朝鮮文化遺産
前記事の続きです。
儀軌の調査を始めてから2ヶ月。調査チームは新たな謎の解明に取り組んでいました。
宮内庁にあるおよそ4割が葬儀に関するものだったのです。(中略)
何故葬儀の儀軌が多いのか、調査ムチームは韓国併合の後に行われた2人の王の葬儀に注目しました。
併合から9年後の1919年、李太王コジョンが死去。日本政府はコジョンの葬儀を国葬とする事にしました。李王家を丁重に扱っていることを朝鮮の民衆にアピールする狙いでした。しかし、その思惑は裏目に出ます。京城(今のソウル)で行われた国葬。
日本の皇族と同様、神道式で行われました。朝鮮の民衆は、これに激しく反発しました。
葬儀の2日前、京城ではコジョンの死をきっかけに、民族の独立を訴える三・一運動が起きていました。日本式の国葬はこの運動を拡大させる一因になったのです。
朝鮮で李王家を担当していた宮内省の権藤四郎介は、当時の様子をこう記しています。
「朝鮮の如きはは古来礼儀の国である。国葬を行うにあたり多年慣行し、彼らの誇りとする典礼を棄てて、特に日本古例の形式を強行するに至っては、彼らが自己本来の面目を無視されたと思うのはやむを得ない。」
三・一運動はその後朝鮮全土に拡大。韓国併合以来最大の民族独立運動に発展しました。当時の朝鮮総督 長谷川好道は辞任。後任の斉藤實は民衆の心情に配慮した統治への転換を迫られました。こうした中で儀軌が新たな役割を果たすことになります。
(国立公文書館にて 葬儀報告書)
コジョンの息子、スンジョンの葬儀に関する記録です。
民衆の反感を買ったコジョンの国葬から7年。スンジョンが死去。日本政府は人心に及ぼす影響を考慮し、その葬儀を朝鮮式で行っていました。この記録からは儀軌を参考にしたと思われる部分が多数見つかりました。(比較)
民衆の信条に配慮した朝鮮式の国葬。しかしそれは完全なものではありませんでした。
(日朝の葬儀委員たちの、銘旆(メイセイ 亡き王の名前を記す旗)に書く言葉で激しく対立している様 の説明など)
結局、対立の元になる銘旆そのものをなくすことで収拾をはかったのです。
こうして行われたスンジョンの国葬には、朝鮮の民衆が多数集まりました。以前のような大規模な独立運動は起きませんでした。
儀軌を研究して行った、一見朝鮮式の葬儀。それは日本の立場を貫きながら朝鮮の民衆への配慮を示すという周到なものでした。(中略)
李王家を日本の皇室と結びつけ、植民地統治を円滑に進めるために利用された朝鮮王朝儀軌。
しかし1945年、日本の敗戦で李王家はその役割を失いました。今、儀軌は皇居の中でひっそりと眠ることになったのです。
朝鮮から日本に渡った文化財。朝鮮遺産は儀軌の他にも数多くあります。
(京都・嵐山の湯豆腐屋の店先の文人石12体)(山口県・岩国 錦帯橋付近の公園の六角亭)(東京国立博物館 数多くの貴重な朝鮮遺産
透彫冠帽 ・太環式耳飾)これらは植民地時代、朝鮮で財を成した日本人が集めて後に博物館に寄贈した物なんです。
韓国の国立文化研究所によると、朝鮮由来の文化財は日本に6万点以上。どうやって日本に渡ったのか、今、韓国では調査を進めているんだそうです。戦後、皇居の一角に人知れず保管されていた朝鮮王朝儀軌。去年8月、長い眠りからさめることになりました。日本政府が儀軌など朝鮮半島由来の図書を韓国に引き渡す考えを明らかにしたのです。
政府の突然の表明。その背景には何があったのか。韓国併合百年を迎える中、韓国では伝統文化の象徴として儀軌の返還を求める声が高まっていました。
(韓国の)国会では儀軌の返還を求める決議案が全会一致で可決されました。こうした動きを後押ししたのは文化財をめぐる世界的な流れでした。
(エジプト・カイロでの文化財保護・返還のための国際会議 の様子)
この中で韓国の代表が挙げたのが朝鮮王朝儀軌でした。
(ホテルオークラの中庭にある五重石塔に対し、イチョン市長が11万人署名を持って交渉した様子)
二時間に亘る交渉。ホテル側は、返還は難しいと繰り返しました。その理由として挙げたのが日韓両政府が結んだある条約でした。
1965年の日韓条約。日本と韓国は植民地支配に対する補償問題などを話し合い、国交を正常化しました。この時、両国は被害補償いわゆる請求権に関する問題が、完全かつ最終的に解決されたと確認しました。
