り合った放送作家で作詞家の永六輔さん。世間から女のくせに生意気だと叩かれる中で『注目する人』と応援してくれました。
『夫婦であなたの話ばかり。優しい論客 淑玉さん』永さんが亡くなるまでやり取りした手紙やハガキを大事にしています。東京の渋谷区笹塚で育った辛さん。
(昔祖母が住んでいた家に行き、外からトイレや台所の位置を説明する様子)
在日一世の祖母が住んでいた家です。
辛さんの祖母が9歳だった1910年、朝鮮半島は日本の植民地とされました。祖母は14歳で内地と呼ばれた本土に渡り、紡績工場で働き詰めの日々でした。
朝鮮人も皇国臣民としてお国の為に尽くせと命じた日本。
創氏改名で本名を奪われ、日本名に変えさせられました。敗戦後は、新憲法発布と同時に旧植民地の人々の参政権は停止され、本人の意志とは関係なく、通達一本で今度は日本国籍を剥奪され、再び朝鮮人となります。戦後補償も全て対象外。
国家に翻弄された人々が家族を築いて在日韓国・朝鮮人として生きる事になります。
(入院中の恩師(奥田省三元教諭)を見舞いする様子)
2歳年下の義剛さん。小さな弟、よっちゃんは貧しい暮らしの中、公園の草を食べたと言います。一方、辛さんはスーパーの試食を口に入れたり、時には菓子を万引きしたそうです。
辛淑玉氏「あの子はねぇ、よく騙されるしね、よくやられるし、例えば辛義剛(シンウイガン)という名前なので死神って言われて、それから目がね、(逆まつ毛で瞼を上げるポーズ)それでまた虐められ、私の弟だってので虐められ、思想が悪いと言っては虐められ、袋叩き状態でしたよね。」
弟のウイガンさんが、大事な局面でいつも手を差し伸べる大人に恵まれず、恩師に支えられた辛さんとはまるで対照的でした。
朝鮮学校での酷い体罰をきっかけに、14歳で家を飛び出した弟。辛さんとも暫くは音信不通が続いたそうです。
(弟のアパート)
弟が住んでいた部屋を片付けに来ました。8年前にバスと衝突する事故に遭い、その後遺症で脳に障害を負っていた弟の部屋は、荷物が散乱していました。普段はケースワーカーの助けを借りて暮していました。
最後に電話で話した2019年10月15日は、胸の不調を訴え、病院にかかって異常はないと言われた日。亡くなる一週間前の事です。
辛淑玉氏「(表彰楯を見つけ)全部、バイクのトロフィーですね。あの子ね、ちょっと運動神経が良かったんですよ。それで本当は、整備工になりたかった・・整備工になりたかったし、バイクのレーサーになりたかったんだよね。だけど、整備工になるにはね、日本、、高校の卒業資格が必要なんですよ・・」
就職差別がまだ激しかった1970年代、ウイガンさんは学歴もなく長続きする仕事は見つかりませんでした。工事現場や飲食店などを転々とし、辛さんが久しぶりに再会した13年前は借金まみれ。唯一の気晴らしがバイクを走らせる事でした。20代から何故か交通事故を繰り返し、「緩慢な自殺ではないか」とまで医者は言ったそうです。事故による記憶障害から回復する最中の急死でした。
辛淑玉氏「音信不通になったので、私の友人がここに見に来て、扉が開かなかったので警察を呼んであそこの窓を壊して入って、ここで死んでた。・・心臓が苦しくて上に上がれなくて多分ここで椅子に座っててそのまま前のめりになって、死んでたって言った。で、本当に死ぬ2時間半前まで助けを求めてたから。なんかね、私に電話すればって思うんだけど、まぁしょうがないなって・・」
死因は急性心筋梗塞による心不全。ドイツから日本に戻ったら一緒にバドミントンをしようそれが最後の会話になりました。(CM)
(パソコンで原稿を書いている姿)
ドイツでも雑誌への寄稿などは続けていた辛さん。そのテーマは世界で相次ぐ少数民族に対する迫害や、日本のアイヌ民族に向けられた差別の歴史に至るまで幅広いものです。
人材ビジネスから市民運動まで、片っ端から本を読破し、各地の現場にも赴きます。
社会運動に目覚めたきっかけは、20年前の東京都知事によるアノ発言でした。(・・続く)
あと、「創氏改名」については、強制じゃないのは明々白々なのに、まだ嘘つき続けてるメディアに呆れました«辛淑玉「小池百合子は歴史修正主義者でレイシスト。相模原事件の犯人が、殺してもいい命があると学んだ。その頂点が小池百合子。小池の当選は都民の自爆テロ」(・・;)»2016年07月27日
辛 淑玉 都民の自爆テロ
「・・そんな差別主義者たちの頂点にいるのが小池百合子だ。彼女の当選は、都民による自爆テロに他ならない。 (中略)
↓このつぶやきもテロリストのかと思った(・・;)沖縄への干渉も止めろ! で、先月はこんな事も言ってたしぃ
高江に集まろう。霞が関に徹底的に抗議を。これは、戦争だ。2016年7月23日
辛淑玉 @shinsugok 6月17日
帰化って、君主の徳に感化されて帰服するとか、言葉自体が差別なんだ。
蓮舫は、最初から日本国籍を持っていたと記憶してるけど。
自民党の議員て、気に入らない奴はみんなよそ者にするんだね。そうやって「日本人」を確認する作業はチンケだよ。それこそセコイんだよ。
永六輔と中山千夏とは一緒に、将来、アカヒ系の反日番組をやる事になりますが・・それはおいおい。«【大阪朝日新聞・朝鮮版】「日韓併合、隠されていた真実の報道」(悪徳朝鮮人業者逮捕・治安改善・朝鮮文化保全・インフラ整備・教育、日本軍入隊志願者殺到・朝鮮人鉱夫の物凄い稼高・ 密航者の記事など)»
【創始改名は、自由意思だった 大阪朝日・中鮮版1940.3.6】
(氏の創設は自由 強制と誤解するな 総督から注意を促す)
BS-TBSで辛淑玉氏のドキュメンタリーをやる。
— 加藤 健 (@JapanLobby) 2020年5月6日
辛氏は朝鮮学校で革命キャンプ参加費がないというと、思想が悪いとされ教師数人に殴られ続けて背骨2本がズレたと証言する。弟は革命キャンプで思想が悪いと教師にリンチされ意識不明で病院に運ばれた。
TBSが流すはずないか。https://t.co/lLYFVxB9Qo
>いま(2008年執筆当時)弟はカウンセラーの支えを得て、生活保護を受けている。
— ニベア (@nibeakawai) 2020年3月11日
辛淑玉 その手に乗ってはいけない!p224
>父の死後、やっとの思いで家を建て、母と、姉と、兄一家を呼び寄せて暮らしはじめた。
p229
反日妄想活動家を21世紀に取り上げる、TBS。外国人による沖縄独立の主張、日本人への呪詛、警官への暴力を煽った人間、辛淑玉を取り上げるのは同調者と見られても仕方がないし、弟はヤクザで右翼団体構成員。反社会性もある。MBSに投書したのだが。 https://t.co/ZcFszYahZI
— 石井孝明(Ishii Takaaki) (@ishiitakaaki) 2020年5月6日
昨日、スパムコメントを消去しようと見てたら、ほぼ全部ロシア語のコメントなのに、変なコメント「君が代すわろうず活動へのお誘い」(8/14)というが1つ混ざっていたので消去する前に記録しました
あと、不届き者繋がりで、「反天連(反天皇制運動連絡会)デモ」の件も記録(覚書です)
まずは反天連デモについて
終戦の日 反天連デモに抗議の声200人 「帰れ!」「つぶせ!」靖国神社近くで飛び交う罵声2017.8.15
72回目の「終戦の日」を迎えた15日、政府主催の全国戦没者追悼式が開かれた東京都千代田区の日本武道館からほど近い九段下の交差点に、右派系団体のメンバーら約200人が集結した。毎年8月15日に靖国神社近くで「天皇制いらない」などとシュプレヒコールを上げてデモ行進する反天皇制運動連絡会(反天連)のメンバーに抗議する、いわゆる「カウンター」と呼ばれる人たち。英霊を慰める終戦の日、靖国神社近くではシュプレヒコールや怒号が飛び交った。
午後5時ごろ、九段下交差点を通りかかった反天連のデモ隊約80人は口々に「天皇制反対」「安倍はやめろ」とシュプレヒコールを繰り返しながら前進。これをかき消すように交差点そばの歩道に陣取った「行動する保守運動」のメンバーら約200人が「帰れ」「反天連つぶせ」「国賊」などと怒号を上げて抗議した。
警視庁は一時、交通を遮断し、歩行者をくぎ付けにする方法でデモ隊を通過させた。デモ行進の際、所々で「行動する保守運動」以外の右翼団体の関係者らが怒号を浴びせる中、大きな混乱もなくデモ隊はデモを終えた。
日本第一党の桜井誠党首(45)は「数の問題ではないが、今回の反天連のデモ隊は前年より減って70~80人ほどだった。私たち抗議運動は当初、数十人で始めたが、今はこれだけの人が抗議の声を上げるようになった」などと演説すると、沿道から「桜井」コールが起こった。(WEB編集チーム)
天皇陛下は、日本国憲法で規定された日本国及び日本国民統合の象徴です。
反天連が「天皇いらない」というのは、憲法違反だし、そのデモで掲げている、プラカードやおぞましい人形は、日本・日本人へのヘイトで人間としてやってはならない事だと思いますよ。
反天連まとめ
東日本大震災の慰霊式典や終戦記念日の式典でデモ行進をするらしいです
慰霊式典反対デモ・・・何をどう考えたらこうなるんだ・・・
そして、このブログのコメ欄に置いていかれたコピペです
日付 2017/08/14 21:29 IPアドレス 58.4.249.26
投稿先 【TBSの報じ方】「森友学園の教育に外国メディアも注目」と、塚本幼稚園周辺取材。豊中・木村真市議も登場。田嶋陽子と金慶珠のコメントが・・(・・;) 【ビビット】 ライター 春九千
メールアドレス chunjiuqien@infoseek.jpアドレス(URL) http://www.geocities.co.jp/WallStreet/7659/
pdf版(*^ヮ゚)σ:http://dec.2chan.net/up2/src/fu21951.zip
君が代すわろうず活動へのお誘い
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
日本国民の皆ニャン[E:#x266A] ( ̄▽ ̄)ノシ
天皇制を廃止するニャ[E:#x266A] o(^▽^)○ オ~!
第二次世界大戦でわ、国体護持のために日本国民が犠牲になったニャ[E:#x266A] ( ̄▽ ̄)b
二度と再び、国民が国体護持のための捨石にされないようにする為ニィ、 ( ̄q ̄)ダラー
天皇制を廃止したら良いんやニャいかニャ? [E:#x266A]\(*>ω<*)/[E:#x266A]
具体的にわ、
憲法改正により、日本国憲法から天皇に関する条文を全て削除する。国体護持のために日本国民が犠牲になった (つД`)
第二次世界大戦の悲劇を繰り返さない為ニィ、 (=゚ω ゚)ノ
天皇制を廃止するニャ[E:#x266A] o(^▽^)○ オ~!明日、8月15日は終戦記念日ニャ[E:#x266A] ヽ(´ー`)ノ
この日、東京の日本武道館で「全国戦没者追悼式」が行われるニャン[E:#x266A] (*^ヮ゚)b
式典の模様は日本全国に生中継され、日本各地でも戦没者追悼式が行われるニャ[E:#x266A] (≧ω≦)b明日、8月15日は終戦記念日ニャ[E:#x266A] ヽ(´ー`)ノ
この日、東京の日本武道館で「全国戦没者追悼式」が行われるニャン[E:#x266A] (*^ヮ゚)b
式典の模様は日本全国に生中継され、日本各地でも戦没者追悼式が行われるニャ[E:#x266A] (≧ω≦)b
これらの式典でも、君が代斉唱が行われるニャ[E:#x266A] ( ̄▽ ̄)b
そこで・・・
「全国戦没者追悼式」の式典中に行われる君が代斉唱において、
一緒に君が代斉唱時の不起立・不斉唱を行わニャいか? m9( ̄▽ ̄)ノシデモンストレーションにゃ[E:#x266A] \(^O^)/
天皇制廃止運動の[E:#x266A] ヽ(´ー`)ノ愛国心を持つ日本国民の皆ニャンのご参加を期待してるニャ~[E:#x266A] ( ̄▽ ̄)ノシ
日本国民の皆ニャン[E:#x2665][E:#x2661]
一緒に戦うニャ!
天皇制を廃止するためニィ[E:#x266A]「君が代すわろうず」活動停止条件
(1)日本国憲法からの天皇に関する全ての条文の削除。
(2)日の丸の掲揚および君が代の起立斉唱を義務づける全ての法令および行政規則の廃止。m9(゚∀゚)Идиот!> номенклату́ра
נומנקלטורה עמלק
Ceterum autem censeo, Nomenklaturam esse delendam.
いかにも頭悪そう しかも憲法改正派になってるし(苦笑)
で、私は、CS朝日ニュースターの辛淑玉の番組で、在日達が「差別を生んだ」として天皇陛下に対して憎しみをぶつけていたのを見ていたので、「天皇憎し」の感情は何となく分かっていたけど、それでもこの「反天連デモ」を知った時はかなりショックでした。外国ならともかく、日本国内でこんなデモを許可しているのはあり得ないもん とにかくまず、こういう一連の朝鮮人の感情も「知る」事が大事かと。その上で、天皇・皇室は何が何でも日本人の手で守りぬかれば!
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滋賀県立大学名誉教授。在日韓人歴史資料館館長の在日韓国人が、「天皇制の問題」と「戦後差別の始まり」とやらを語っている番組の書き起こしです必見!
《【朝日ニュースター】辛淑玉司会番組(2009年放映) <韓国特集> 「在日コリアンの100年」 後半 【痛快!おんな組】 》
前記事の続きです。
(後半は再び「在日韓人歴史資料館」内の様子と解説。戦後の朝鮮人の帰還の様子。 民族教育。国籍問題。外国人登録令。戦後差別のはじまり。天皇制の問題。本国への思いなど)
スタジオトークで(辛淑玉・中山千夏・永六輔と在日2人)の井戸端会議が本当に訳の分からない話になっています。
特に中山千夏が「天皇陛下の最後の勅令」に対して「汚いねーーーー。やることが!」「酷いやり口」「なんて汚ねえやつだ」とか、永六輔が「恥ずかしい」連発とか、もうめちゃくちゃ・・・・・
にほんブログ村 ←ちょっと共感!の方はポチッとよろしく
前記事の続きです。
(後半は再び「在日韓人歴史資料館」内の様子と解説。戦後の朝鮮人の帰還の様子。 民族教育。国籍問題。外国人登録令。戦後差別のはじまり。天皇制の問題。本国への思いなど)
スタジオトークで(辛淑玉・中山千夏・永六輔と在日2人)の井戸端会議が本当に訳の分からない話になっています。
特に中山千夏が「天皇陛下の最後の勅令」に対して「汚いねーーーー。やることが!」「酷いやり口」「なんて汚ねえやつだ」とか、永六輔が「恥ずかしい」連発とか、もうめちゃくちゃ・・・
《 <韓国特集> 「在日コリアンの100年」 その4 【痛快!おんな組】》
再び、『在日韓人歴史資料館内の映像』と姜徳相氏によるの説明です。
「これは博多。これ復員兵です日本の。この復員兵が降りた後に、朝鮮人がこの空船に乗って帰る訳ですね。ですから最初日本政府は朝鮮人がこれだけたくさん連れてきたのに、計画的に帰そうという計画が何もなかった。ですから、空船が帰るよということで、皆港に集まるわけです。ところが船がこの人たち半年くらいの間に250万位帰るんですよ。ですからなかなか乗れないんですよ。で、乗船待ちのために下関・仙台・博多、これはもう朝鮮人で埋まるんです。
ところが宿屋がないんですね。ですから道端で寝る。で、当然ご飯を食べる、排泄がありますよね。施設がないんです。だからもう本当にね、大変な生活を一ケ月も二ケ月もやる中に、病気になって死んだやつも出てきたりね、対策が無かったです。」.
「これ、戦後の状況ですが、この旗は韓国の国旗です。だけど良く見てください。これはね、元は日の丸なんです。日の丸を半分色を塗って、、、これもそうです。最初はみんなそういう形で大極旗が再生するんです。」
「これは民族教育です。民族教育ってのは、やはり1945年まで朝鮮語を教えるってのは、犯罪なんです。砂川刑務所行きです。
だけど、そりゃもう言葉っていうのは民族ですからね。皇民化政策では、常に反抗するものという形で処犯されるわけですけど、在日が60数年の歴史の中で、戦後の、一番力を尽くしたのは教育。で、それは奪われたものを取り返すという、そういう事だと思いますね。
だから子供たちに民族を吹き込むというそういう為に、学校が出来るのはね1946年9月。一番先に出来たのはね、今の高田の馬場。
ですから、早稲田の方に行くと、明治通りとぶつかってるとこありますよね。交差点。スワ町っていうんですね。そこにお寺があったんです。
お寺の一角で始まったのが、民族学校の始まりです。そして一年の間にね、全国に広がります。そして最大525校、中学校は4校、まだ高等学校は出来てなかったと思いますが、青年学校14校、そして48年には高等学校も出来るんです。で民族教育が、、で学生数が6万人。」
「で、この時に日本政府がやったことは、朝鮮人は日本人と同じであると。だから日本人である以上、義務教育は日本の学校に通わなければならない。こういう変な理屈をつけて、これを潰すんです。これが48年朝鮮人学校事件という大騒動になった事件です。
だから日本政府は戦後、一番先にやったことは、、
朝鮮人は日本国籍持ってましたよね。で、貴族院にも衆議院にも議員を出してます。日本にいる朝鮮人は選挙権があったんですね。市会議員は多分かなりいた、、地方議員は。
ところが45年の12月の衆議院議員改正法これを作ると当分の間、朝鮮人は選挙権、、戸籍法の適用を受けざる者は、当分選挙権を停止するという]変なことで、選挙権を奪うんです。
で、サンフランシスコ条約までは日本国内にいる朝鮮人は日本国籍なんです。法的にもね。ところがそうやって終わります。その事はね、なんでこういう事をやったのかと。いうと当時、日本政府が無条件降伏の際に例外をひとつ付けました。
『国体の護持』、これを条件にしてましたね。そして、これは天皇制の問題です。
で、米軍はそれについて確約も何もしないで、占領しました。だけど、対日理事会ってのが、アメリカだけでなくて、ソ連もいたし、イギリスもいたし、オーストリアもいたし、オランダもいた。そういう中で、中国もいたし、一致できなかった。で、天皇制が維持できるかどうか分からないっていうんで、色々難しい問題があったようです。
その時にね、日本の議会から天皇制廃止を言う議員が出たのでは身も蓋も無い。そういう意味での緊急避難。
当時の朝鮮人、200万人位いましたからね。単純計算しても議員は5,6人出るんです。だからその危険を切ってしまえっていうのは、どうも真相のようです。
これは京都大学の水野ナオキさんって方が、あの時の強制文書・・??ですかあれのを調査した結果、そういう風に言っておりましたね。
ですから、都合が悪いのには外国人ですね。で47年の5月2日に、覚えといてくださいよ。外国人登録令ってのを出すんです。
外国人登録令ってのはね、最後の天皇の勅令です。新憲法が出来ると国民主権ですから、国会の法律じゃないと日本の法律はないんです。だけど戦前の法律は国会の法律より天皇の命令が優先するんです。これを勅令と言いますね。この最後の勅令が外国人登録令です。
そして当分の間朝鮮人は外国人とみなすというわけです。そして翌日の新憲法には国民はこの憲法の、、享受出来ると。(私は)外国人ですからね、憲法の適用外。勝手なことをどーんどんやってくるわけです。
だから、戦後特にね、サンフランシスコ条約以降、日本は戦争被害による、、あるいは国の政策の過ちによって受けた多くの犠牲。これに対して60いくつかの補償法案を出します。
一番いいのは遺族年金。色々あります。障害者年金とかね。全部出来る法律には、但し日本国籍を有するもの。朝鮮人は全て除外されます。
これが、これが戦後の差別の始まりです。
で、この事はね、どういう事を意味するかっていうと、戦争中は朝鮮人に戦争協力させるでしょ!? ですから法律の上においてはね、差別はそれほど酷くないんです。
階級も同じだったし、選挙権もあったしね。要するに出来るだけ日本人と同じ。法律の上では。
差別と法律は違うんです。ああ偏見は違うんです。日本人は朝鮮はけしからん国だ。日本にいつも不平を持っている。という偏見はあります。クサイとかね。ニンニククサイとかね。そういう偏見はあります。だけど、法的にはそれほど差別は出来ない。
ところが、戦後になると偏見はそのままあるわけでしょ!? 偏見持ったヤツが差別をもった制度を手に入れるわけですからね、これはもう酷いもんです。
戦後は、私の実体験からいくと、朝鮮人はもうほんとーうに大変でした。ほっんとうに大変でした。それはもう本当に実体験です。
はい、戦後は皆大変でした。純日本人もそうです。私も祖母や伯母達に聞かされました。
客観的に理解しようとしてみても、敗戦したのだから、日本もいっぱいいっぱいだったと、容易に想像できます。
日本政府も戦中は朝鮮人を、同等にしていたし、戦後、朝鮮は独立したのだから、外国人になるのは当然だと思うのですが、なんで、日本の天皇制や天皇陛下の勅令にまで不満を言うのか分かりません。次は最後のレポートですが、ますます訳のわからない主張です。・・つづく
《 <韓国特集> 「在日コリアンの100年」 LAST 【痛快!おんな組】》
このシリーズのまとめです。ますます訳のわからない話になっています。
-スタジオへ戻り、再び井戸端会議-
中山千夏「へー私、知らなかった。最後の勅令って! 永さんご存知でした!?」
永六輔「いや知らなかった。恥ずかしい」
朴慶南「すごいでしょー。」「(前日でしょ??)そう5月2日で、憲法が次の日5月3日」
中山千夏「汚いねーーーー。やることが!」「酷いやり口だね。」
永六輔「分かりやすく話してくださった・・・恥ずかしいです。」(頭を下げる。)
中山千夏「そんな、、永さん恥ずかしい!?」
永六輔「恥ずかしい。」
中山千夏「あ、ホント・・・日本人だと思ってんだね。(笑)」「私、そういう意識が薄いから、なんて汚ねえやつだと(爆笑)」
姜徳相「あの時に、外国人に登録、、で、選挙権について、在日の団体はあまり反対しなかったんです。
いやその時はまだね、日本から早く押し着せられた日本を脱ぎたい!それから独立する!だからこの国に長く居ない。そういう植民地時代のなんていうのかなぁ、精神的な虚ですね。
あるいは日本に対する、もう嫌だというね、こういうものを、、こん時の役人は賢いですよ。良く知ってたんです。だからこの時にやっちゃえと。
彼らはあんまり反対しない。だけど実際にその後の状況は戦争が起こったり、分断したり、帰れなくなる。で、どんどん差別が厳しくなるんで、日本国籍を持っていたら良かったなぁというような人も出てくる訳ですよね。
だから私はサンフランシスコ条約の時に、日本は国籍選択のね、自由っていうか、その時に手続きをきちっと踏んでいたら、日本という国が品格という形でね、どうこう言われることはなかったんだろうなぁと今は思っていますけどね。
サンフランシスコ条約以降それはやらないで、そのまま推し進めてきて、日本人になりたかったら帰化しろ!とこういう事だけでしょ!?
だけど帰化というのは一旦国籍を私ら押し付け、強制されて、で、また剥奪されて、で、また帰化をする。これはねぇなかなか心理的にね、そう簡単に帰化をしたいという気には、、まっ少なくとも一世はいかないと思いますよ。」
辛淑玉「今ね、六世まで生まれている訳です。私の知ってる範囲で言うとね。
でもその六世まで産まれている子達が、未だに外国人として扱われるわけね。だけど、考えてみたら、私達の世代はそうだけど、もう母語というと日本語なわけですよね。だから自分たちが何者かって知るのは、国籍と名前と差別なのね。
これで自分たちの、、えっ私、なんなんだろうっていうのがね、作られていく。その意味でいくと色んな形でね、日本と韓国や日本と北朝鮮の関係がこうちょっとでも歪みが出ると、もう同じパニックが繰り返されるじゃないですか。なんか学習してないなぁって感じがするんですが。」
朴慶南「なんか、韓国のドラマ・俳優さんとかにみんな興味があっても、すぐ身近にいる在日の存在になかなか目が行かないというか、在日の問題とかね、歴史とかね。」
辛淑玉「だって在日もみっんな同じように、税金も何もぜっんぶ義務は負っているって事も知らないもんね。」
朴慶南「それで、選挙権、えっないの!?とか、驚かれるもんね!」
中山千夏「だから、私はたまたまね、社会運動の事とかね、するようになったから、えーーって知るようになったけど、
それまではね、連れて来られたっていう事も、私の世代の日本人は習ってないから、周りの大人たちがね、『勝手に日本に来といてね、嫌だったら帰ればいいんだ』とか言ってると、えっ勝手に来たのかと思ってた程度のことだったからね。
随分大人になってから学んで、あっ連れて来られたんだぁっていうような事とか、で、勝手に来たにしたってね、他の国からも今来るじゃないですか、仕事に。そうするとそういう人たちを排他的に扱う傾向が我々にはあるけれど、あれいけないと思うのね。
だって日本人だって、貧乏な時代にはね、国全体が、お金稼ぎによその国に行ったじゃないですか!だからそれは人間の常で、稼げるところに行きたい。で豊かなところに住みたいって思うことは誰だって思うことなんだから、国を越えてそれがあって当たり前だと思うんですよね。
それを差別しないような法律にしたいですよね。永さん!」
永六輔「この番組に注文つけていい!?あれだけの資料あれだけのことを分かりやすく解説してくれた場所。地図、地図、地図」
場所の説明 (在日韓人歴史資料館ホームページ)
辛淑玉「あのー、ハッキリいいます。小さくて同胞達の手で造られたものなんですね。
本来だったらこれは韓国の政府も日本の政府もキッチリと資金を出して、そして歴史の清算として在日そのものが歴史の清算がなされてませんから、その為に私は造るべきだったと私は思うんですけど。」 永六輔「思います!!」
姜徳相「維持するのに、やっぱり公的なね資金が入ってくると、大変やりやすいと思いますけどね。入ってないです。ですから大変、職員も嘱託がふたり。・・・」
中山千夏「永さん今度行きましょう。」「行こう!!」
辛淑玉「是非行って。それからたくさんの資料もどんどん集めないといけないしね、一世の先輩たちが生きている間にね。」
中山千夏「ちゃんとやっておかないと、日本人、、日本の状況についてだって、日本の若い人達、どこと戦争したのか知らないって(笑)」
・‥…━━━・‥…━━━・‥…━━━
中山千夏、思い込みなのか、ワザとなのか知りませんが、間違ったことも堂々と言ってます。途中で「(日本へ)勝手に来たにしたってね」と軌道修正してますが・・(苦笑)
韓国側などでは、「在日朝鮮人の大半は戦時中に日本政府が強制労働をさせる目的でつれてきた」などとしているが、1959年の日本政府の発表では在日朝鮮人の総数は61万人だが、徴用労務者で在日朝鮮人となったものは245人で、現在、日本に居住している者は犯罪者を除き、自由意思によって残留したものであると明らかにしている[3]。1946年3月までに在日朝鮮人のうち140万人の帰還希望者が日本政府の手配などにより朝鮮に帰還している[3]。「現在の在日朝鮮人の大半は戦前または戦後になって密入国した人々である」という説もある。(ウィキペディアより)
もう、これはテレビ脳の人で無い限り、常識ですよね。韓国からのアクセスも入っているのでこれはキッチリ書いておきます。調べればすぐ分かる事です。
今回、在日の番組ということで、冷静に客観的に観ようと、活字に起こしながら考えながら何度も観ましたが、全然理解できませんでした^^;
もし私が・・・と考えた場合、愛する祖国に絶対這ってでも帰ると思います。嫌いな国には絶対に居たくありません。
戦争は、日本人も悲惨でした。敗戦して焼け野原になったのです。朝鮮人は敗戦国になるのが嫌だったと言っていたし、その後は国が独立したのだから、日本で外国人扱いになったのは当然の流れなのでは!? 百歩譲って、戦争になり分断されて帰れなかったというのもその時代の流れ。そういう大きな時代の流れだったのだと思います。
歴史を語るのはいいけど、「もし、あの時こうだったら」とか、言ってももうしょうがないのではないでしょうか。
それにしても、中山千夏・・・恥ずかしい日本人。「なんて汚ねぇやつ」って、勅令を出した方のことを言っているのなら、日本一のアホです。
関連記事
《「日韓合意」推進の、民団の焦り。共産・小池晃「日本政府は元慰安婦に誠実な謝罪を!」。社民・福島瑞穂「地方参政権付与!」》2017年1月12日
・・・この期に及んでも、被害者ヅラが過ぎますね
例えばこのハルモニは、正直に「食えなかった」と言っています
《在日コリアン地区 “京都・ウトロ問題”遠のく解決」 【NEWSゆう+】》 より
幼い頃、母親に抱かれ、先に日本に渡った父親を追ってきたという南君子さん。
南氏「子供はおるし、仕事はないし、
みんな飢え死にになるさかい、
私らの親もな、自分の国で住めばええねんけども、
住むに住めへんから日本に来たんや。」
こんな証言をちゃんと?流しているクセに、なんでアカヒは、「強制的」「強制的」って繰り返し報道するんでしょうねぇ。・・
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前記事で、辛淑玉氏の日本人ヘイト番組を紹介しましたが、
その番組で特集していた「在日コリアンの歴史」を、この際少し手直しして再掲します。
(前半は「在日韓人歴史資料館」内の様子と解説。戦時中・後の朝鮮人の生活。炭鉱事故の事、関東大震災の時の事件、創氏改名などのレポートとアンジュングンと伊藤博文の話など)
これは、私が2009年にブログを始めてすぐに書き起こししたもので、歴史面でまだはお花畑に片足突っ込んでる状態💦
その時は5回に分けて記事にしたけど、今回は前半・後半の2回にしました。今読み返すと当時の私の感想がユルユルです(苦笑)
《<韓国特集> 「在日コリアンの100年」 その1 【痛快!おんな組】》2009年5月22日
朝日ニュースター【痛快!おんな組】<韓国特集> のレポートです。
(かなり長いし、画像も入れたいので2回に分けて書きます。今回はゲストの姜徳相氏の生い立ち等の井戸端会議。)
ゲスト:元一橋大学社会学部教授で現滋賀県立大学名誉教授で歴史学者、在日韓人歴史資料館館長の姜徳相(カン・ドクサン)氏
(関東大震災といえば姜徳相先生。二歳で渡日と紹介)
辛淑玉「姜先生・・一世??でらしたんですね。」
永六輔「(自分も)33年。同世代」
姜徳相「いえ、一世ではなんいです。向こうで生まれたと言う点ではね、二世です。ただ二歳で来てるでしょ。ですからふるさとの山だとか川だとか友達だとかそういうの一切ないんです。(ただ生まれただけ!?)そうです。私は東京渋谷育ち。そういうことです。」
辛淑玉「私も渋谷生まれ!(笑)。そうすると出産の為だけに韓国に戻ったのではなくて、産まれてすぐこちらに来たと!?」
姜徳相「そうです。1932年生まれですから、34年の12月にこっちに来てるんです。」
辛淑玉「歴史学者としてもたくさんの著書がありますが、姜先生は日本の戦前・・・在日としての、あっ自分は在日なんだと、認識したのはいつ頃の事なんですか?」
姜徳相「もう、私のうちはクズ屋ですから、・・・親方がいてね。うちの親父は親方なんですが、下に(??)がいてこれみんな同胞です。ですから周りの人と違うんです。クズの山がこうありますしね。隠しようがないですね。だからずっと最初から違うと認識は持っていたと思います。」
辛淑玉「お父さんとお母さんは日本語はどんな感じだったんですか?」
姜徳相「お袋は、日本語は出来ません。もう死ぬまで朝鮮丸出しの日本語でした。親父はね、外へ出て色々やるでしょ。ですからもう全然朝鮮訛りがありません。これはなかなか立派なもんです。」
辛淑玉「先輩世代で、日本の大学の教授になられるって事は、在日にとっては、物凄いキラ星のようなもので、その時に勉強したり学ぶって事は、姜先生の世代ってのはもう本当に難しかったですよね。勉強好きだったんですか?(笑)」
姜徳相「特に歴史ってのは、やっても何も就職とかね結びつかない。ですから私が歴史を学んだっていうのは、子供の頃は歴史、大っ嫌いなんです。どうしてかっていうと必ず神武皇后・豊臣秀吉、日清戦争の樋口、・・・広瀬中佐ね。(この辺の名前合ってますかね^^;)そんなものが出てきて、その下には必ず朝鮮があるわけです。
だから加藤清正が虎退治っていうと、クラスのやつが皆見るんですよね。こう小さくなっていましたね。だから早く過ぎれば良いなって。で、あの頃の教科書、神武天皇のおじいさんだったか・・・雲の上に乗っているんです。先生に何で雲の上に落ちないんですかと聞きに行って物凄く怒られた。職員室へね(笑)。そういう事があって歴史は好きじゃなかった。
歴史をやるようになって、これ、いつから始まったのかなって事を調べてね、二年前ぐらいに、錦絵に出てくる朝鮮で、神武皇后から始まるんですね。加藤清正の虎退治。 幕末明治にこういう考えが完成したんだなと。そういうことを本に書きましたけどね。それはあの時の非常に嫌な思いってのがあって、集め出したらそういう傾向がきちっと出てくるもんでね、面白かったと思います。」
中山千夏「お年頃からすると戦争が終わった時が(13歳)13歳ですか。それまでの学校っていうものはもう本当に、本当に嫌な教育の、ね。」
姜徳相「遊んでも、腕力は強かったですよ。ケンカでは勝つんです。口も達者でしたからね。だけど最後に『朝鮮人野郎!』で終わりです。もう勝負あった。」
中山千夏「絶対的なカードなのねー。」
永六輔「同世代の日本人としてうかがうんですけど、学童疎開はどうなさってたんですか?」
姜徳相「私はね、自分で疎開したんです。東京空襲があったでしょ。三月十日。四月の空襲のすぐ後に宮城県に疎開しました。集団疎開じゃないです。縁故疎開。」
辛淑玉「集団疎開と縁故疎開の違いはなんですか?」
永六輔「集団疎開は文部省が立派な大人になって戦争に参加できるように、学校ごと」
中山千夏「クラスの友達全員が一緒に。」
姜徳相「それは、小学生、、、私は中学生でしたから。中学一年から二年にかけて」「動員もしました。軍事工場じゃなくてね、二年ですからね、田舎でやったのは開墾。畑を耕して。」
永六輔「僕らの近くの被差別部落と朝鮮の人達は学童疎開に参加出来なかった。」
朴慶南「えー、そこに区切りとか差別とかあったわけですか」
姜徳相「うん、あった」
辛淑玉「当時、周りには同じ在日の同胞はおりました!?」
姜徳相「はい、いました。女の子でしたけどね。私は二組であの子は四組なんですけどね。
で、金玉子(キムオッチャ)って言うんです。玉子(たまこ)さん。で、ガキどもが名前をね、キンタマキンタマってね。いじめるんですね。本名だったんです。その子はね。
私はね三年の時に創氏改名した。『神農』の名前に変わって、だけど日本名に変わったけど、下の方の『徳相(トクソウ)』はね、変わらないんですよ。だから神農 徳相(シンノウ・トクソウ)ってのはね、担任が変わったりね、課外の音楽の先生とかね分かんない先生来るでしょ。出席簿見ると、まず名前の変な異常さに気がついてオマエどっから来たんだと。」
朴慶南「神農はなんで!?」 中山千夏「中国の神様ですよね~」
姜徳相「神様の農ですね。姜氏はね元々族譜を見ますと、『神農しセイはキョウなり』というアレがあるんです。でそこから来たんです。で姜は大概、神農になるか、大山、神田。」
朴慶南「大体この苗字は、金なら金田とか、朴は新井とかね。なにか共通性があるんですよねぇ」
辛淑玉「私は辛だからシンさんシンさんで、新山になるんですよねぇ(笑)」
ここまでが序章です。最初の「二歳で渡日」って聞き慣れない日本語でした。学童疎開と縁故疎開の違い、私も知りませんでした^^;
確かに昔は、酷い差別があったかも知れません。うちの親も結構言う方で、子供の頃はそれがすごい嫌でした。
私は、この在日の人の話に限らず、戦時中の話とか戦後の生活の話とか興味があります。当時の苦労は現代に生きる私たちには想像もできませんからね。つづく・・・
次の記事は「在日韓人歴史資料館」内の様子と解説です。戦時中・後の朝鮮人の生活。炭鉱事故の事、関東大震災の時の事件、創氏改名などのレポートです。
◆レギュラー出演者 (順不同、敬称略)
辛 淑玉(シン・スゴ) 人材育成コンサルタント 中山 千夏 作家
永 六輔 放送作家 朴 慶南(パク・キョンナム) エッセイスト
境分 万純(サコウ・マスミ) ジャーナリスト 山根 春美 フラワー作家
◆ゲスト出演者 在日韓人歴史資料館館長 姜徳相
《<韓国特集> 「在日コリアンの100年」 その2 【痛快!おんな組】》
『在日韓人歴史資料館内の映像』と姜徳相氏によるの説明です。(地名がよく分からないのでカタカナにしてあります^^;)
「ここは船ですね。
最初の頃に出航していた船ですね。済州島と大阪の間を往来した船です。
君が代丸って言います。航路は下関からレイスイ。博多からレイスイ。1920年代。1910年から朝鮮は日本領になるんです。