文化財についても解決済みとされたのです。この条約によって儀軌は日本に留まってきました。しかし、世界の動き、そして併合から百年という節目が儀軌をとりまく状況に変化をもたらしました。その象徴となったのが李王家の末裔たちです。
(コジョンのひ孫にあたる李源(イ・ウォン)さんのインタビューなど)
去年行われた日韓外相会談。儀軌の名が外交交渉の場に登場します。(中略)
クォン氏「日本政府は文化財の返還は1965年の韓日条約に反すると考えるだろう。容易ではないと思っていました。(ですから)我々は外交ルートを通じて慎重の上にも慎重にすべきと考え、水面下で話を進めていました。」
当時の岡田外務大臣は韓国側の慎重な姿勢が印象的だったと言います。
岡田氏「まぁあの、私も実物を宮内庁に行って少し拝見させていただきましたが、まぁ価値はよく分かりませんが非常に美しいものです。
まぁそれが占領っていうか、まぁ植民地化という中で朝鮮総督府を通じて今、日本の手にあると。まぁしかし本来それは韓国あるいは朝鮮民族の下にあるべきだと、、」
韓国側の意向を知った日本政府。儀軌を韓国に渡すことが過去の百年を乗り越える象徴になりうると考えました。課題は日韓条約との整合性でした。
検討の末、政府はあくまで「特別の措置」として儀軌を含む1205冊の図書を返還ではなく、引き渡すとする協定を結ぶことにしました。
岡田氏「政府の中には特に外務省の中にはね、慎重論はありましたが、ずーっと日本が持っているよりも、韓国の皆さんが持って学術的にも研究を深められる。そして何よりもこれはまぁ国あるいは民族の誇りということでもありますので、まぁお返しするというか、お渡しするですね(苦笑)お渡しするのであればですね、一定の基準で、もう思い切って渡したほうがいいと、まぁそういう風に判断をしました。」
この協定の成立には国会の承認が必要でした。しかし、異論も相次ぎました。
(岸議員「更なる文化財の引渡しに繋がるのではないか」佐藤議員「竹島の施設がどんどん強化されているのに、本当に未来志向で引き渡せる環境か」という声に対し、政府は「日韓関係の重要性に鑑みた特別の措置だ」と理解を求めた)
賛成145 反対86 調印から半年を経て協定は承認されました。
今年中に儀軌が引き渡されることが正式に決まったのです。
クォン氏「儀軌の返還で韓日の国民の文化交流が更に活発になるでしょう。私達の物が戻るのは当然と思う一方、返してくれることをありがたく思うでしょう。韓日関係に与える影響は大きいと思います。」
この百年、色んなことがあったけど、私達の儀軌がようやく戻ってくるんですね!
ところで皆さん、日本だけじゃなく、もうひとつ他の国にも儀軌が持ち出されたこと憶えていますか?
19世紀に儀軌を持ち去ったフランスも日本に続き韓国に儀軌を長期貸与という形で戻すと約束しました。そしてこの春、296冊の儀軌が145年ぶりに帰ってきたんです。先月からソウルで始まった特別展示会には儀軌を一目見ようと大勢の人が訪れています。
(中略)私も見に行きたいな!
日本の韓国併合で、歴史の幕を閉じた朝鮮王朝。李王家の末裔たちは今、植民地時代に途絶えた伝統の儀式を少しずつ復活されています。
第30代当主のイ・ウォンさん。王朝の記録を伝える儀軌が戻ってくればそれを基にして儀式を当時のままに蘇らせたいと思っています。
隣国であるが故に、葛藤の年月を歩んできた日本と韓国。儀軌が本来の役割を取り戻そうとする今、イ・ウォンさんは両国の今後に希望を感じています。
イ氏「韓日は次の100年では共に未来を築いていける。文化の持つ本来の意味が政治を超えて正しく伝えられていけば、その可能性は高いと思います。」
日韓の狭間で数奇な運命を辿った朝鮮王朝儀軌。今百年の時を越えて祖国に戻ろうとしています。日本と韓国は、これからどんな未来を築いていくのか。朝鮮遺産は静かに問いかけています。
以上
当時、日本がこれだけ朝鮮王室に配慮していたとは知りませんでした。
これでも、「植民地」化と言うのでしょうかねぇ・・ ┐( ̄ヘ ̄)┌
韓国の新聞の社説を読んでも、日本にある朝鮮王朝儀軌は「強奪された!、収奪された文化」という括りですが、それは全く違いますね。
日本皇室と朝鮮王室が親戚になったのだから、アチラ側を尊重した儀式する為に、儀軌が必要だったわけです。しかも、写本が何冊かあることをちゃんと確認して、寄贈を受けた経緯もあるしね。
宮内省は特定の儀軌を取り寄せただけだから、文化を奪ったなんていうのはウソ!