それで、総督府という植民地としての地位になって、まあ従属した形です。
ですからその間に、朝鮮から日本に労働者として移動してくる。
あるいは戦争中には炭鉱などに強制的に労務動員される。そういう形で在日っていうのは作られているっていうことですね。」
「これ、大変面白い。
朝鮮の北の方のタンゲってとこなんですけどね。
ここからこうーー来て、東京までの汽車の切符です。42年ですね。
昭和で言うと16年ですか。17年ですか。
で値段がね、39円55銭。今の貨幣価値にして・・・、あの頃、普通のサラリーマンの月給にして50円あったかなかったかじゃないですかね。」
「これはね、炭鉱ってのはすごく劣悪な労働条件ですね。保安施設も非常に貧しいわけです。
これは宇部っていう山口県の炭鉱で海底炭鉱なんです。海の下に石炭山があるんですね。
だから、陥没しちゃったんです。海が。海水がワッと入ってきてここの人は全滅をしたんです。
ところがこの鉱山はこの人たちを水をかき出して死体を取り出すと物凄く金が掛かるわけです。で、この山はもう駄目なんだ。だから埋めちゃった。
ですからここに居た数百人の人はまだ骨も回収されない。そのまま。その時の賃金の支払い票とか、その後の色んな捜査が行われているということですね。まだ死体はこの中にある。骨も回収されてないですね。そういうのが宇部の炭鉱の話で、大変に有名な話です。」
「これはね、1930年代の、多摩川の砂利採取の労働現場です。
そして今でも多摩川の川っ淵、チョウス、シチュウ、イナダ、ノボリト、南武線のツタヤマ、
あの辺は朝鮮人はとてもたくさんいます。
その砂利採取をした人たちがあそこに定着した、それの子孫なんですね。」
「で、これ一日30銭で働いて。で、生活はというと極貧です。多摩川の川べりにあった彼らの住居です。」
「これがね、当時の・・・朝鮮人には家、貸さないんですよ。ですからやむなくね、こういう河川敷だとか、こういう基地を占拠して自分で家を建てる。
これは朝鮮式のオンドルです。これ炊き口ですね。円筒が向こうに通ってて、これオンドル小屋です。こういう家を建てました。
で実際に私もこういうとこに泊まった事がありますから。
戦後暫くまで残っていたとこです。そこにはまさにこういう朝鮮性そのものの生活、が残っていた所です。」
「・・・これね、金持ちのおまるです。これ貧乏人のです。
日本の住宅で、なんでおまるが必要かと思うでしょ。それはね、これで分かるんです。」「これは、東京の朝鮮人部落です。
これはさっき言った砂利採集ですね。
でこれは豊島区・・今のカナメ町の辺りです。西武線が通ってます。これです。
池袋から次の駅の間に昔はあったんですね。これ見るとね、おまるが必需品って分かるんです。
トイレと水道がないんですよ。全体の中に一箇所か二箇所しかないんですね。
そうするとやっぱり夜は危険だから、トイレに行けない。そういうことが珍しくなかったです。
だからどうしても、これが必需品だったということが分かりますね。」
「在日朝鮮人にとっては、忘れることの出来ない、すべてある面でトラウマと言っていいと思いますね。
関東震災です。
もう日本政府は当時の偶然的なことで、
一部日本人自警団がやったんだということで蓋をしちゃってますが、実際そうじゃないですね。
戒厳令を軍隊がしいて、朝鮮人が暴動を起こしてると。・・・軍隊が真っ先に出て行くんです。そして警察がその軍隊を道案内して朝鮮人虐殺をする。
それに自警団が俺の町は俺たちが守ろうと言うんで、軍隊や警察に協力すると、そういう形での官民一体の形での体制が出来ている。これが真実です。これ軍隊ですよね。これは警官ですよ。警官は後ろで手縛って連れて来てますよね。そして自警団が日本刀や槍あるいは、とび口これでこういう風に殺している。民衆はこうやって見ている。
恐らくこれ隅田川なんです。エイタイバシの辺りには官憲の記録がちゃんと残っています。朝鮮人を殺したっていうね。多分そうだろうと思います。」
「これは戦争中の日本人になれ。郷に入っては郷に従えと、日本風の生活をしろということを教え込んだ協和会。これ大阪本部です。」「これがね、創氏改名の通信簿で、ちょっと話題になった資料です。
これ見るとね、昭和15年度です。創氏改名なった年、1940年。そして、この人は3年なんですね。
で、3年の時の通信簿、一学期はイ・モヨン、二学期は武田茂と、本名が消されて日本名になるんですね。で、創氏改名が日本でなされていると。私の記憶と全く同じです。
私もこの人と同学年で、3年の時に二学期に担任の先生に教壇に呼ばれて、みんなの前に・・こう言いましたよ『キョウ君は今日から神農に替わったから、みんなそのように心得て』そう言ったのハッキリ覚えてますよ。で、友達たちはアイツ養子に行ったのかなぁと思ったそうです。」
「これが1945年までの状況です。で、この虐殺の問題に関しては、未だに日本政府は一言も調査もしないし、謝罪もしないし、もう頬かむりした状況のままです。
そして、在日が・・よく朝鮮人怖いと言う人いますね。それはね、この時の流言蜚語からなんです。朝鮮人が爆弾投げた。火をつけた。強姦したというね。
これがね間違いだと言うことを日本政府、言ってないんですよ。未だに。あのやっぱりきちっとね間違ったことをやったならやったと、歴史の汚名の回復って言うんでしょうか、歴史的な濡れ衣を・・・きちっとしてくれないと困るなという感じがしております。」
歴史資料館内の説明はここまで。
・‥…━━━・‥…━━━・‥…━━━
在日の人の生活と主張は、よく分かりました。
で、関東大震災時の朝鮮人虐殺数について、当時の政府(司法省)の調査では233人、吉野作造の調査では2711人、最も犠牲者を多く見積もる立場からは6415人(「独立新聞」社長の金承学の調査)と幅が見られ、(ウィキペディアより)韓国の教科書では、多い数をとっているそうです。
あの当時、閉鎖された中で、こんな情報がもたらされたら、皆パニックになるのではないでしょうか。
朝鮮人が暴徒となって放火していると伝える大阪朝日新聞(大正12年9月3日号外)
《 <韓国特集> 「在日コリアンの100年」 その3 【痛快!おんな組】》
中山千夏「これ、去年お出しになった本ですね。写真で見る在日コリアンの100年。(来年がね丁度100年になる)
さっき、ちらっと見せていただいて、凄くビジュアルのとってもいい感じの本」
朴慶南「資料もね、今発掘したり集めたり、残して行ってる。」
中山千夏「貴重な資料がいっぱい載ってますねぇ。」
朴慶南「力道山も写ってますね。」
中山千夏「あたしが子供の頃、、懐かしいですよ。」
姜徳相「玉の海も載ってます。」
辛淑玉「外国人初の力士、横綱っていわれるといつも曙とかが出てくるけど、本当は玉の海。」
朴慶南「だから、力道山も朝鮮人であることを、、最近は慣れているけど、当時はタブーでしたもんね。日本人のヒーローになってたもんね。」
姜徳相「玉の海は自分では最後まで隠してましたけどね。お兄さんがね、韓国で「ヤクザと横綱」って本を出したんです。それで自分の弟のこと書いて、だからこれはまぁいいだろうと言うことで出したわけです。」
辛淑玉「あの私、日本各地に仕事に行くと、男女共同参画なんかに行ってもですね、高齢の男性がポツッと座っている時があるんですよ。全く会場にそぐわない人が会場に来ているんですね。100%在日の先輩。
それで、終わってから大体皆親戚だって言って来てくれるのね。まぁそんなもんですよ。それでね、今でも記憶に残っているんですけど、名古屋の駅をねあれを、あれを建てたのは私達だって、言ったのね。で、つまり枕木一本朝鮮人って言われてて、いろんなとこのね、小さな村に行っても、女性の色んな講演会なんだけど、お爺さんが来てるっていうと、もう在日の先輩なんですよね。」
中山千夏「主題のね、関東大震災の時の話をお聞きしたいんですけど、私驚いちゃうのはね、驚いちゃうって言うよりこれは考え違いかなってお話聞いて思うのは、一番デマの恐ろしい例としてね、
民間にデマが飛んで、それが大事引き起こす一番良い例という風に何となく思ってきたわけですよ。それで限りなく軍隊が果たした役割とか政府の意図があったというようなことは、我々知らなかったんですね。そうなんですか!?
朴慶南「資料を姜先生が発掘されてその辺を明らかにされてるんですよね。」
姜徳相「これまだ、私の考えですけどね、みんながそれをそうだと言っているわけでは無いんですが、
流言蜚語ってのは、出方はね、日本人の朝鮮人に対する差別的な感情、これみんな持っていたんで、それがこうあの時の朝鮮人、爆弾投げるぞという形で出たんで、民間から出たんで、それを警察がキャッチしてやったんだと。(それが一般に・・・)
だけどね、実際はそうじゃない。まだあの頃ね、朝鮮人、東京付近関東一円に二万人くらいしかいませんでした。で、皆、労働現場です。ハンバにいる、そういう季節労働者が多いんです。
ですから、今のように隣に朝鮮人が住んでいる。隣の朝鮮人の生活が臭くてしょうがないとかね、そういうアレがあまりないんです。まだこの頃は。
ですから、一般の人が、色々聞いたり読んだりそういうことでは知っていますが、朝鮮人そのものをあまり認識していないんです。」
中山千夏「あーー、反感を持つほどにも親しんでいないという、、」
姜徳相「ですから、それよりもっとね、朝鮮人は怖いぞという認識を持った官憲がいるわけです。それを商売にしている。
それは何かというと、やっぱり朝鮮の併合あるいは朝鮮の併合過程までに、日本という国家がかなり酷いことやっていますよ。朝鮮に。まぁ実際私は宣戦布告無き戦争と言っていますが、何人も殺しているんです。
だから朝鮮人が日本国家に反感を持っているっていうことは、彼らは十分よく知っているわけです。だから警戒をする。注意をしてる。日本に朝鮮人が来るとそれを視察する。管理するということを商売としてる人がおるわけです。恐らく私はそこから来ていると思うんです。
ですから、地震で権力がガタ落ちするでしょ。警察力は40%になりますよね。で、治安の維持が出来なくなるこうなった時に、まず彼らは何を考えたかって言うとあそこの朝鮮人気をつけろと必ずそう言うはずです。」
辛淑玉「丁度その前に3.1の独立運動がありましたからね。その意味で社会をコントロールする危機感を持ったということですね。」
姜徳相「ええ、3.1以後、ある面では朝鮮の独立運動と日本の軍隊とが直接こうやっているわけです。満州やシベリアでね。ですから、満州、シベリア帰りはみんなそういう経験しているわけです。朝鮮、怖いというね。
ですから、恐らくそういうものを複合したかたちで、戒厳令がまず出されるでしょ。戒厳令ってのは、軍隊が最高の権力を持った時です。ですから、剣付き鉄砲を持った兵隊が、街角に立っているときに、大っぴらに殺人事件があるわけでしょ。それがだめだって言うのが良民で殺すなって言うんだったら軍隊がやめろと、やれば自警団ハハァーとかしこまりますよ。それは。」
中山千夏「そうですよね。戒厳っていうんだから、みんなちゃんとしろって事ですから、人殺しがあったらやめろって言うのが普通ですよね。」
姜徳相「だから、逆なんですよね。軍隊が率先してやっていて自警団が民兵として協力するそういう形です実際は。」
永六輔「あのーお話うかがっているとよく分かるんですけど、最後に謝ってないって日本人が。謝ってない前に知ってないんですよね。
資料館があることは大事なんですが、知ってないって事についてひとつと、伊藤博文良いと思うの。僕らの世代でいうと。あの事件、、それはどういう風に思います!?」
辛淑玉「アンジュングンのですね。」
姜徳相「私はやはりアンジュングンがやったテロをした。伊藤博文を殺した。こういうこというと不謹慎かもわかりませんけどね、自分の生存権をね、奪われた人間ってのはね、怖いですよ。だからもう何をしても良いというね。もう最後の行き場が無いですから。アンジュングンってのはそういう事だと思うんですね。
彼があん時に言ったのは、自分は朝鮮の義兵という、日本に抗議する軍隊です義兵中将という資格で伊藤をやったんだと言ってますね。ですから単なる武器を持って人を殺すというそういう人殺しではない。と思いますね。」
姜徳相「絵葉書を見つけたんです。五枚綴りのね。これ何かというとね、アンジュングンの、、今アンジュングン記念館、ソウルにありますよね。それがね植民地時代、総督府なんかが博文寺という寺を造っていたんです。(へぇーー)寺を造ってね伊藤博文をお奉りをしてた。ところが戦争が終わるとアンジュングンの記念館になった。建物良く似てますよ。同じですよ。
だからさっき言った民族の英雄。それから明治の元勲って言うね、博文とアンジュングン記念館とそこでも繋がってるんですね。最近それ見つけましたね、あっこういうものがあったと、ビックリしましたけど。」
辛淑玉「日本で伊藤博文さんのね、事紹介される時に、テロリスト、アンジュングンって紹介される。そして韓国では民族の英雄っていう形で評価されると。
で、どちらにしても非常に悲しいことですよね。であと、思ったんですけど、先ほどの関東大震災にしてもそうなんですが、韓国政府とか韓国の社会自身も、在日の戦前戦後の歴史って言うのは知らないですよね。」
辛淑玉「]知らないっていうより知ろうとしないんですよね。」
朴慶南「関心が無いんですよね。もう全く。もう無いもののように思ってるんですよ。」
永六輔「資料館、ご案内くださいましたよね。
あの画面見てると日本語が多いんですけど、
あの資料館は両方にもちろん行って欲しいんですけど、
日本人は相当マークしてるんです!?」
姜徳相「いえ、あれは三つ目的があります。
ひとつは在日の同胞たち三世四世になって、お爺さんお婆さんの時代を知らない人に来てもらって、匂いを嗅いで欲しいということ。
日本の方にはやはり、在日ってのは日本の社会で見えにくい社会でしょ。ですからここへ来ると隣に居た人はこういう食器も違ったし着る物も違ったそういう文化を持ってたんだという事をやっぱり見て欲しい。
そして日本の国際化ってのはどっから考えたら良いかっていうね、それをちょっと考えて欲しいという事。
もうひとつは韓国から年間日本に300万位、人が来ますよ。その人たちに寄ってもらって今韓国にもう無くなっているような物もこの在日の資料館にはあると。
そういうもので自分たちとルーツを同じとする人間が日本にこれだけおるんだという存在を知って欲しいという。これ三つあります。」
辛淑玉「では戦後の在日はどうだったのかまた資料館の中を旅してみたいと思います。」
ウーーン・・・言いたことはいっぱいありますが、
まず、玉の海って人は、韓国系ハーフの日本人だったので、やっぱり曙が外国人初の横綱ということじゃないのかなぁ。 中央日報記事
姜徳相氏の意見は、確証があって言っている事ではないみたいですね。それに、テロリストが韓国では英雄って・・・変です!
あと、この辛淑玉氏は、「拉致は絶対にない。日本人はそれよりもっと酷いことをいっぱいした。」と昔、日本テレビのワイドショーで主張していたのを観たので、信用できません。
次は、戦後の民族教育、戸籍問題等のレポートです。 ・・・つづく
そもそも、辛淑玉は、朝鮮・沖縄・アイヌは日本の被植民地連合として手を取り合って戦おうと言っているし・・
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前記事の続きです。
番組前半で、中山千夏が、「あのね、『きつねのチャランケ』という民話があって、北海道で買って読んで大感動した。つまり、日本国憲法みたいな民話なの(笑)何でも揉め事を話し合いで解決、、
チャランケをするきつねの口から美しい言葉が川のように流れ出て、相手も納得した話。つまり言葉の力がスゴク信じられている。だからスゴイなぁーと思って、皆で真似した方が良いなと思った」 ・・・
とか言ってたのに、「美しい言葉」なんて全然使ってない!し、 日本人差別発言(ヘイトスピーチ)がエスカレートしています。 (苦笑)
で、注目は、アイヌ氏の「北海道アイヌも混血はしている。ロシア系と朝鮮系」という発言。
辛淑玉「そして、北海道のウタリー(同胞)アイヌ協会が出来、皇民化教育っていうのは、私達割とピンと来るんだけど、徹底する。
あらゆる物を奪い取られて、心も精神も文化も家族も分断されていくわけ。アイヌ協会が出来たのは戦後?」
出原昌志氏「戦前もあった。60年代に北海道ウタリー協会という風に名前を変えてたという事。」
辛淑玉「やっっと、自分達の力で声をあげる事が出てきた。ただ、ただ、」
アイヌ氏「ウタリーというのは、同胞とか仲間という意味で自分達の民族名称を名乗れない時代だった。私は旭川アイヌ協議会っていって、最初から人(人間の事をアイヌというから)アイヌ協議会という名前ですから。最近やっと札幌の方でもアイヌ協会と」
中山千夏「ねー、ニュースに出てた。やっと民族の名前をちゃんと掲げるようになったと」
辛淑玉「話はそれるが、私イヨマンテって聞いた時、昔懐かしい歌謡曲(歌で盛り上がる)どういう歌?!」アイヌ氏「イヨマンテの事を理解していない歌」
辛淑玉「イヨマンテというのはどういう意味?!」
アイヌ氏「動物の魂をおくるという、、熊祭りとか呼ばれているが、ヒグマおくり・狐おくり・くじらおくり・カジキマグロおくりとか力の強い動物とかに感謝する祭り。」
辛淑玉「(イヨマンテの歌とか関係ないのに)部分部分つまみ食いをされていくわけ」
(中山千夏が子役時代舞台でアイヌの少女の役をやった話 略)
出原氏「柳瀬ブルースというのは、アイヌ民族の宇佐英雄さんの作曲した曲、釧路の夜も。」
辛淑玉「へーーそうですかー、なんか胸がジンときちゃいますねー。」
(中山千夏が大人になってから「お荷物小荷物?」という番組でやったアイヌ人役でシャモをやっつける話 略)
アイヌ氏「イヨマンテも北海道の道条例で禁止された。が、私は86年に無視してやった。ソ連時代は向こうでも禁止されていたが,ロシアになった途端に、樺太とモスクワの北の方で先住民がイヨマンテやった。」
中山千夏「禁止したのはどんな理由?!」アイヌ氏「まぁ、残酷だとかいう、、」
中山千夏「じゃあ闘牛も禁止しなきゃ」
辛淑玉「フン、自分達がアイヌ殺したのは残酷じゃないのかって(笑)ハハハハハ」
出原氏「例えば、クジラの踊りというのがあって、亡くなったクジラをカラスが突っついて食べるっていう、それが残酷だとか言ってねぇ(笑)民族の文化を理解せず、それが残酷だって。」
辛淑玉「北方領土を返還ってよく言うが、私の友人が『北方領土はアイヌに返せ』って言ってた(笑)。あれはどう思うか?!」
アイヌ氏「元々。アイヌの土地で、明治時代に千島・樺太から強制的に北海道に連れてこられたが、隠れて残った人もいる。だから未だにロシアに住んでいるが、私達の自治区を作って欲しい。そこで魚を獲ったりして自活したいというアイヌがたくさんいる。」
辛淑玉「今、アイヌの人口はどれくらい?!」
アイヌ氏「北海道で10万人くらいで、関東周辺には1万人くらい.ロシア・サハリンにも少しだがいる。混血はしているが北海道アイヌも混血はしている。ロシア系と朝鮮系と」
辛淑玉「アイヌと会うと、ロシア人っぽい人や幅が広い。」朴慶南「沖縄の人と重なる感じがする。」
アイヌ氏「いつも沖縄行くと、ほとんど地元の人だと思われる。(笑)」
辛淑玉「ちなみに今お召しになっているこれは?!で意味は?!」
アイヌ氏 「これはうちの姉が作ったもの。
旭川で一番多いのは、アイユシと言って矢が、両方にトゲがあり、病気が来ない様に魔よけの意味。
地方によってはモレウという渦巻き模様がある。」
朴慶南「帯広からアイヌ民族の男性が来て、埼玉・群馬の保育園で歌や踊りや文化を教えていて、保育士も一緒に習っているが、
子供達がそれぞれ自分で衣装を作って、そこにアイヌの模様を入れてたりして、、それをよく見に行くが、その文化が先生も子供達もみんな大好きで、うん。」
辛淑玉「できればね、歴史をちゃんと教えないとなぁー。文化だけアレしてもねぇ。歴史を教えなかったら、、
私ね。アイヌ語で作って欲しいものいっぱいあるの。例えばパソコンはアイヌ語でなんていうかとかね。今も生きてて今も継承されているから」
アイヌ氏「日本語でも外国から来たものそのまま使っているから。各地のアイヌ語教室が13あるが、それぞれ造語を作っているがなかなか統一できない。」
(言葉の話 略)
辛淑玉「だから私達、植民者のコトバ(日本語)で今喋ってるんですよ。(笑)はははははは
でも何故アイヌの人達が多くの人の目に止まらないのか、CMのあと」
辛淑玉「『レラの会』の平田幸さんにもここから参加して頂くが、レラの会とはどういう会か?!」平田氏「私の母親が、札幌にいるチカップミエコさん(アイヌ刺繍で有名な)と作った関東の会で、
レアというのは『風』という意味で、古式舞踊を中心として活動している。」
辛淑玉「今、お召しになっているのはご自分で作られた?!」平田氏「そうです」
辛淑玉「ちょっと立って,後ろも見たいな。スゴイきれいねー。これも魔よけの?!」
平田氏「これは全部厄除けで、悪いものが入ってこないように。」
辛淑玉「平田さんは、自分がアイヌだって認識したのはどんな時か?!」
平田氏「私は小学校2年生まで知らなくて、
幼稚園の時からおじいちゃんにアイヌの踊りを教えられてたが、
それがアイヌの踊りだと知らないまま教えられていた。毎日殴られたりしてた。」
辛淑玉「おわーーーっ、厳しく?!」.
辛淑玉「ここに書いてある山本多助さんっておじいちゃんなんですね(笑)『ウタリーよ、真に覚醒し決起せよ・・・本道はアイヌの国なのだ』
すごい(笑)」
平田氏「すごいスパルタで。」
辛淑玉「普通、在日の家でも民族教育厳しいと子供は逃げるが、」
平田氏「小学校でも幼稚園でも、お説教が始まると二時間ぐらい。でずっと正座。」
辛淑玉「うわーーーー」 平田氏 「その説教が嫌で、ただ行ってて。」(小学校で、アイヌだといじめられた話、先生にもアイヌだからと言われて泣いてた話 略)
辛淑玉「まだ生きてるっ?!その先生、、仕返しに行こうか。はははは」 平田氏「いい死に方はしないなぁと」
辛淑玉「いい死に方してもらっちゃ困るよね。早く死んでくれ、早く死んでくれ(合掌した手をすり合わせる)はははは
辛淑玉「先住民族アイヌに対する無関心とか無視というのはどこから来ているのか」
出原氏「ひとつは戦前、優勝劣敗の社会進化論で
、滅びゆくアイヌというのが随分新聞でも載ってた。」
辛淑玉「自分達は殺してるのにね(笑)」
出原氏「単一民族国家感がね、昔の頑なな政治家が言ってるのとは僕は違うと思う。
アイヌを認めていないという事は単一国家だなぁと。」
辛淑玉「賠償も保障も何もないからねっ(怒)」
出原氏「こういう歴史でも、例えばアイヌの土地を奪った時に、皇室が2割の御料地として奪って、財産になっている。
こういった歴史を日本人自身が、学者でも戦争責任とか植民地支配になると、天皇の戦争責任であったりするが、そこは上手ーく回避している。
単一民族というのなら、アイヌの言葉も文化も権利回復も全部行って、初めて多民族国家だ。」
辛淑玉「だって『旧土人法』が1997年まで、、うーん」
中山千夏「これの反対運動は署名したりしたけど」
出原氏 「日本政府は80年には国際会議、81年かな。
アイヌは完全に同化してそんな民族はいないんだと公言してた。
91年くらいまで少数民族がいるかもしれないしいないかもしれないというのが政府の見解で、
今は先住民族として認めたというが、しかし植民地支配の歴史は一切認めていないし、権利回復もしていない。」
辛淑玉「教科書にも書いてない。」中山千夏「勝手に滅びたと言いたいのね。」
出原氏「さっきの北方領土の話もあるが、みんな揃って『北方領土返還!』と言っているが、でも北方領土は、、」
辛淑玉「オマエの物かって(笑)」
出原氏「アイヌ民族が存在しないという事が前提なので、
これは徹底した差別だ。」
中山千夏「あの、単一民族っていうよりも、やっぱり凄く問題なのは皇国史観。
つまり皇民であると我々は。それはあらゆる民族や人種よりも強い結束であるという、皇国史観がスゴイ問題だと思う。」
出原氏「ここに、日本国民と書いてあるが、ここで日本人も臣民に統合されたわけ。アイヌより先に統合されたのは日本人。で疑問を持たずにアイヌを踏みつけ、侵略の歴史を重ねるっていう、、」
中山千夏「あと、文化の面で言うと、東北の人達も和人(倭人)だけど、すごい言葉や歴史の皇国教育された。というのは大和の中に大昔は東北の方は入ってないわけだから、皇国意識が低いわけだったので、東北の人はスゴイ皇国教育をされた。」
辛淑玉「歴史を学ぶとか言うと、すぐに朝鮮の歴史とかね。違うだろうって。まず自分の足元ね。日本人にとったら」
(このあと、アイヌの弓の舞と解説)
辛淑玉「勉強しようと思ったら、まずはレラ・チセ(西早稲田のアイヌ料理屋)に行くと。ちなみにアイヌは、今まで消してきたけど、物凄い大きな動きをした時期があり、デモをやった。アイヌの人がアイヌだと言って東京でデモをするのは大変な事でしたよね?」アイヌ氏「旧土人保護法を撤廃してもらって、新しい法律を作ってほしいと12年前まで続いた。」辛淑玉「一番求めた事は何か?」
アイヌ氏「実際出来たのは、『アイヌ文化振興法』という法律で、自立化基金5千億円を要求した。アイヌは明治から格差があって、読み書き出来ない人もいれば、アイヌの宗教を禁止されて、日本の宗教が嫌いだと日本の価値観についていけない。どうしても合わない、仕事やっても。
自分達で雇用を作って皆で生きていこうというのが自立化基金だったが、それは外されて文化を振興しなさい、広めなさいという法律が12年前に出来て」
辛淑玉「でも、それって見世物の延長線上じゃないのか?!」
アイヌ氏「で、一部の人はアイヌ語を取り戻そうと勉強し、
派遣でアイヌの踊りや刺繍を教えたり、アイヌの楽器を作ったりしたが、多くのアイヌは皆貧しい。
だからとてもじゃないけど文化保護だけじゃ満足できない。
で、今は定住権を認められたから、自分達の権利を少しでも取り戻したいという運動をやっている。」
辛淑玉「新しい戦いが、新政権と共にスタートしたと思うが、今の政権に絶対にやってもらいたいと思うのは何か?!」
アイヌ氏「明治に同化政策で学校でアイヌ語を使うと怒られ、98年間使えなかった。97年からは各地でアイヌ語を学んでいるが、限界がある。
北海道のラジオでアイヌ語講座をやったり、NHKでも『アイヌ語でしゃべらナイト』という番組を毎週やっている。ラッコ・トナカイ・コンブ・シシャモなどアイヌ語をみんなに知って貰いたい。」
永六輔「トナカイってアイヌ語だもん」
辛淑玉「家庭はどんな感じか。
家族の写真をお借りしたので、見て頂きたい。」
アイヌ氏「左が妻と子供。
右が姉たちとお袋です。姉は踊りをやったり、刺繍をやっている。
うちの家族の方は、親子アイヌ教室っていって、歌をアイヌ語で歌ったり一生懸命やっている。」
辛淑玉「『アイヌ語でしゃべらナイト』っていいね。朝日ニュースターでもやってもらいたい。(笑)」
(河村カ子トアイヌ記念館の説明、修学旅行生を受け入れていて、歴史の話、踊りの体験・楽器を作成・アイヌ料理を体験の話)
(それぞれ公演のアピール。アイヌの古式舞踊公演の詳細説明 。鶴の舞のVTR ) 以上◆レギュラー出演者 (順不同、敬称略)
辛淑玉(シン・スゴ) 人材育成コンサルタント 中山千夏 作家
永六輔 放送作家 朴慶南(パク・キョンナム) エッセイスト正直言って、アイヌの事、あんまり知らなかったので驚きました。(全て鵜呑みにはしないけど)文化や言葉は取り戻してほしいし、北方領土を自治区にしたいなら、それもいいかなぁと思う。
でも、アイヌの人は、文化・生活を取り戻したいと言ってるだけなのに、「同じ植民地・植民者の言葉」「残虐した」「殺した」と日本を貶める在日韓国人とその仲間たち、アイヌ民族を絶対に利用しないで欲しい。(中略)
なんでそんなに憎い日本に居座って、国内問題を外野がギャーギャー言うんでしょう。口を開けば日本の悪口ばかり・・・言葉の端々に憎しみが滲んでました。
友好的な在日の人もいるとは思うけど、こういう言動・行動は、逆効果。
すっごーーーーいキライ、シンスゴとその仲間たち
この番組はこれで終了~だけど、シンスゴ達は、前編の中国人被害者家族にも、中国のネットサイト運営者やいろんな中国人に取り入ってるし、アイヌにも同情的に近づいてるのが、ただ、ただ、不気味なんだなぁ・・以上
天皇陛下に謝罪しろと言っている人達。いつもの顔ぶれ
権利回復の謝罪と賠償の署名活動
2007年、先住民族の植民地支配を正す権利の回復のため謝罪と賠償を含めた署名が行われている。[47]
以下が呼びかけ人である。 金時鐘 (詩 人)佐高信 (週刊金曜日編集委員)辛淑玉 (人材育成コンサルタント)田中優子 (週刊金曜日編集委員)中山千夏 (作 家)朴慶南 (エッセイスト)針生一郎 (丸木美術館館長)藤崎良三 (全労協 議長) 丸山未来子 (おんな組事務局)
で、今から5年前、アイヌの血を引く砂澤陣さんがアイヌ利権・アイヌの真実・「差別の再生産システム」を語っているんですが、上記の【痛快!おんな組】の井戸端会議を全否定しています
「強制移住されたと言う在日と同和が絡んでえげつない」って
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ジュネーブで行われた、国連女性差別撤廃委員会にて、
杉田水脈さんが出くわした、チマチョゴリ&アイヌの民族衣装の100人超の小汚い軍団 は、「マイノリティ女性の現状と課題」というレポートを提出していた、部落解放同盟、札幌アイヌ協会、アプロ・未来を創造する在日コリアン女性ネットワーク、在日本朝鮮人人権協会、IMADRの5団体のようです。
2/16ジュネーブで行われた、国連女性差別撤廃委員会(CEDAW)日本審査(後半)の速報です。 更新日:2016年02月18日
女性差別撤廃委員会CEDAWから日本政府に対する質問、懸念
・マイノリティおよび移住女性の政治参加の状況の情報をもとめる
・数世代にわたって日本に居住する在日コリアン女性に投票権が無いことを指摘
・日本の教育においてマイノリティ女性 はジェンダー格差をさらに受けているとコメント
・マイノリティ女性の識字率や教育レベルに関する統計を提供するよう促す
・アイヌ・部落・在日コリアン・沖縄女性の雇用における差別に関し、包括的な差別禁止法を制定する意図があるか質問
・部落女性の雇用に関し、特別措置を再度行う意図があるか質問
・アイヌ・部落・沖縄・在日コリアン女性を対象としたヘルスケアがないことを指摘
・包括的な差別禁止法を制定する意図に関する質問が答えられていないと指摘
・マイノリティ女性への教育支援の措置について情報を求める
・女性の政治参加において多様性が反映されるべきとコメント
・アイヌ・部落・沖縄・在日コリアン女性に関する統計を求める
(質問に対する政府の回答)としては・・・続きを読む
そこで、今日はアイヌを利用して、日本民族の対立を煽る人達(在日朝鮮人と反日日本人)の、聞くに堪えない日本への憎悪発言ばかりの2009年放送の【痛快!おんな組】という番組を紹介します(やや要約)(※以前のものに、分かりやすく手を加えました!)
以前紹介した、朝日ニュースターというCS局でやっていたものですが、今考えるとよくこんなヘイトスピーチ流していたなぁと
《日本にヒドイ事されたと手を取り合う人達》2009年09月22日のつづきです。
しかも【痛快!おんな組】は、めでたくこれが最終回!!(要約です。アイヌ語が分からないので違っているかも。指摘して頂くと助かります<(_ _)>)
(まずオープニングトークで朴慶南(パク・キョンナム)(左端)が、
番組で以前取り上げた、関東大震災時の朝鮮人虐殺事件の、荒川の河川敷(並ばされて機関銃で撃たれたという場所)で、
毎年やっている慰霊祭に参加したが、やっと宿願の慰霊碑が建ったという詳しい解説をして、
スタジオの全員で、「行こう行こう!と」盛り上がり、
永六輔氏は、風力発電の公害問題を中山千夏と一緒に熱弁。(うっかり「未亡人」と言って「ヒドイ言葉!!」とシンスゴに怒られていました^^;) その反対運動家(未亡人)と共闘しているらしい。あと雑談(略)
辛淑玉「今日は相当バトルがあるんじゃないかと、
そうですね、(最後だから)言いたい事、、いつも言ってるクセに(笑)とか、、
今日もいつもの通り、この後は、ステキなゲストをお招き致しておりますので、(説明)。
いつもね、戦後の要するに植民地支配とかって言うと、まぁ台湾であったりとか、朝鮮半島であったりだとかっていう見方をする人はとっても多い。
だけども日本のね、国家としての(最初の最高の)植民地ってのは、やっぱりアイヌですよっ。うん、殺しまくって殺しまくって殺しまくりましたからね。で、未だにそれが歴史教科書にも何も出ていない。
そこで今日は、アイヌに対する国家による殺戮、そして差別の問題を実際にここで語って行きたいと思います。(中山千夏、大拍手)・・・・」 CMへ
(-ゲスト紹介- 略)川村シンリツ・エオリパック・アイヌ
辛淑玉「えー、生活の中に実はアイヌの言葉がたっくさんります。例えば知ってるものって何かあります?」
朴慶南「私はですね『イアンカラッテ』(あなたの心にそっと触れさせて頂きます)っていうのを、必ず公演の時に最初に話すんですね。とってもアイヌの言葉って心に響く暖かい良い言葉がすごく多い。」
辛淑玉「・・・雑誌のノンノ(花)もアイヌ語で、キロロ(喜び)もそうなの。で、東京にアイヌがいないと思っている人が多い。不思議だよね。アイヌって移動の自由がないと思っているのか知れないけど、実際には?!」
出原昌志氏「5千人~1万人いると言われている。高度成長期の後。
それも関東の民族団体が東京都に申し入れして調査した。
全国にいる。」
辛淑玉「在日も日本国籍取得すると、在日とカウントされないので、
文化・生活の継承してても全体は把握できていなくて色んな施策が出来ないという事がよくある。」
朴慶南「子供のお母さんが『私アイヌなの』って話して、付き合っていた。」
「地名で良くある。日暮里、我孫子も」
辛淑玉 「歴史の中でも、、
これは自分で買った本(南極に立った樺太アイヌ)だが、『しらせ』は教科書にたくさん出てくるけど、道案内をしたアイヌの事は全く触れていない。歴史に出てこない。
もう一つ凄いなと思ったのは、私、教材でも使っていたが、八甲田山の捜索隊としてアイヌを使っているんだよね。
それでいて、その存在はナイという形でやってきて、、それで伺いたいが、出原さんは、シャモかアイヌか?!」
出原氏「シャモです。日本人の事で、あまり良くない隣人の事。」
辛淑玉「あははははは、散々ヒドイ事したからねっ」出原氏「シサムというのは良き隣人の事。」辛淑玉「アイヌラマット実行委員会とは何か?」
出原氏「東京の東部地域で、
市民・労働組合が一緒にアイヌ民族の権利回復に向けて連帯していこうと作った共闘組織。」
辛淑玉「なんか問題、事件とかあったのか?」
出原氏「河村さんも一緒に共同代表して頂いてるんですが、
放送大学でアイヌ民族は民族として成立した事がないとか、民族でないものがアイヌ新法を制定運動やったのは大きな問題であるとか、自ら和風化・同化したとか、
コウノモトミチという3代のアイヌ学者が放送大学で発言し、4年間繰り返し流された。民族が抗議をしても流された。足立学習センター内の放送大学に、河村さんから提供されて申し入れを始めた。その時足立区にもチャランケを申し入れたり、そういう経過で作った組織。」
辛淑玉「チャランケっというのは?!」出原氏「話し合いの事。」
中山千夏「あのね、『きつねのチャランケ』という民話があって、北海道で買って読んで大感動した。つまり、日本国憲法みたいな民話なの(笑)何でも揉め事を話し合いで解決、、
チャランケをするきつねの口から美しい言葉が川のように流れ出て、相手も納得した話。つまり言葉の力がスゴク信じられている。だからスゴイなぁーと思って、皆で真似した方が良いなと思った。」
辛淑玉「でも、日本国憲法ってのは、先住民族の権利って何も規定してない。」
中山千夏「そうそう、いないっていう前提だもん。」
辛淑玉「自分がアイヌなんだと認識したのはどんな時だったか?」
アイヌ氏「私の育った環境は、アイヌ記念館を経営しいたので、意識はあったが、
父親が亡くなってから、特にそういう気持ちが強くなった。」
辛淑玉「私とか、キョンナムは他者から『朝鮮人』って言われて『えっ?!』っていうことで、
そこで初めて自分の事を確認するみたいな作業が続くが、
『河村カ子トアイヌ記念館』というのは、どういう所か?」.