王朝の記録を伝える儀軌が戻ってくればそれを基にして儀式を当時のままに蘇らせたいと思っています。」
・・・それは勝手にすればよろしいけど、何冊か同じ内容の儀軌を作ったはずなのに、それはどこに行ったのかな??そっちの方が気になりましたわ~
本来は、条約破りをするようなことをこんな形でやるべきではない!
いくら日本が「友好的、未来志向で特別な措置」だと言っても、感謝もなければ、竹島への不法占拠の強化を急激に推し進めている・・
どーせ、日本が奪った文化財を取り戻したって、また狂喜乱舞するんでしょうよ(苦笑)
ならば何故、強制連行されたハズの在日朝鮮人を取り戻さないのでしょうね~?!外交的戦略なしの民主党に政権を渡した結果がこれです(呆)
あと、今後も「文化だからアレ返せコレ返せ」と返還要求してくるでしょうけど、一切応じないことですね。欲しければ買い戻すしかないって事!
蛇足ですが、・・・
この李源 - Wikipediaさんは、一応当主という紹介でしたが、アパート住いで叔母と当主の座を争っているそうです。大騒ぎしている割に、朝鮮王朝の末裔って不遇なのね・・
関連記事 追加
«2006年に韓国で初公開された「靖国神社に参拝する朝鮮皇族」の写真»2017年01月06日
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NHK【朝鮮文化遺産 百年の流転 〜日韓・和解への模索〜 】(8/19)で、
朝鮮王朝儀軌のことを詳しく取り上げていたので記録しました(青字はイ・サンの主人公のナレーション)当時、日本が朝鮮王室を尊重していたのがよく分かります。これが世にも恐ろしい植民地政策なのでしょうか??^^;
朝鮮遺産 百年の流転 〜日韓・和解への模索〜
韓国併合時に日本に持ち出された朝鮮王朝の記録「朝鮮王朝儀軌」が、およそ100年ぶりに韓国に引き渡されることが決まった。李王朝の儀式を美しい図柄で記録したこの記録は、海外ドラマ「イ・サン」にも登場し、民族の誇りともいわれてきた。なぜこの貴重な記録が日本に流出し、戦後は皇居で保管されてきたのか。今回NHKは、研究者と共同で初めて、その謎に迫った。儀軌の流転に秘められた、日韓の知られざる歴史を追う。
東京の上空を飛んでいます。手前に見えているのは皇居です。
ちょっとモダンな感じの建物は宮内庁書陵部、いわば皇室の図書館ですね。ここに意外なものが保管されているんです。 皇室にまつわる書籍およそ45万点が所蔵された書庫。その奥深くに韓国から持ち出された貴重な書籍が持ち出されていました。
朝鮮王朝儀軌。儀軌の儀は儀式そして軌は軌(規)範という意味です。王様の結婚式、お葬式それに様々な宴。500年続いた朝鮮王朝のイベントを文字だけでなく色鮮やかな絵で記録したものなんです。(韓国ドラマ【イ・サン】のVTR 朝鮮王朝儀軌が何度も登場しているという説明
このヒロインのソンヨンの声優がナレーションとのこと。)
その儀軌が韓国に戻ってくることになりました!韓国併合から100年の節目に日本政府が儀軌を引き渡すと発表したんです。でも、朝鮮王朝の儀軌がどうして日本にあったの? 誰が何の為に使ったのかしら?(この間も【イ・サン】のVTR )
その謎の解明に3人の研究者が初めて挑みました。たくさんの資料を調べていくと、儀軌が日本に渡った経緯が少しずつ判ってきました。
日本の植民地政策で幕を閉じた朝鮮王朝の李王家。儀軌はそこに深ーく関わっていたんです。(中略)
朝鮮半島から日本へ渡り、そして今再び祖国へと戻ることになった朝鮮の貴重な遺産。その数奇な運命をたどり、歴史の旅にご案内しましょう。
朝鮮遺産 百年の流転
(オデサンの険しい山道の奥に、昔、儀軌を保管していた寺の境内の五台山オデサン史庫の様子
王の葬儀の儀軌の説明
朝鮮王朝儀軌は2007年ユネスコの記憶遺産になったという説明)
朝鮮王朝はオデサンなど王宮から遠く離れた山、4箇所に史庫を造り、儀軌を保管してきました。 同じ儀軌を何冊か作っておけば、どこかが火事や盗難に遭っても、記録そのものは残す事はできると考えたんですね。現存する儀軌はおよそ4000冊。
この内、19世紀半ばに江華島(カンファ)を攻撃したフランス軍が300冊ほどを。そして1910年に、韓国を併合した後日本が160冊余りを持ち出していったんです。