アイヌ氏「大正5年に、明治生まれのおじいちゃんが作った。
当時は給与地といって、アイヌが一箇所に集められて、第七師団ってのが来て、軍人がアイヌの学校とか見物に来た。すると土人小学校の子供達は、軍人の前で踊りをやったり、見世物にされた。それはヒドイというんで、おじいちゃんが資料館を作って、ここで見てくださいと、但しアイヌ文化を理解してくださいという事で作った。」
朴慶南「土人という言葉がずっとあったってヒドイ。」
辛淑玉「私ねっ、アイヌを散々殺しまくってね、支配しまくったそのクセがね、植民地支配でバンバン出てきたと思う。(怒)」
朴慶南「少年よ大志を抱けってのは、それこそアイヌの土地を奪って殺していくっていう事がそこにあって、それから台湾や朝鮮に侵略して行ったという歴史があるって北海道大学の先生に聞いた。」
辛淑玉「アノ人、大志を抱け以外何も言ってないからねっ(笑)はははは」
アイヌ氏「それより、アイヌ政策を考えたのは新渡戸稲造とアメリカ軍人のフォーレスケプロン。アメリカの同族法を真似して旧土人保護法ってのを作った。」
辛淑玉「どうやって民族を抹殺していくのかを、アメリカ仕込みでやった。」
辛淑玉「ちょっと歴史を少し振り返ってみたい。
(フリップ)出原さん、簡単に流れを説明してくれますか。」
出原氏「ここに出てないが、元寇(モンゴルが攻めてきた)で、戦前は神風、、北条氏が阻止をしたと。
だけど実際は、朝鮮半島でのモンゴルの戦いがあって、
丁度台風の時期だったという事で、
実は知られていないが、北からもモンゴルが攻めてきた。北海道の方から。それはアイヌ民族が抵抗して阻止した。そういう民族に偉大な歴史があるが、それが全部消し去られている。」
辛淑玉「シャクシャインの戦いくらいからでしたよ。音として聞くのがね、うん。」
出原氏「200年前にはクシャマインの戦いがあり、シャクシャインの戦いがあり・・・(民族虐待・女性に対する性暴力に対する蜂起の歴史詳細 略)」
(「だまし討ちだよねー」「だよねー」「だましだよねー」で、シャモの話で盛り上がる。)
出原氏「で、明治維新になって、天皇制国家が成立し、開拓使を置いた。この時点でアイヌのが土地が全部モシリになった。開拓使というのは、まさに植民地のこと。朝鮮総督府と同じような権力。その後戸籍法交付。」
辛淑玉「スゴイね。ここで旧土人と。新平民と同じ。」中山千夏「創氏改名もあって」
辛淑玉「河村という名前はこの時に付いたのか?」
アイヌ氏「そうです。川のそばに村があったから。」
辛淑玉「シンリツ・エオリパック・アイヌというのはどういう意味?!」
アイヌ氏「先祖を敬うという意味でシンリツが先祖、エオリパックが敬う。アイヌが人とか男という意味。」
永六輔「アイヌは言葉はあるけど文字は無いというのは本当?!語り伝えて、、」
アイヌ氏「ありません。はい」
辛淑玉「だから、色んなものが、人が殺される事によって文化・歴史の伝承が出来なくなっている。
実は私、出原さんとあったのが増上寺だが、そこで開拓の為に同化をさせる為に、アイヌを教育するのに、東京に送って、、教育と言う名目の拉致。そして虐待して、殺されていくわけ。」
出原氏「全部で38名強制連行されて、監視体制の中で二年間で4人亡くなった。」
辛淑玉「その学校があったのが、芝の増上寺のところ。あの時何していたのか?」
出原氏「東京イチャルパって言って、慰霊祭をしていた。2003年から関東のアイヌ団体の方『ベラの会』が呼びかけて集まって、その開拓使会学校に強制連行されてきたアイヌと自分たちの事が重なる。それで先祖の慰霊と首都圏で亡くなっていったアイヌの人達を一緒に慰霊をしている。」
辛淑玉「増上寺もそうだが、そういうイベントをやるのは凄く大変じゃないか? 理解されないし、反対も多いし。」
アイヌ氏「要するに皇民化教育ですね。アイヌは徹底的に教育されて、、だからアイヌは樺太・千島にはアイヌとウイルタ・ニクフ民族がいた。ウイルタ・ニクフは土人。アイヌは旧土人といって、、私達よりもっと少数のウイルタの人達は未だに名乗れないがたくさんいる。」
中山千夏「えっ!?、たくさんいる?!知られてないねぇ、そういうの!」
辛淑玉 「ちょっと先住民族の定義をここでちょっと(フリップ)」
出原氏「(説明 略)戦後は、どの民族も対等でそれを侵してはならないとなっているが、.
ただ先住民族に関しては例外にずっと置かれてきた。なぜかというと国内植民地になってて、自分達の近代国家形成が問われるという事で、
ここにある『先住民族は侵略者が来る以前の民族の後継者、不法に奪われた土地を取り戻し、自らの社会制度や文化、言語を将来の世代に伝えようとしている人々』」
辛淑玉「国連とか、国際社会の中では、アイヌは先住民族としてもう明確に、、うん。認知されている。」
朴慶南「政治家で、日本は単一民族国家と言う人、たまによく出てくる。ヒドイ話だ。」
中山千夏「私、初めてアイヌ民族以外にいるというのを初めて知った。」
出原氏「1926年には、5民族を囲い込んで、観光地と生態観察の場にして、しかもその人達をソ連への陸軍なんかの学校のスパイ養成としてやって、戦後は国家はそんな事知らないと言って、一切伏せた歴史がある。」
朴慶南「博覧会で見世物にされた事があった。人類館で、朝鮮人・沖縄の人・アイヌの方達が、、ほんとに。」
中山千夏「小笠原の人も文物だして、西洋人もいるからね、小笠原は。」
辛淑玉「尚且つ、見世物とされ、自分達とは違うものとして、医学や科学の観察・研究対象になっていった。(研究は随分された、研究材料的に、文化も :中山)
私はこの『日本の侵略』という本に出ている、
大学の教授の後ろに壷がたくさん並んでて、何かと思ったら、アイヌの人の頭蓋骨で、それを一生懸命説明しているが、まずねっ、これ掘り起こしたわけでしょ?!」
出原氏「そうですね。不法に墓を発いて、」朴慶南 「標本のようにしているんでしょ!?」
中山千夏「断りなしに?」辛淑玉「断りなし。これいつの頃?」
出原氏「昭和天皇に見せて、説明をしている。戦前。」
辛淑玉「そういう形で標本として、、で、死んだ人の墓を本人や遺族に全く関係なく掘り起こして、そしてそれ返したのか?!」
アイヌ氏「いえ、まだ北海道大学の納骨堂に入っている。」辛淑玉「納骨堂は作らせた?!」
アイヌ氏「はい。私は旭川だが、5体あったのを旭川は返してもらって、市で納めてもらっている。」
辛淑玉「それで、なにしろ土地を奪う。アイヌって国とか国境の発想はないですよね?! ちなみにアイヌの人達はみんな同じ言語なのか?!」
アイヌ氏「いえいえ、相当広い地域に住んでいたから中国・ロシア・アメリカ・日本ね。だから言葉も様々で、例えば北海道と東北も違う。」
辛淑玉「で、土地を奪われ、この『旧土人保護法』というのは?!」
出原氏「主食のサケを獲るのを禁止したのは日本だけ(漁業権を認めなかった)。当時、日英通商条約でイギリス人が、日本国内にドンドン入ってくるのに、ソレを見られたら恥ずかしいっちゅうことで、一定の保護政策と言っているが、狩猟をする民族に対して、15000坪の農地を与える代わりに、農耕民族になりなさいと(給与地)でそっから離れることが出来なくなり、しかもその土地は300チョウある内の20チョウしか農耕ができないとかね、そういうヒドイ土地。
もうひとつは、徹底化した皇民化教育。アイヌ小学校を設置して、もう徹底した皇民化教育をすると。」
辛淑玉「お父様やおじいちゃまは当時の話はしていたか?!」
アイヌ氏「旭川では、江戸時代に松浦タケジロウという人が来て、ガイドした人が村長のクチンクレという人で、
石狩に連れて行かれて強制労働させられた時にかなりの高齢だったが、
石狩で承認とチャランケ(話し合い)して、全員旭川に連れて帰ってきたので、旭川の村は維持されて残ったが、
海岸の方の人は強制労働で滅びてしまった。そういう時代だった。
明治の初めは、アイヌは日本語喋れない、読み書きはもちろん出来ない、そういう時代だった。」
辛淑玉「お父さんは戦争と重なるが、戦争の話はしていたか?!」
アイヌ氏「父親は明治26年生まれなので、太平洋戦争の時は50近かった。
当時はみんな農業に失敗してしまって出稼ぎ、、キコリになるか鉄道の人夫として働くしか道が無くて、鉄道で一生懸命働いてもアイヌと言われて賃金が安い。最初から差別された。
悔しいので友達と二人で札幌行って測量技師になった。倭人が行けない険しい所でもテンリキョウとかピョンヤンに行って測量した。名前が金を稼ぐ人の通り、給料をもらって、記念館を作り直した。」
辛淑玉「お母様はどんな方?!名前は?!」
アイヌ氏「江戸・明治・大正・昭和と日本人が北海道にやってくると、成功する人は一部で、屯田兵の場合は失敗して帰ってしまう時に、口減らしでアイヌの家に置いていく。それが1万人位いて、私の母も屯田兵が置いていった子供。で、アイヌの家に育ってアイヌ語の方が分かる。」
朴慶南「旭川でフチというアイヌのおばあさんに会った時に、『倭人はアイヌの子を育てないけど、アイヌは倭人が捨てた子供達を育てたんだ』って言った。
辛淑玉「在日の先輩たちも、アイヌに助けられた人たっくさんいるよね。」
朴慶南「沖縄でも言われた。沖縄戦の時に自分達を庇ってくれたのはアイヌの人達だったって。うん」
(長いので後半に続く・・・アイヌの血を引く、有名な砂澤陣氏の反論アリ)
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TBS【サンデーモーニング】(1/19)で、
佐高信がフランスの風刺画に関して、「風刺・ペンが向かう先は強者でなくてはならず弱者に向かってはならない」 「笑いは”こわばり”をほぐすもの。あれはそれではない」 と偉そうにコメントていたんですが、
ならば、9年前のアレは!?と思い出しちゃいました(;一一)
2006年、『週刊金曜日』主催の「ちょっと待った!教育基本法改悪 共謀罪 憲法改悪 緊急市民集会」において、皇室を中傷・侮辱した芝居です。
知らない人の為に、【マスゴミ】週刊金曜日による皇室中傷・侮辱芝居【反日】 に記録されたものを書き起こしましたキチガイですよ、もう・・
「陛下のガンも笑いのネタにした皇室中傷芝居」(週刊新潮12/7号より抜粋)
その瞬間、あまりの下劣さに観客も凍りついた。11月19日、日曜日。東京の日比谷公会堂で開かれた『週刊金曜日』主催の「ちょっと待った!教育基本法改悪 緊急市民集会」である。
会場を埋めた2000人近い観客の前で、悠仁親王は「猿のぬいぐるみ」にされ、天皇陛下のご病気もギャグにされる芝居が演じられた・・・
その日、東京は冷たい秋雨が降っていた。
高橋尚子が参加した東京女子マラソンがあり、交通規制が都内に敷かれていたその時間に、日比谷公園の一角にある日比谷公会堂でそのイベントの幕は開いた。安倍政権への対立姿勢を鮮明にする左翼系週刊誌の「週刊金曜日」が主催する緊急市民集会である。
同誌の本多勝一編集委員の挨拶から始まった集会で、問題のパフォーマンスがおこなわれたのは、午後2時半頃からである。司会を務めるのは、同誌の発行人でもある評論家の佐高信氏だ。
「えー、今日は特別な日なんで、とても高貴な方の奥さんにも来ていただきました。この会場のすぐ近く、千代田区一丁目一番地にお住まいの方です。」
佐高氏がそう言うと、舞台の右袖から、しずしずと美智子皇后のお姿を真似たコメディアンが出てきた。
黒いスカートに白のカーディガン、頭には白髪のかつらと、帽子に見立てた茶托を乗せている。そして、顔は前面だけおしろいを塗って女装した男である。会場は拍手喝采だ。
「本日は雨の中、多くの国民が集まっている中、何の集会だかわかりませんが」
と切り出すと、大きな笑いが起こった。「そう言えば、先日、主人と一緒に、ソフトバンクの王貞治監督にお会いしたんです。王さんは”日の丸のおかげで優勝できました”と仰っていましたが、この人が日の丸のおかげなんて言うのは、おかしいんじゃありませんか? 」
そう言ってコメディアンは笑いをとった。先日の園遊会で、王監督が、天皇陛下に話した内容を皮肉ったのだ。続けて、「そう言えば、去年は皇室典範を変えるとか変えないとかで、マスコミが随分騒がしかった。でも、ウチの次男のところに男の子が生まれたら、それがピタッとおさまっちゃいましたね。」
と悠仁親王のことを話題に。そして、
「今日は、実はその子を連れてきてるの。ちょっと連れてきて」
と言うと、スタッフが舞台の下からケープに包まれた赤ちゃん人形のようなものを壇上の”美智子皇后”に無造作に手渡した。
よく見ると、猿のぬいぐるみである。
”美智子皇后”は、そのぬいぐるみに向って、
「ヒサヒト!ヒサヒト!」
と声をかけながら、その猿の顔を客席に向けたり、ぬいぐるみの腕を動かしたりする。場内は大爆笑。
大受けに満足の”美智子皇后”の芝居は続く。
やがて、抱いている猿のぬいぐるみに向って、
「ヒサヒト!お前は、本家に男の子が生まれたら、お前なんか、イーラナイ!」
と叫んで、舞台の左側にポーンと放り投げるパフォーマンスが演じられた。だが、このシーンで場内は静まり返った。
若者の中にはクスクスと笑いを漏らす者もいたものの、さすがにここまで来ると観客の大半が凍りついてしまったのである。そして、ここで登場したのが「話の特集」の元編集長でジャーナリストの矢崎泰久氏と、作家であり、タレントでもある中山千夏さんだ。二人は、何十年もの間、行動を共にしている”同志”である。
静まりかえる観客
「これはこれは。さる高貴な方の奥さんではないですか。その奥さんに聞きたいことがあるんです。」と、矢崎氏。
「天皇なんてもう要らないんじゃないんですか。天皇なんてのは民間の邪魔になるだけでしょ?」と聞く二人に、”美智子皇后”は、
「あら、アタシは民間から上がったのよ。」と、応える。中山女史が、
「そもそも天皇になれるのが直系の男子だけという方がおかしいでしょ?男でも女でも、長子がなれるようにすべきじゃないでしょうか。それで、ハタチぐらいになったら、本人の意思で天皇になりたければなり、なりたくなければ一般人になってそれで終わり。普通の市民のように選挙権も持てるようにすればいい。そうしていけば、天皇家というウチはなくなります。」と持論を展開。すると、矢崎氏が、
「そう言えば、今日はご主人が来てませんね?」と”美智子皇后”に尋ねる。
「ハイ。」
「どこか悪いの?」と、矢崎氏。
「ハイ。知っての通り、病でございまして。マエタテセン?じゃなかった、エーと、あ、そうそう、前立腺を悪くしまして。あまり芳しくないのですよ」
「それはご心配でしょうねえ」
「そうなんです。」
そんなやりとりが続いた後、突然、矢崎氏が、
「それで、あっちの方は立つんですか?」と、聞く。
”美智子皇后”は面食らいながら、
「私の記憶では・・・・・出会いのテニスコートの時は元気でございました」と、応える。場内は、シーンと静まり返った。天皇のご病気までギャグにされたことで、さすがに観客がシラけてしまったのだ。
「笑い声なんてなかったですよ。何て下劣なことを言うのか、と思わず拳を握り締めてしまいました」と当日、イベントに参加した観客の一人がいう。
「その後も園遊会で来賓とお話しする両陛下の物真似で、笑いをとっていましたね。憲法や教育基本法の集会だと思っていたのに、結局、この人たちがやりたかったのは、安倍晋三のこきおろしと、皇室を中傷することだけだったんですね」
だが、呆れるばかりの内容は、まだ続いた。
今度は、元放送作家でタレントの永六輔氏が舞台に登場。永氏は、
「ここ(日比谷公会堂)は、昔、社会党の浅沼稲次郎さんが刺殺されたところなんです」
「君が代は、実は歌いにくい曲なんですよ」などと語り、アメリカの『星条旗よ永遠なれ』のメロディーで『君が代』を歌うというパフォーマンスを見せるのである。
当日、集会に来ていた白川勝彦・元自治大臣がいう。
「永六輔さんが、はっきりとした歌声で君が代を『星条旗よ永遠なれ』のメロディーで歌いました。うまかったので、自然に聞こえましたよ。へえ、こういう歌い方があるんだ、とびっくりしたというか、妙に感心してしまいましたね」
君が代を『星条旗よ永遠なれ』のメロディーで歌うーーーーそれは、この緊急市民集会とやらの”正体”がよくわかるものだったのである。
”反権力”に酔う人々
今回、”美智子皇后”を演じたのは劇団『他言無用』に所属する石倉直樹氏(49)である。永六輔しに可愛がってもらって、全国各地のイベントで活躍している芸人だ。
「僕たち(注=メンバーは3人いる)は、テレビではできないタブーに切り込む笑いをやっているんです。持ちネタは、色々ありますよ。杉村太蔵や橋本龍太郎、それに創価学会だって、やってます」
と、石倉氏がいう。
「中でも最近は美智子様の芸が目玉になってきていますね。実はお笑い芸人として活動を始めた頃、ちょうど昭和天皇がご病気になって、歌舞音曲は慎め、と仕事が次々キャンセルされたことがありましてね。その時、これはおかしいぞ、と思いました。16年経った今も、お世継ぎがどうのこうの、とやっている。何とも言えない怖さを感じます。美智子様のことは好きなんで、できれば綺麗に演じたいんですけどね」
悠仁親王を猿のぬいぐるみにしたことには、
「この小道具はよく使うんです。普段は、名前をそのまま言わないんですが、あの集会では、ついフルネームで言ってしまいました。
(ご病気については)矢崎さんと中山さんに下ネタをふられ、乗せられてしまいました。僕は基本的に下ネタは好きではない。永六輔さんには以前、永さんがやっておられた渋谷の劇場にも出させてもらいましたし、去年は沖縄公園にも京都のコンサートにも出させてもらいました。京都では、僕が皇后で、永さんが侍従の役で、色々やりましたよ。僕自身は、これを(市民)運動としてやっているつもりはないし、あくまで自分が面白いと思うことをやっているつもりです」
お笑い芸人としてタブーに挑戦するーーー石倉氏は腹を据えて演じているらしい。
だが一方、司会を務めた佐高氏の反応は全く違う。
「皇室を中傷する劇?いやいや、そもそも劇の中で皇室なんて一言も言ってませんよ」
と、こう語るのだ。
「あくまで、”さる高貴な奥様”としか言ってないんですから。だから皇室の中傷などではありません。それは受け取る側の見方ですから、こちらがコメントする理由はありませんよ。そんなことを言うなら核議論と同じで、こっちも封殺するな、と言いたいですね」
永六輔氏は、なんと言うか。
「僕はあの日、3時に来いと言われて会場に向かったんですけど、車が渋滞して遅れ、3時半に到着したんです。だから、そのコント自体、見てもいないし、全然分からないんですよ。だから、『週刊金曜日』に聞いてくださいな」
と、知らぬ存ぜぬだ。
石倉氏に比べて、二人は何とも歯切れが悪い。矢崎氏と中山女史に至っては、取材申し込みに対して、梨の礫だ。
永氏は、かつて、童話『七つの子』など野口雨情の名作を根拠もなく「強制連行された朝鮮人の歌」などと言ってのけ、関係者を激怒させた”前科”がある。
その関係者の一人、作曲家のすぎやまこういち氏は、今回のことをこう語る。
「そうですか。まだ(永氏らは)そんなことをやっているのですか。呆れますね。下品です。自分に置き換えて考えてみればいい。自分の孫が猿のぬいぐるみにされて、放り投げられたり、病気のことを揶揄されたりしてごらんなさい。人権に対する意識も何もない。彼らは、いつも人権、人権というくせに、実はそれが彼らの正体なんですよ」
主催者である「週刊金曜日」の北村肇編集長は、同志の編集後記でこの集会の模様をこう記している。
<冷たい秋雨の中、二〇〇〇人近い人びとが集まった。不思議なほどに穏やかな空気が会場には流れ途切れなかった。永田町の住人に対する、満々たる怒りを深く共有しながら、しかし、そこに絶望はなかった>
”反権力”とやらに酔った人々-彼らにつける薬は、果してあるのだろうか。以上
まさに”反権力に酔ってる”だけの自己満足にしか見えない。
こんな事やって国民の共感が得られると本気で思ってるんだろうか?
で、「さる高貴なご一家の奥様」シリーズは週刊金曜日お抱えネタのようで、少なくても2001年からやってたようです
風刺漫画
隔週掲載の1コマ漫画が、今週号(396号〔1月25日〕)から「金曜アンテナ」欄に登場します。作者は、フリーエンターテイナーの石倉直樹さんです。
石倉さんは、米ニューヨークでパントマイムを学び、社会風刺コント集団「ザ・ニュースペーパー」をへて、フリーエンターテイナーとして活躍しています。また、本誌「虫メガネ」でおなじみの松崎菊也さん、松元ヒロさんの3人で、「他言無用プロジェクト」を結成し、鋭い社会風刺を繰り広げています。
昨年11月3日の「『週刊金曜日』創刊8周年”大演会”」でも、他言無用プロジェクトの3人は抱腹絶倒のコントを披露してくれました。なかでも、石倉さん演じる、「さる高貴なご一家の奥さま」は絶品で、会場の爆笑を誘っていました。
イラストでは、最新の出来事をユニークな視点で切り取っていただきます。コントとはひと味違った社会風刺をお楽しみいただければ幸いです。
で、結局ことの顛末 は・・・
最終的に同誌は、佐高信発行人および北村肇編集長名にて「人権及びプライバシー上、一部の表現に行きすぎや不適切な言動があったことで、誤解や不快の念を生じさせてしまいました。集会主催者として配慮を欠いたことを率直に反省しおわびするとともに、今後開催する集会等の運営には十分に留意をしてまいります」との見解を示し、誌面上で謝罪・反省の記事を掲載した。》
以前、朝日ニュースター という局があり、アカヒ記者やOB、在日や反日日本人をいっぱい投入し、朝日新聞社の中から放送していました
《アカヒの電波工作。朝日新聞大株主のCS放送局「朝日ニュースター」とは》より
・・今日は、その反日偏向番組のいくつかを紹介します
それぞれの番組のメインの司会者が、辛淑玉(シンスゴ)・葉千栄・・金慶珠・上杉隆・青木理・金子勝・愛川欽也・・
サブが・中山千夏・永六輔・下村満子・荻原博子・落合恵子・吉永みち子・重信メイ・中村うさぎ・二木啓孝・佐高信・石坂啓・・
というラインナップ。今思えば、皆アカヒマインドのオンパレードだったなぁ・・・(遠い目)
それもそのはず、この朝日ニュースターの主要株主は
朝日新聞社 83.2% (2011年3月31日時点) テレビ朝日 朝日放送 という構成ですから。で、ボヤキがてら、《朝日ニュースター 》 カテゴリー作って記録してました
例えば、このニコニコ大辞典の『パックイン』解説 でなんとなく全体像も分かって頂けるかと・・・
もう類友ですよね(呆)
こういう構図なので、週刊金曜日はアカヒの補完勢力だと思っていました。
サヨクの批判するヘイトスピーチって、韓国・朝鮮・在日に向けてのものだけだし、独善で勘違いも甚だしい集団。
他を侮辱する下品さからして・・そもそも週刊金曜日って日本版(例のフランスの風刺週刊紙)「シャルリー・エブド」かもね。
そんな集団の人達が、テレビコメンテーターとして偉そうにコメントしている日本のテレビ業界って本当に異常です
佐高信が「ヘイトスピーチと
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《朝日新聞が「南京事件」を「南京大虐殺」として火をつけた本多勝一の「中国の旅」とは》
2ヶ月前、Chinaが"南京事件"と"(従軍)慰安婦"をユネスコ世界記録遺産に申請しましたが、
そもそも「南京大虐殺」というのも、朝日新聞記者だった本多勝一の書いた「中国の旅」が発端です。・・
《風刺画と表現の自由・「私はシャルリ」現象と岸井氏のコメントに違和感 【News23】 》2015年01月13日
岸井氏「・・あの規模には本当に驚きましたよねー。、フランス革命以来200年以上ね、大切に守ってきた、言論表現の自由、それが危機に見舞われているとそういう状態でしたからね、その危機感の表れだと思うんですよね。
また世界が反テロで団結した歴史的な日にもなったと思います。
だから私達日本人もこれを機に、言論・表現の自由がいっかに大事か、そういう事を再認識するそういう機会にしたいと思うんですよねー。」
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《日本にヒドイ事されたと手を取り合う人達》のつづきです。
【ニコニコ動画】【アイヌとして生きる 1】殺して殺して殺しまくった日本
【痛快!おんな組】は、めでたくこれが最終回!!(要約です。アイヌ語が分からないので違っているかも。指摘して頂くと助かります)
まずオープニングトークで朴慶南(パク・キョンナム)(左端)が、
番組で以前取り上げた、関東大震災時の朝鮮人虐殺事件の、荒川の河川敷(並ばされて機関銃で撃たれたという場所)で、毎年やっている慰霊祭に参加したが、やっと宿願の慰霊碑が建ったという詳しい解説をして、スタジオの全員で、「行こう行こう!と」盛り上がっていました。
永六輔氏は、風力発電の公害問題を中山千夏と一緒に熱弁。(うっかり「未亡人」と言って「ヒドイ言葉!!」とシンスゴに怒られていました^^;) その反対運動家(未亡人)と共闘しているらしい。あと雑談(略)
辛淑玉「今日は相当バトルがあるんじゃないかと、
そうですね、(最後だから)言いたい事、、いつも言ってるクセに(笑)とか、、
今日もいつもの通り、この後は、ステキなゲストをお招き致しておりますので、(説明)。
いつもね、戦後の要するに植民地支配とかって言うと、まぁ台湾であったりとか、朝鮮半島であったりだとかっていう見方をする人はとっても多い。
だけども日本のね、国家としての(最初の最高の)植民地ってのは、やっぱりアイヌですよっ。うん、殺しまくって殺しまくって殺しまくりましたからね。で、未だにそれが歴史教科書にも何も出ていない。
そこで今日は、アイヌに対する国家による殺戮、そして差別の問題を実際にここで語って行きたいと思います。(中山千夏、大拍手)・・」 CMへ
(-ゲスト紹介-)
辛淑玉「生活の中に実はアイヌの言葉がたくさんある。知ってる言葉ある?!」
朴慶南「私は『イアンカラッテ』(あなたの心にそっと触れさせて頂きます)っていうのを、必ず公演の時に最初に話す。アイヌの言葉って心に響くとっても暖かい良い言葉がすごく多い。」
辛淑玉「雑誌のノンノ(花)もアイヌ語で、キロロ(喜び)もそうなの。で、東京にアイヌがいないと思っている人が多い。移動の自由がないと思っているのか知れないけど、実際には?!」
出原昌志氏「5千人~1万人いると言われている。高度成長期の後。それも関東の民族団体が東京都に申し入れして調査した。全国にいる。」
辛淑玉「在日も日本国籍取得すると、在日とカウントされないので、文化・生活の継承してても全体は把握できていなくて色んな施策が出来ないという事がある。」
朴慶南「子供のお母さんが『私アイヌなの』って話して、付き合っていた。」
「地名で良くある。日暮里、我孫子も」
辛淑玉 「歴史の中でも、、これは自分で買った本だが、『しらせ』は教科書にたくさん出てくるが、
道案内をしたアイヌの事は全く触れていない。歴史に出てこない。もう一つすごいなと思ったのは、私、教材でも使っていたが、八甲田山の捜索隊としてアイヌを使っているんだよね。でいて、その存在はナイという形でやってきて、、出原さんは、シャモかアイヌか?!」
出原氏「シャモです。日本人の事で、あまり良くない隣人の事。」 辛淑玉「散々ヒドイ事したからねっ」
出原氏「シサムというのは良き隣人の事。」 辛淑玉「アイヌラマット実行委員会とは何か」.
出原氏「東京の東部地域で市民・労働組合が一緒にアイヌ民族の権利会を連帯していこうと作った共闘組織。」
辛淑玉「なんか事件とかあったのか。」
出原氏「河村さんも一緒に共同????して頂いてるんですが、放送大学でアイヌ民族は民族として成立した事がないとか、民族でないものがアイヌ新法を制定運動やったのは大きな問題であるとか、自ら和風化・同化したとか、
コウノモトミチという3代のアイヌ学者が発言し、4年間繰り返し流された。民族が抗議をしても流された。足立学習センター内の放送大学に、河村さんから提供されて申し入れを始めた。その時足立区にもチャランケを申し入れたり、そういう経過で作った組織。」
辛淑玉「チャランケっというのは?!」出原氏「話し合いの事。」
中山千夏「あのね、『きつねのチャランケ』という民話があって、北海道で買って読んで大感動した。つまり、日本国憲法みたいな民話なの(笑)何でも物事話し合いで、チャランケをするきつねの口から美しい言葉が川のように流れ出て、相手も納得した話。つまり言葉の力がスゴク信じられている。だからスゴイなぁーと思って、皆で真似した方が良いなと思った。」
辛淑玉「でも、日本国憲法ってのは、先住民族の権利って何も規定してない。」
中山千夏「そうそう、いないっていう前提だもん。」
辛淑玉「自分がアイヌなんだと認識したのはどんな時だったか。」
アイヌ氏「私の育った環境は、アイヌ記念館を経営しいたので、意識はあったが、父親が亡くなってから、特にそういう気持ちが強くなった。」
辛淑玉「私とか、キョンナムは他者から『朝鮮人』って言われて『えっ?!』っていうことで、そこで初めて自分の事を確認するみたいな作業が続くが、『河村カ子トアイヌ記念館』というのは、どういう所か」
アイヌ氏「大正5年に、明治生まれのおじいちゃんが作った。
当時は給与地といって、アイヌが一箇所に集められて、第七師団ってのが来て、軍人がアイヌの学校とか見物に来た。すると土人小学校の子供達は、軍人の前で踊りをやったり、見世物にされた。それはヒドイというんで、おじいちゃんが資料館を作って、ここで見てくださいと、但しアイヌ文化を理解してくださいという事で作った。」
朴慶南「土人という言葉がずっとあったってヒドイ。」
辛淑玉「私ねっ、アイヌを散々殺しまくってね、支配しまくったそのクセがね、植民地支配でバンバン出てきたと思う。(怒)」
朴慶南「少年よ大志を抱けってのは、それこそアイヌの土地を奪って殺していくっていう事がそこにあって、それから台湾や朝鮮に侵略して行ったという歴史があるって北海道大学の先生に聞いた。」
辛淑玉「アノ人、大志を抱け以外何もいってないからねっ(笑)はははは」
アイヌ氏「それより、アイヌ政策を考えたのは新渡戸稲造とアメリカ軍人のフォーレスケポン?。アメリカの同族法を真似して旧土人保護法ってのを作った。」
辛淑玉「どうやって民族を抹殺していくのかを、アメリカ仕込みでやった。」
辛淑玉「ちょっと歴史を少し振り返ってみたい。(フリップ)出原さん、簡単に流れを説明してくれますか。」
出原氏「ここに出てないが、元寇(モンゴルが攻めてきた)で、戦前は神風、、北条氏が阻止をしたと。
だけど実際は、朝鮮半島でのモンゴルの戦いがあって、丁度台風の時期だったという事で、
実は知られていないが、北からもモンゴルが攻めてきた。北海道の方から。それはアイヌ民族が抵抗して阻止した。そういう民族に偉大な歴史があるが、それが全部消し去られている。」
辛淑玉「シャクシャインの戦いくらいからでしたよ。音として聞くのがね」
出原氏「200年前にはクシャマインの戦いがあり、シャクシャインの戦いがあり・・・(民族虐待・女性に対する性暴力に対する蜂起の歴史詳細 略)」
(「だまし討ちだよねー」「だよねー」「だましだよねー」で、シャモの話で盛り上がる。)
出原氏「で、明治維新になって、天皇制国家が成立し、開拓使を置いた。この時点でアイヌのが土地が全部モシリ?になった。開拓使というのは、まさに植民地のこと。朝鮮総督府と同じような権力。その後戸籍法交付。」
辛淑玉「スゴイね。ここで旧土人と。新平民と同じ。」中山千夏「創氏改名もあって」
辛淑玉「河村という名前はこの時に付いたのか。」アイヌ氏「そうです。川のそばに村があったから。」
辛淑玉「シンリツ・エオリパック・アイヌというのはどういう意味?!」
アイヌ氏「先祖を敬うという意味でシンリツが先祖、エオリパックが敬う。アイヌが人とか男。」
永六輔「アイヌは言葉はあるけど文字は無いというのは本当?!語り伝えて、、」アイヌ氏「ありません。はい」
辛淑玉「だから、人が殺される事によって文化・歴史の伝承が出来なくなっている。
実は私、出原さんとあったのが増上寺だが、そこで開拓の為に同化をさせる為に、アイヌを教育するのに、東京に送って、、教育と言う名目の拉致。そして虐待して、殺されていくわけ。」
出原氏「全部で38名強制連行されて、監視体制の中で二年間で4人亡くなった。」
辛淑玉「その学校があったのが、芝の増上寺のところ。あの時何していたのか?!」
出原氏「東京イチャルパっていって、慰霊祭をしていた。2003年から関東のアイヌ団体の方ベラの会が呼びかけて集まって、その開拓使会学校に強制連行されてきたアイヌと自分達の事が重なる。それで先祖の慰霊と首都圏で亡くなっていったアイヌの人達を一緒に慰霊をしている」
辛淑玉「増上寺もそうだが、そういうイベントをやるのは凄く大変じゃないか。理解されないし、反対も多いし。」
アイヌ氏「要するに皇民化教育ですね。アイヌは徹底的に教育されて、、だからアイヌは樺太・千島にはアイヌとウイルタ・ニクフ?民族がいた。ウイルタ・ニクフは土人。アイヌは旧土人といって、、私達よりもっと少数のウイルタの人達は未だに名乗れないがたくさんいる。」
中山千夏「へー、たくさんいる?!知られてないねぇ、そういうの!」
辛淑玉 「ちょっと先住民族の定義をここでちょっと(フリップ)」
出原氏「(説明 略)戦後は、どの民族も対等でそれを侵してはならないとなっているが、
ただ先住民族に関してはずっと例外に置かれてきた。なぜかというと国内植民地になってて、自分達の近代国家形成が問われるという事で、
ここにある『先住民族は侵略者が来る以前の民族の後継者、不法に奪われた土地を取り戻し、自らの社会制度や文化、言語を将来の世代に伝えようとしている人々』」
辛淑玉「国連とか国際社会の中では、アイヌは先住民族としてもう明確に、、うん。認知されている。」
朴慶南「政治家で、日本は単一民族国家とかたまによく出てくる。ヒドイ話だ。」
中山千夏「私、初めてアイヌ民族以外にいるというのをはじめて知った。」
出原氏「1926年には、5民族を囲い込んで、観光地と生態観察の場にして、しかもその人達をソ連へのスパイ養成としてやって、戦後は国家はそんな事知らないと言って、一切伏せた。」
朴慶南「博覧会で見世物にされた事があった。人類館で、朝鮮人・沖縄の人・アイヌの方達が、、ほんとに。」
中山千夏「小笠原の人も文物だして、西洋人もいるからね、小笠原は。」
辛淑玉「尚且つ、見世物とされ、医学や科学の研究対象になっていった。(研究は随分された、研究材料的に)
私はこの『日本の侵略』という本に出ている、大学の教授の後ろに壷がたくさん並んでて、何かと思ったら、アイヌの人の頭蓋骨で、それを一生懸命説明しているが、まずね、これ掘り起こしたわけでしょ?!」
出原氏「そうです。不法に墓を発いて、」朴慶南 「標本のようにしているんでしょ」
中山千夏「断りなしに」辛淑玉「断りなし。これいつの頃?!」
出原氏「昭和天皇に見せて、説明をしている。戦前」
辛淑玉「そういう形で標本として、、で、死んだ人の墓を本人や遺族に全く関係なく掘り起こして、そしてそれ返したのか?!」
アイヌ氏「いえ、まだ北海道大学の納骨堂に入っている。」辛淑玉「納骨堂は作らせた?!」
アイヌ氏「はい。私は旭川だが、5体あったのを旭川は返してもらって、市で納めてもらっている。」
辛淑玉「それで、なんせ土地を奪う。アイヌって国とか国境の発想はないですよね?!ちなみにアイヌの人達はみんな同じ言語なのか?!」
アイヌ氏「いえいえ、相当広い地域に住んでいたから中国・ロシア・アメリカ・日本ね。だから言葉も様々で、例えば北海道と東北も違う。」
辛淑玉「で、土地を奪われ、この『旧土人保護法』というのは?!」
出原氏「主食のサケを獲るのを禁止したのは日本だけ(漁業権を認めなかった)。当時、日英通商条約でイギリス人が、日本国内にドンドン入ってくるのに、ソレを見られたら恥ずかしいっちゅうことで、一定の保護政策と言っているが狩猟をする民族に対して、15000坪の農地を与える代わりに、農耕民族になりなさいと(給与地)でそっから離れることが出来なくなり、しかもその土地は300チョウある内の20チョウしか農耕ができないとかね、そういうヒドイ土地。
もうひとつは、徹底化した皇民化教育。アイヌ小学校を設置して、もう徹底した皇民化教育をすると。」
辛淑玉「お父様やおじいちゃまは当時の話はしていたか?!」