(語り 交代)儀軌は何故日本に持ち出され皇居で保管されてきたのか。その経緯は専門家の間でもほとんど知られていませんでした。儀軌は宮内庁書陵部の中でも特に重要なものを保管する貴重書庫に収められていました。
81種類167冊。表紙に貼られたラベルには朝鮮総督府の文字。
大正11年、1922年に朝鮮総督府が寄贈したことを示す印が押されています。
日本が朝鮮に置いた統治機関、朝鮮総督府。併合により朝鮮の全ての国有財産を管轄下に置きました。そして、儀軌の一部を当時の宮内省に寄贈していました。(中略)
朝鮮総督府は何故167冊の儀軌を宮内省に寄贈したのか。
その経緯を解明するため去年、九州大学と佐賀大学で調査チームが結成されました。
(中略)
最初の手がかりは意外な形で見つかりました。佐賀県立名護屋城博物館。豊臣秀吉が朝鮮出兵の拠点とした城跡にあります。
(朝鮮総督府と宮内省が交わした公文書)
「大正9年(1920)年10月8日の起案となっていますので、儀軌の移管が大正11(1922)年なので、その2年ほど前から、こういうプロジェクトが動いていたことになろうかと思うんですね」
儀軌移管のプロジェクト。それはこの一節から始まっていました。
儀軌類無償譲与方依頼
宮内省が朝鮮総督府に対し、儀軌を譲り渡すよう求めていました。儀軌の持ち出しは宮内省の意向によるものだったのです。宮内省は求める儀軌の時代も具体的に指定していました。
李太王及び李王時代。
李太王とは朝鮮王朝第26代国王の高宗(コジョン)。李王はその息子で第27代の純宗(スンジョン)を指します。韓国併合前の2代の君主です。(中略)
宮内省の目的は一体なんだったのか。500年以上に亘り、朝鮮を統治した李王家。韓国を併合した日本政府にとって李王家をどう扱うのかが大きな課題でした。
1910年、韓国併合と同時に発せられた明治天皇の詔書です。
李王家の人々について「皇族の禮を以って・・」すなわち日本の皇族と同等に処遇するとしました。その一方で王族、皇族という新しい身分を李王家のために作り明確に区別しました。(中略)
日本政府は李王家と日本の結びつきを強めていきます。併合に先立ち初代韓国統監・伊藤博文はコジョンの息子李垠(イ・ウン)を日本に留学させました。
10歳の皇太子に徹底した日本式の教育を受けさせることが目的でした。
そして、併合後の1916年、イ・ウンの婚約が報じられます。相手は日本の皇族・梨本宮方子妃。日本と朝鮮が一体となる日鮮融和の象徴ともてはやされました。日本と朝鮮を結ぶ皇室初の政略結婚でした。
この結婚を進めるにあたり、宮内省は李王家代々の家計図をはじめ、王朝に関する様々な記録を入手していきます。
調査チームは、この過程で朝鮮王朝儀軌が注目されていったのではないか と考えました。(中略)
その後、日本政府は李王家の子弟を次々と留学させ、日本人との結婚を進めていきます。
イ・ウンの妹徳恵(トッケ)は旧対馬藩主宗家の伯爵と結婚。リ・ウンのいとこ李鍵(イ・ゴン)は旧高松藩主松平家の令嬢と結婚します。李王家を日本の皇族や華族と結び付けようとする日本政府。
朝鮮王朝の伝統や風習を理解しその記録を作るために儀軌を必要としたのではないか。こうして併合から12年後に儀軌は日本に渡ったのです。
ドラマ イ・サンのなかで私が描いた儀軌がとっても大事な役割を果たす場面があります。
(ドラマ イ・サンで謀反の疑いをかけられた家来イ・サンがその潔白を儀軌で証明する場面 略) 儀軌はこれくらい詳しく正確に描かれているんです。
では、日本では一体どんな風に使われたのかしら。(後半へつづく・・)
NHKのドキュメンタリーものって、韓国に関しては何故か韓国ドラマを必ずといっていいほど引用してるんですが、公共放送のクセに番宣かしら~??
竹島問題研究の第一人者・下條教授は国会でこんな風に解説していました
この下條教授の話は後半の、「ホテル オークラの敷地にあるイチョンの五層石塔」の件に繋がります。
あと、菅談話と朝鮮王朝儀軌の件の経緯です
後半は少しお待ちください。
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