アイヌ氏「旭川では、江戸時代に松浦タケジロウという人が来て、ガイドした人が村長のクチンクレという人で、石狩に連れて行かれて強制労働させられた時にかなりの高齢だったが、石狩で承認とチャランケ(話し合い)して全員旭川に連れて帰ってきたので、旭川の村は維持されて残ったが、海岸の方の人は強制労働で滅びてしまった。そういう時代だった。
明治の初めは、アイヌは日本語喋るなと言われ、読み書きはもちろん出来ない、そういう時代だった。」
辛淑玉「お父さんは戦争と重なるが、戦争の話はしていたか?!」
アイヌ氏「父親は明治26年生まれなので、太平洋戦争の時は50近かった。当時はみんな農業に失敗してしまって出稼ぎ、、キコリになるか鉄道の人夫として働くしか道が無くて、鉄道で一生懸命働いてもアイヌと言われて賃金が安い。最初から差別された。悔しいので友達と二人で札幌行って測量技師になった。和人が行けない険しい所でもテンリキョウとかピョンヤンに行って測量した。名前が金を稼ぐ人の通り、金をもらって、記念館を作り直した。」
辛淑玉「お母様はどんな方?!名前は?!」
アイヌ氏「江戸・明治・大正・昭和と日本人が北海道にやってくると成功する人は一部で、屯田兵の場合は失敗して帰ってしまう時に、口減らしでアイヌの家に置いていく。それが1万人位いて私の母も屯田兵が置いていった子供。で、アイヌの家に育ってアイヌ語の方が分かる」
朴慶南「旭川でフチというアイヌのおばあさんに会った時に、『和人はアイヌの子を育てないけど、アイヌは倭人が捨てた子供達を育てたんだ』って言った。
辛淑玉「在日の先輩たちも、アイヌに助けられた人たっくさんいるよね。」
朴慶南「沖縄でも言われた。沖縄戦の時に自分達を庇ってくれたのはアイヌの人達だったって。うん」
辛淑玉「そして、北海道のウタリー(同胞)アイヌ協会が出来、皇民化教育っていうのは、私達割とピンと来るんだけど、徹底する。あらゆる物を奪い取られて、心も精神も文化も家族も分断されていくわけ。アイヌ教会が出来たのは戦後?!」
出原氏「戦前もあった。60年代に北海道ウタリー協会という風に名前を変えてたという事。」
辛淑玉「やっっと、自分達の力で声をあげる事が出てきた。ただ、ただ、」
アイヌ氏「ウタリーというのは、同胞とか仲間という意味で自分達の民族名称を名乗れない時代だった。私は旭川アイヌ協議会っていって、最初から人(人間の事をアイヌというから)アイヌ協議会という名前ですから。最近やっと札幌の方でもアイヌ協会と」
中山千夏「ねー、ニュースに出てた。やっと民族の名前をちゃんと掲げるようになったと」
辛淑玉「話はそれるが、私イヨマンテって聞いた時、昔懐かしい歌謡曲(歌で盛り上がる)どういう歌?!」
アイヌ氏「イヨマンテの事を理解していない歌」辛淑玉「イヨマンテというのはどういう意味?!」
アイヌ氏「動物の魂をおくるという、、熊祭りとか呼ばれているが、ヒグマおくり・狐おくり・くじらおくり・カジキマグロおくりとか力の強い動物とかに感謝する祭り。」
辛淑玉「(イヨマンテの歌とか関係ないのに)部分部分つまみ食いをされていくわけ」
中山千夏が子役時代舞台でアイヌの子供の役をやった話 略
出原氏「柳瀬ブルースというのは、アイヌ民族のウサキリョウ?さんの作曲した曲」
辛淑玉「へーーそうですかー、なんか胸がジンときちゃいますねー。」
中山千夏が大人になってからやったアイヌ人役でシャモをやっつける話 略
アイヌ氏「イヨマンテも北海道の道条例で禁止された。が、私は86年に無視してやった。ソ連時代は向こうでも禁止されていたが,ロシアになった途端に、樺太とモスクワの北の方で先住民がイヨマンテやった。」
中山千夏「禁止したのはどんな理由?!」アイヌ氏「まぁ、残酷だとかいう、、」中山千夏「じゃあ闘牛も禁止しなきゃ」
辛淑玉「フン、自分達がアイヌ殺したのは残酷じゃないのかって(笑)ハハハハハ」
出原氏「例えば、クジラの踊りというのがあって、亡くなったクジラをカラスが突っついて食べるっていう、それが残酷だとか言ってねぇ(笑)民族の文化を理解せず、それが残酷だって。」
辛淑玉「北方領土を返還ってよく言うが、私の友人が『北方領土はアイヌに返せ』って言ってた。(笑)。あれはどう思うか?!」
アイヌ氏「元々。アイヌの土地で、明治時代に千島・樺太から強制的に北海道に連れてこられたが、隠れて残った人もいる。だから未だにロシアに住んでいるが、私達の自治区を作って欲しい。そこで魚を獲ったりして自活したいというアイヌがたくさんいる。」
辛淑玉「今、アイヌの人口はどれくらい?!」
アイヌ氏「北海道で10万人くらいで、関東周辺には1万人くらい.ロシア・サハリンにも少しだがいる。混血はしているが北海道アイヌも混血はしている。ロシア系と朝鮮系と」
辛淑玉「アイヌと会うと、ロシア人っぽい人や幅が広い。」朴慶南「沖縄の人と重なる感じがする。」
アイヌ氏「いつも沖縄行くと、ほとんど地元の人だと思われる。(笑)」
辛淑玉「ちなみに今お召しになっているこれは?!で意味は?!」
アイヌ氏 「これはうちの姉が作ったもの。旭川で一番多いのは、アイユシ?と言って矢が、両方にトゲがあり、病気が来ない様に魔よけの意味。地方によってはモレウ?という渦巻き模様がある。」
朴慶南「帯広からアイヌ民族の男性が来て、埼玉・群馬の保育園で歌や踊りや文化を教えていて、保育士も一緒に習っているが、子供達がそれぞれ自分で衣装を作って、そこにアイヌの模様を入れてたりして、、それをよく見に行くが、その文化が先生も子供達もみんな大好きで、うん。」
辛淑玉「できればね、歴史をちゃんと教えないとなぁー。文化だけアレしてもねぇ。歴史を教えなかったら、、
私ね。アイヌ語で作って欲しいものいっぱいあるの。例えばパソコンはアイヌ語でなんていうかとかね。今も生きてて今も継承されているから」
アイヌ氏「日本語でも外国から来たものそのまま使っているから。各地のアイヌ語教室が13あるが、それぞれ造語を作っているがなかなか統一できない。」(言葉の話 略)
辛淑玉「だから私達、植民者のコトバ(日本語)で今喋ってるんですよ。(笑)はははははは
でも何故アイヌの人達が多くの人の目に止まらないのか、CMのあと」
辛淑玉「『レラの会』の平田幸さんにもここから参加して頂くが、レラの会とはどういう会か?!」
平田氏「私の母親が、札幌にいるチカップミエコ?さん(アイヌ刺繍で有名な)と作った関東の会で、レアというのは『風』という意味で、古式舞踊を中心として活動している。」
辛淑玉「今、お召しになっているのはご自分で作られた?!」
平田氏「そうです」
辛淑玉「ちょっと立って,後ろも見たいな。スゴイきれいねー。これも魔よけの?!」.
平田氏「これは全部厄除けで、悪いものが入ってこないように。」
辛淑玉「平田さんは自分がアイヌだって認識したのはどんな時か?!」
平田氏「私は小学校2年生まで知らなくて、幼稚園の時からおじいちゃんにアイヌの踊りを教えられてたが、
それがアイヌの踊りだと知らないまま教えられていた。毎日殴られたりしてた。」
辛淑玉「おわーーーっ、厳しく?!」.
.
辛淑玉「ここに書いてある山本多助さんっておじいちゃんなんですね(笑)『ウタリーよ、真に覚醒し決起せよ・・・本道はアイヌの国なのだ』すごい(笑)」
平田氏「すごいスパルタで。」
辛淑玉「普通、在日の家でも民族教育厳しいと子供は逃げるが、」
平田氏「小学校でも幼稚園でも、お説教が始まると二時間ぐらい。でずっと正座。」
辛淑玉「うわーーーー」
平田氏 「その説教が嫌で、ただ行ってて。」
小学校で、アイヌだといじめられた話、先生にもアイヌだからと言われて泣いてた話 略
辛淑玉「まだ生きてるっ?!その先生、、仕返しに行こうか。はははは」
平田氏「いい死に方はしないなぁと」
辛淑玉「いい死に方してもらっちゃ困るよね。早く死んでくれ、早く死んでくれ(合掌した手をすり合わせる)はははは
辛淑玉「先住民族アイヌに対する無関心とか無視というのはどこから来ているのか」
出原氏「ひとつは戦前、優勝劣敗の社会進化論で、滅びゆくアイヌというのが随分新聞でも載ってた。」
辛淑玉「自分達は殺してるのにね。(笑)」
出原氏「単一民族国家感がね、昔の頑なな政治家が言ってるのとは僕は違うと思う。アイヌを認めていないという事は単一国家だなぁと。」
辛淑玉「賠償も保障も何もないからねっ(怒)」
出原氏「こういう歴史でも、例えばアイヌの土地を奪った時に、皇室が2割の御料地として奪って、財産になっている。こういった歴史を日本人自身が、学者でも戦争責任とか植民地支配になると、天皇の戦争責任であったりするが、そこは上手ーく回避している。単一民族というのなら、アイヌの言葉も文化も権利回復も全部行って、初めて多民族国家だ。」
辛淑玉「だって『旧土人法』が1997年まで、、うーん」
中山千夏「これの反対運動は署名したりしたけど」
出原氏 「日本政府は80年には国際会議、81年かな。アイヌは完全に同化してそんな民族はいないんだと公言してた。91年くらいまで少数民族がいるかもしれないしいないかもしれないと言うのが政府の見解で、
今は先住民族として認めたというが、しかし植民地支配の歴史は一切認めていないし、権利回復もしていない。」辛淑玉「教科書にも書いてない。」
中山千夏「勝手に滅びたと言いたいのね。」
出原氏「さっきの北方領土の話もあるが、みんな揃って『北方領土返還!』と言っているが、でも北方領土は、、」
辛淑玉「オマエの物かって」
出原氏「アイヌ民族が存在しないと言う事が前提なので、これは徹底した差別。」
中山千夏「あの、単一民族っていうよりも、問題なのは皇国史観。皇民であると我々は。それはあらゆる民族や人種よりも強い結束であるという、皇国史観がスゴイ問題だと思う。」
出原氏「ここに、日本国民と書いてあるが、ここで日本人も臣民に統合されたわけ。アイヌより先に統合されたのは日本人。で疑問を持たずにアイヌを踏みつけ、侵略の歴史を重ねるっていう、、」
中山千夏「あと、文化の面で言うと、東北の人達も和人だけど、すごい言葉や歴史の皇国教育された。というのは大和の中に大昔は東北の方は入ってないわけだから、皇国意識が低いわけだったので、東北の人はスゴイ皇国教育をされた。」
辛淑玉「歴史を学ぶとか言うと、すぐに朝鮮の歴史とかね。違うだろうって。まず自分の足元ね。日本人にとったら」
辛淑玉「アイヌは今まで消してきたけど、物凄い大きな動きをした時期があり、デモをやった。アイヌの人がアイヌだと言って東京でデモをするのは大変な事だったが、、」
アイヌ氏「旧土人保護法を撤廃してもらって、新しい法律を作ってほしいと12年前まで続いた。」
辛淑玉「一番求めた事は何か」
アイヌ氏「実際出来たのは、『アイヌ文化振興法』という法律で、自立化基金5千億円を要求した。アイヌは明治から格差があって、読み書き出来ない人もいれば、アイヌの宗教を禁止されて、日本の宗教が嫌いだと日本の価値観についていけない。どうしても合わない、仕事やっても。自分達で雇用を作って皆で生きていこうというのが自立化基金だったが、それは外されて文化を振興しなさい、広めなさいという法律が12年前に出来て」
辛淑玉「でも、それって見世物の延長線上じゃない?!」
アイヌ氏「で、一部の人はアイヌ語を取り戻そうと勉強し、派遣でアイヌの踊りや刺繍を教えたり、アイヌの楽器を作ったりしたが、多くのアイヌは皆貧しい。だからとてもじゃないけど文化保護だけじゃ満足できない。
で、今は定住権を認められたから、自分達の権利を少しでも取り戻したいという運動をやったり。」
辛淑玉「新しい戦いが、新政権と共にスタートしたと思うが、今の政権に絶対にやってもらいたいと思うのは何か?!」
アイヌ氏「明治に同化政策で学校でアイヌ語を使うと怒られ、98年間使えなかった。97年からは各地でアイヌ語を学んでいるが、限界がある。北海道のラジオでアイヌ語講座をやったり、NHKでも『アイヌ語でしゃべらナイト』という番組をやっている。アイヌ語をみんなに知って貰いたい。」永六輔「トナカイってアイヌ語だもん」
辛淑玉「家庭はどんな感じか。家族の写真をお借りしたので」
アイヌ氏「左が妻と子供。
右が姉たちとお袋です。
姉は踊りをやったり、刺繍をやっている。うちの家族の方は親子アイヌ教室っていって、歌をアイヌ語で歌ったり一生懸命やっている。」
辛淑玉「『アイヌ語でしゃべらナイト』っていいね。朝日ニュースターでもやってもらいたい。(笑)」
(河村カ子トアイヌ記念館の説明、修学旅行生を受け入れていて、歴史の話、踊りの体験・楽器を作成・アイヌ料理を体験の話.アイヌの古式舞踊公演の詳細説明・鶴の舞のVTR・それぞれ公演のアピール)
以上
_______________________________________________________________
正直言って、アイヌの事、あんまり知らなかったので驚きました。(全て鵜呑みにはしないけど)
文化や言葉は取り戻してほしいし、北方領土を自治区にしたいなら、それもいいかなぁと思う。
アイヌは先住したいた人達だし。
でも、アイヌの人は、文化・生活を取り戻したいと言ってるだけなのに、
「同じ植民地・植民者の言葉」「残虐した」「殺した」と日本を貶める在日韓国人とその仲間たち、アイヌ民族を絶対に利用しないで欲しい。
雑談でもみんな「和人」「和人」と言ってたけど蔑む意味の日本人って事なんでしょうね。
なんでそんなに憎い日本に居座って、国内問題を外野がギャーギャー言うんでしょう。
口を開けば日本の悪口ばかり・・言葉の端々に憎しみが滲んでました。
友好的な在日の人もいるとは思うけど、こういう言動・行動は、逆効果。すっごーーいキライ、シンスゴとその仲間たち。
この番組はこれで終了~だけど、シンスゴ達は、前編の中国人被害者家族にも、中国のネットサイト運営者やいろんな中国人に取り入ってるし、アイヌにも同情的に近づいてるのが、ただ、ただ、不気味なんだなぁ・・
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政権が変わって、東アジア共同体とか、外国人参政権とかトンデモない方向に行きそうな感じですね。
朝日ニュースターの【痛快!おんな組】という番組は、
在日韓国人と反日ニホン人が、色んなテーマに絡めて日本を貶めるスゴイ内容なのですが、
月イチの番組なのに、再放送がいっぱいあります。
で、ここのとこの内容が、被植民地連合になってきてるんで、
ちょっとヤバイかなと思い、記録します。
中山千夏・辛淑玉(シン・スゴ)・朴慶南(パク・キョンナム)が立ち上げた「おんな組いのち」というの呼びかけ文には
「国籍・民族を越えて結びあっていきませんか 個人と個人の結びつきが国家や民族を動かす」 とあります。
前半は8月分 <終戦特集> 戦後未処理問題と和解
後半は9月分 アイヌ民族の虐待
を要約した文字起こししますが、半分事実ではありませんので物語だと思って読んでください(最後に根拠を書きます)こういう組織の連携の固さ、日本に向けた憎しみの深さは底知れないと思いました。知らぬは日本人ばかりなり・・
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辛淑玉「戦後は、いつまで謝ればいいんだーと声がたくさんあるが、アジアの声に対して、日本の社会は理解できてない。今日は日本の戦後はアジアとどう向き合ってきたのか、戦争処理をしてきたのか、ステキなゲスト(在日韓国人問題研究所所長 佐藤信行氏)を迎えて、語っていきたい。
韓国人問題研究所っていうのはどういったもので、何故韓国人問題なのか?」
佐藤氏「1974年に教会(キリスト)の付属の形でできた。主に在日韓国人・朝鮮人問題を研究したり、アクションの研究です。」
辛淑玉「私もキョンナムも、本当にいろんな現場で会うんですが、まぁ根性の悪い韓国・朝鮮人とよく付き合ってくれている。みんな言いたい事言うけどフラストレーションは溜まらない?!」
佐藤氏「溜まらない。もう周りがみんな在日外国人の世界で何十年と生きているので、心臓に毛が生えている。(笑)」
辛淑玉「大学で教えていてどうか?」
佐藤氏「まず、在日韓国・朝鮮人がこんなに日本にいるのかという話をするが、やはり日本の植民地支配の歴史を話さなければいけないが、95%は初めて聞いたと言う。年表の事実としては知っているが中身は教えられていない。」
辛淑玉「千夏ちゃんは、在日の様々な問題を知るようになったのか??」
中山千夏「私もその学生と一緒。誰も教えてくれないから同級生に(在日が)いるにもかかわらず、なんでいるか全然分からなくて、漠然と大人が嫌がっている雰囲気があった。
で、ウーマンリブで社会運動になって、その中で『あっアノ人達これでいたのか』って運動の中で知るようになり、強制連行とか勉強した。だから我々の年代の普通の人はわかんないと思う。」.
永六輔「戦前の勉強をしたのは僕ひとりだが、そうすると朝鮮半島との関係は、まず????、加藤清正、征韓論、西郷隆盛、合併。そこから知っているから、、しかも文化をたくさん受けているのに、どこからおかしくなったのか??」
辛淑玉「私、昔、永さんが初めて私の事を書いてくれた時に、朝鮮人の事知っているのは、『永』って朝鮮人だからと思ってた(笑) 漢字一文字は絶対に朝鮮人だって(笑)」
中山千夏「中国・朝鮮っていうのは、歴史で言えば、喜んで受け入れて色んな事を教えてもらった、、永家はその流れでしょ」「そうです。」
朴慶南「私、ラジオで若い人に話をしていたら、『キョンナムさんは韓国人なのになんでそんなに日本語が上手いの』とか(笑)、
植民地時代の話をすると、学校で習わなかったと驚く。それは近代は飛ばしてやってないから。
小学校の担任の先生も、家庭訪問の時に、『韓国の方が何故日本にいるんですか~?!』と知らなかったので、そこでまたひとしきり歴史の話をして(笑)、先生ですら知らないんだって、、」
辛淑玉「私達は日本人が、何を知ってて何を知らないかよく分からない。ちなみに佐藤さんは、戦前戦後の話をどのように学生たちに話しているのか」
佐藤氏「とにかく最初に言うのは、知らない事は恥ではないので、これから生きていく上では知っておかなければいけない。
で、最初の一時間目で植民地の歴史を大まかにやって、二時間目で戦国章の事をやる。在日の軍人軍属として怪我をした人達がどういう取り扱いをされたのかをビデオを見せながら話す。100人の内10人位は韓国・中国からの留学生だが、『こんなの韓国で教えられなかった』という歴史もある(笑)
どの学生も事実として知るという事でそこから出発するのかなと思う。やはり僕ら戦後世代は戦場に行ったわけではないが、事実としてあったという事を知らないと、次の事は出来ないんじゃないかと話すと学生達は納得してくれる。日本人として事実として受け止めなければという学生もいる。
これからの世代こそ本当にちゃんと、かつて1945年以前はどうだったか、その後日本はどう処理をしたのか、事実として知っておかないと、良い悪いの価値判断じゃなく、事実を知らなきゃいけない。」
辛淑玉「最近のテレビを見ても、事実の検証という形の番組がいくつかある。ちなみに学生が『日本は何をしたのですか』と聞いてきたら、どう答えるか」
佐藤氏「在日のセンショクギョウ者が、戦後保障を受けられずにいたという現実を知ったならば、ひとりひとりが考えていって欲しい。それを祖父母に聞くなり自分の地域で掘り起こしていくしかないだろう。」
辛淑玉「永さん、私子供の時に、新宿のガード下に障害を負った元軍人がハーモニカ吹いたりだとか、君が代歌ったりとかして、物乞いをしているのを見て、子供心に軍人とか嫌いだったから、侮蔑の目で見ていた。絶対に声もかけなかった。『日本人』と思ってた。
そしたら、大人になってあれが在日だったと聞かされ崩れ落ちた。
日本人として戦争に行って、戦争が終わって戻ってきたら、日本人には恩給がついたが、朝鮮人は捨て去られた。」
朴慶南「ソクさんにお会いして右腕が無いけど、日本人として連れて行かれて負傷したのに、戦後は日本人じゃないと投げ出されて、お金じゃなくて人間の尊厳を取り戻したいんですーって叫んでいた。」
辛淑玉「日本の場合だと、ソクさんは年間生きている時に、もらえるお金が累計8~9千万あるが、それはゼロ。だから医療も受けれないし生活も出来なくて、結局物乞いするしかなかった。
でもアノ時に彼らが在日だと分かった時に、在日社会は彼らを受け入れたかと思った。そうやって、分断して分かんなくした。つまり、あれが在日の姿と知ったときに、暫く私は立ち直れなかった。自分が軽蔑の目で見たから。だから戦後保障の問題になると胸が痛くて、、」
中山千夏「我々の無知さ加減というのは凄いもので、つい最近戦争に負けたらすぐ日本人じゃないと勅令出して、憲法の前に変えちゃったと。ヒドイ事したという認識はあったが、細かい事を知ると政府のする事はスゴイなぁと思う。」
辛淑玉「実際に戦後処理はどんな形で成されたのか」
佐藤氏「場当たり主義でされたと思う。冷戦構造の中で資本主義を復活させる為、戦後保障の問題とか、日本に住む旧植民地出身者への処遇の問題にしても、上手く逃れたというか、きっちり向き合うことなく終わったと思う。」
辛淑玉「日韓条約や日中共同宣言で全てのものが解決したので、今更ガーガー言うのは、お門違いという声があるが」
佐藤氏「1965年の日韓条約も日中国交化にしても、文言では謳っているが、結局は日本が戦後処理に向き合うことなくそれぞれの条約が結ばれた。だから(笑)90年代に入って韓国や中国からドーッと問題提起がされてきた。あの時、本当に政府が言うように解決したというのならそんなのありえなかった。」
辛淑玉「日本の戦後処理の大きなのは 経済援助だが、植民地とか残虐行為とか様々な不法行為が一度もキッチリと裁かれたことがないまま、経済援助で終わってしまった。」
戦後保障裁判の一覧表を見て、ほぼ門前払いと敗訴で、いくつかが和解、という細かい話。従軍慰安婦・強制連行・強制労働の裁判だが、日韓条約で解決済み・時効・という事で門前払いの解説(略)
朴慶南「日韓条約で日本はお金をいっぱい払ったんだから、何で又後でガタガタ言うんだという人達もいるが、どう答えればいいか。」
佐藤氏「結局、確かに日韓条約そのものが戦後保障の一環としてという形ではなく出した。1951年から14年間かかって条約が出来た。その間の交渉記録を読んでいても、日本政府は出したくない。で一貫しているから」
辛淑玉「ある意味日本政府は、日本の国民の財産が出ていくのを守る国家としての責務があったんだと思う。その中で和解された事件で、花岡事件というのがあるが(フリップ)
浅草で行われた遺骨発掘60周年の慰霊祭のシンスゴ氏の取材VTRと、日本人がどれだけ残虐な行為をしたかという辛淑玉氏の解説。.
鹿島と市民が一緒になって、中国人を虐殺した話と裁判の話、関わった弁護士の話、等々ものすごーーく長いので省略。
鹿島へのモーレツ批判と、中国では花岡事件の本もたくさん出ててみんな知ってるのに、日本人は知らないと。
●中国側の弁護士へのシンスゴのインタビュー、花岡事件の被害者の悲惨体験の手紙の朗読
中国現地に、シンスゴが行って花岡事件被害者3家族へのインタビュー。(日本兵の蛮行の証言と恨み事など)映像を流し、鹿島は反省していないからツライ、小泉元総理の行動(靖国参拝)が中国の心を傷つけた。
これらに関わっている弁護士は手弁当でやっているが、同じ人が頑張っていると辛淑玉氏
辛淑玉「アタシね、謝って貰いたい。だけど金も・・はあったり前だと思う。(腕組み)」
中山千夏「一回平謝りに謝らないと駄目だよね。あれは国の為にやったんだ位のことでしょ?!」
朴慶南「長野のマツシロ大本営地下壕でたくさんの朝鮮人が酷使されて亡くなった事件、
(札付きの)西松建設と戦うんだと言いながら亡くなった人もいる。」
中山千夏「それで猛々に、拉致拉致って、それは言うんだよね(腕組み)。
拉致された人にとっては同じ悲しみな訳でしょ?! これは違法でこれは戦前の法律に乗っかるっていうのは私はおかしいと思うの。」
永六輔「何も言いたくない。????思いです。二つのことを思い出した。
上海の抗日開放史館に行った時に『我々中国人は、子々孫々あなた達日本人に対する恨みは忘れません。形づけて生きます。絶対に忘れません。』って言われ、
孫文のミュージアムに行って『孫文は革命の際、日本のお世話になりました。日本人に感謝しています。この感謝の気持ちを子々孫々伝えて絶対に忘れません。いつまでもいつまでも感謝してます。』と同じ人が言った。そういう状態。」
辛淑玉「そう、してもらった感謝と、同時にこの問題は解決しないと許さない。
というのはわかるが、日本の場合は全部一緒こたにする。」
中山千夏「日本が一番いけないのは、戦前の法律に則ったって事でくるけど、
法律自体が人権に対する異常な物だったんだから、人を悲しませたんだから反省しないといけないと思う。」
中国のニュースサイトで9.18ネットというのがあり、
日本が国連常任理事国になる事を反対する署名活動をしたが、世界で4200万~300万くらい集めた
力のある編集長へのインタビュー。
設立のきっかけは、
『日本の右翼勢力が2001年1月大阪で「二十世紀最大のウソ・南京大虐殺の徹底検証」と題した集会をやったこと。
花岡事件の慰霊祭に出続けているNPOの人へのこの事件インタビュー(略)
佐藤氏「冷戦が崩壊した時に、世界的に歴史の清算が起こった。その根源は正に植民地主義だったと。日本とアジアだけじゃなくて、ドイツもフランスも植民地を持った国が向かい合っているが、それがこれからの若い世代の課題」
辛淑玉「加害者でもなく被害者でもない私たちがいる。だから歴史の被害者をしっかり救済して、加害者をきっちり処罰する。そして再発防止。その為に知らなければいけないし、被害者を無視してはいけないし、置き去りにしてはいけない。」
中山千夏「私の持論だけど、国家と個人の感覚をきちんと分けて日本国家だけが悪人じゃないわけだから(笑)どこの国家も要素は持ってるから、あらゆる国の人達が手をつないで国家の悪い部分と向き合っていく事が大事」
辛淑玉「良心ある人々は、手を取り合いましょうね。(笑) (佐藤氏と手を握る)」
辛 淑玉(シン・スゴ) 人材育成コンサルタント
中山 千夏 作家 永 六輔 放送作家
朴 慶南(パク・キョンナム) エッセイスト
◆ゲスト出演者 在日韓国人問題研究所所長 佐藤信行
この人達は嘘を混ぜて話しています。そう言い切る根拠はコレ《ブログ内記事日韓基本条約 詳細動画》
私は、この番組をリアルで見たのと、動画を何度も見ているので理解してますが、日本が個別補償しようと言ったのに、それは韓国政府がやると強く突っぱねたと証言もメモもあります。
シンスゴという人、大昔、日テレのザ・ワイドに拉致事件のゲストで出たとき、「拉致なんて絶対にない。それを言うなら・・」と強制連行の話を延々としていたのをよーく覚えています。すっごいショックを受けたから。この人は、根拠もなく「絶対」と言い切る人なんですよ!(呆)
おんな組いのちという怪しい組織の為に、テレビ局の取材費を使って、被害者の会みたいなのの連携をしようとしているのかなぁ~、とこの時、何となく軽く思ってたら、
またまた今月は「アイヌ」を取り上げて、沖縄も含めて、日本に虐げられた仲間・・みたいにやってるから、あーやっぱりと。 つづく・・・その2 へ
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中山千夏「これ、去年お出しになった本ですね。写真で見る在日コリアンの100年。(来年がね丁度100年になる)
さっき、ちらっと見せていただいて、凄くビジュアルのとってもいい感じの本」
朴慶南「資料もね、今発掘したり集めたり残してってる。」
中山千夏「貴重な資料がいっぱい載ってますねぇ。」
朴慶南「力道山も写ってますね。」
中山千夏「あたしが子供の頃、、懐かしいですよ。」
姜徳相「玉の海も載ってます。」
.
辛淑玉「外国人初の力士、横綱っていわれると、いつも曙とかが出てくるけど、本当は玉の海。」
朴慶南「だから、力道山も朝鮮人であることを、、最近は慣れているけど、当時はタブーでしたもんね。日本人のヒーローになってたもんね。」
姜徳相「玉の海は自分では最後まで隠してましたけどね。
お兄さんがね、韓国で「ヤクザと横綱」って本を出したんです。それで自分の弟のこと書いて、だからこれはまぁいいだろうと言うことで出したわけです。」辛淑玉「あの私、日本各地に仕事に行くと、男女共同参画なんかに行ってもですね、高齢の男性がポツッと座っている時があるんですよ。全く会場にそぐわない人が会場に来ているんですね。100%在日の先輩。
それで、終わってから大体皆親戚だって言って来てくれるのね。まぁそんなもんですよ。
それでね、今でも記憶に残っているんですけど、名古屋の駅をねあれを、あれを建てたのは私達だって、言ったのね。で、つまり枕木一本朝鮮人って言われてて、いろんなとこのね、小さな村に行っても、女性の色んな講演会なんだけど、お爺さんが来てるっていうと、もう在日の先輩なんですよね。」
中山千夏「主題のね、関東大震災の時の話をお聞きしたいんですけど、私驚いちゃうのはね、驚いちゃうって言うよりこれは考え違いかなってお話聞いて思うのは、一番デマの恐ろしい例としてね、
民間にデマが飛んで、それが大事引き起こす一番良い例という風に何となく思ってきたわけですよ。それで限りなく軍隊が果たした役割とか政府の意図があったというようなことは、我々知らなかったんですね。そうなんですか!?
朴慶南「資料を姜先生が発掘されてその辺を明らかにされてるんですよね。」
姜徳相「これまだ、私の考えですけどね、みんながそれをそうだと言っているわけでは無いんですが、
流言蜚語ってのは、出方はね、日本人の朝鮮人に対する差別的な感情、これみんな持っていたんで、それがこうあの時の朝鮮人、爆弾投げるぞという形で出たんで、民間から出たんで、それを警察がキャッチしてやったんだと。(それが一般に・・・)
だけどね、実際はそうじゃない。まだあの頃ね、朝鮮人、東京付近関東一円に二万人くらいしかいませんでした。で、皆、労働現場です。ハンバにいる、そういう季節労働者が多いんです。
ですから、今のように隣に朝鮮人が住んでいる。隣の朝鮮人の生活が臭くてしょうがないとかね、そういうアレがあまりないんです。まだこの頃は。
ですから、一般の人が、色々聞いたり読んだりそういうことでは知っていますが、朝鮮人そのものをあまり認識していないんです。」中山千夏「あーー、反感を持つほどにも親しんでいないという、、」
姜徳相「ですから、それよりもっとね、朝鮮人は怖いぞという認識を持った官憲がいるわけです。それを商売にしている。
それは何かというと、やっぱり朝鮮の併合あるいは朝鮮の併合過程までに、日本という国家がかなり酷いことやっていますよ。朝鮮に。まぁ実際私は宣戦布告無き戦争と言っていますが、何人も殺しているんです。
だから朝鮮人が日本国家に反感を持っているっていうことは、彼らは十分よく知っているわけです。だから警戒をする。注意をしてる。日本に朝鮮人が来るとそれを視察する。管理するということを商売としてる人がおるわけです。恐らく私はそこから来ていると思うんです。
ですから、地震で権力がガタ落ちするでしょ。警察力は40%になりますよね。で、治安の維持が出来なくなるこうなった時に、まず彼らは何を考えたかって言うとあそこの朝鮮人気をつけろと必ずそう言うはずです。」
辛淑玉「丁度その前に3.1の独立運動がありましたからね。その意味で社会をコントロールする危機感を持ったということですね。」
姜徳相「ええ、3.1以後、ある面では朝鮮の独立運動と日本の軍隊とが直接こうやっているわけです。満州やシベリアでね。ですから、満州、シベリア帰りはみんなそういう経験しているわけです。朝鮮、怖いというね。
ですから、恐らくそういうものを複合したかたちで、戒厳令がまず出されるでしょ。戒厳令ってのは、軍隊が最高の権力を持った時です。ですから、剣付き鉄砲を持った兵隊が、街角に立っているときに、大っぴらに殺人事件があるわけでしょ。それがだめだって言うのが良民で殺すなって言うんだったら軍隊がやめろと、やれば自警団ハハァーとかしこまりますよ。それは。」
中山千夏「そうですよね。戒厳っていうんだから、みんなちゃんとしろって事ですから、人殺しがあったらやめろって言うのが普通ですよね。」
姜徳相「だから、逆なんですよね。軍隊が率先してやっていて自警団が民兵として協力するそういう形です実際は。」
永六輔「あのーお話うかがっているとよく分かるんですけど、最後に謝ってないって日本人が。謝ってない前に知ってないんですよね。
資料館があることは大事なんですが、知ってないって事についてひとつと、伊藤博文良いと思うの。僕らの世代でいうと。あの事件、、それはどういう風に思います!?」
辛淑玉「アンジュングンのですね。」
姜徳相「私はやはりアンジュングンがやったテロをした伊藤博文を殺した。こういうこというと不謹慎かもわかりませんけどね、自分の生存権をね、奪われた人間ってのはね、怖いですよ。だからもう何をしても良いというね。もう最後の行き場が無いですから。アンジュングンってのはそういう事だと思うんですね。
彼があん時に言ったのは、自分は朝鮮の義兵という、日本に抗議する軍隊です義兵中将という資格で伊藤をやったんだと言ってますね。ですから単なる武器を持って人を殺すというそういう人殺しではない。と思いますね。」
姜徳相「絵葉書を見つけたんです。五枚綴りのね。これ何かというとね、アンジュングンの、、今アンジュングン記念館、ソウルにありますよね。それがね植民地時代、総督府なんかが博文寺という寺を造っていたんです。(へぇーー)寺を造ってね伊藤博文をお奉りをしてた。ところが戦争が終わるとアンジュングンの記念館になった。建物良く似てますよ。同じですよ。
だからさっき言った民族の英雄。それから明治の元勲って言うね、博文とアンジュングン記念館とそこでも繋がってるんですね。最近それ見つけましたね、あっこういうものがあったと、ビックリしましたけど。」
辛淑玉「日本で伊藤博文さんのね、事紹介される時に、テロリスト、アンジュングンって紹介される。そして韓国では民族の英雄っていう形で評価されると。
で、どちらにしても非常に悲しいことですよね。であと、思ったんですけど、先ほどの関東大震災にしてもそうなんですが、韓国政府とか韓国の社会自身も、在日の戦前戦後の歴史って言うのは知らないですよね。」
辛淑玉「知らないっていうより知ろうとしないんですよね。」
朴慶南「関心が無いんですよね。もう全く。もう無いもののように思ってるんですよ。」
永六輔「資料館、ご案内くださいましたよね。
あの画面見てると日本語が多いんですけど、あの資料館は両方にもちろん行って欲しいんですけど、
日本人は相当マークしてるんです!?」
姜徳相「いえ、あれは三つ目的があります。
ひとつは在日の同胞たち三世四世になって、お爺さんお婆さんの時代を知らない人に来てもらって、匂いを嗅いで欲しいということ。
日本の方にはやはり、在日ってのは日本の社会で見えにくい社会でしょ。ですからここへ来ると隣に居た人はこういう食器も違ったし着る物も違ったそういう文化を持ってたんだという事をやっぱり見て欲しい。
そして日本の国際化ってのはどっから考えたら良いかっていうね、それをちょっと考えて欲しいという事。
もうひとつは韓国から年間日本に300万位、人が来ますよ。その人たちに寄ってもらって今韓国にもう無くなっているような物もこの在日の資料館にはあると。
そういうもので自分たちとルーツを同じとする人間が日本にこれだけおるんだという存在を知って欲しいという。これ三つあります。」
辛淑玉「では戦後の在日はどうだったのかまた資料館の中を旅してみたいと思います。」
・‥…━━━・‥…━━━・‥…━━━
ウーーン・・言いたことはいっぱいありますが、
まず、玉の海って人は、韓国系ハーフの日本人だったので、やっぱり曙が外国人初の横綱ということじゃないのかなぁ。 中央日報記事
姜徳相氏の意見は、確証があって言っている事ではないみたいですね。
それに、テロリストが韓国では英雄って、超変です!
あと、この辛淑玉氏は、「拉致は絶対にない。日本人はそれよりもっと酷いことをいっぱいした」と昔、日本テレビのワイドショーで主張していたのを観たので、信用できません。
次は、戦後の民族教育、戸籍問題等のレポートです。・・・つづく
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