前記事 の続きです。京城帝国大学(ソウル大学の前身)の医学生たちの証言を記録しました(青字はナレーション)
戦後、朝鮮に残され、強姦された女性たちを、罪を覚悟で堕胎させたという証言(二日市保養所のこと)は衝撃的です。
証言記録 市民たちの戦争
「“引き揚げ”の嵐の中で ~京城帝国大学 医学生の戦争~」太平洋戦争が終わり大陸に取り残された日本人はおよそ660万人。彼らは暴力と栄養失調、伝染病にさらされながら祖国を目指した。そんな混乱のなか、引き揚げ者たちのため医療活動を行った医学生たちがいる。日本が“外地”に始めて設立した帝国大学である京城帝国大学の医学生たちだ。彼らは、ソウル、プサン、博多港と各地で医療の最前線に立った。医学生たちが体験した引き揚げの現実と惨状を伝える。(HPより)
国立 ソウル大学校 韓国全土からトップクラスの生徒が集まる最難関の大学です。ソウル市内に建つ、ソウル大学校の医学記念館です。赤レンガの建物は今から百年程前に日本が建設し、京城帝国大学の医学部として使われていたものです。
京城帝国大学は、大正15年、植民地初の帝国大学として設立されました。
日本が大陸への進出を推し進めていた時代、海外への夢を抱く多くの日本の若者たちも海を渡り、この大学を目指しました。.
相馬廣明氏「モンゴルってのが自分の夢だった。モンゴルの医者になるっていうのが、蒙古の。だからそこへ行くのに、一番良くモンゴルのことを研究している大学はどこかって自分で調べたんですよ。今みたいなインターネットなんかあるわけじゃないんだけど、そうしたら京城帝国大学ってのが出てきたわけだ。京城ってのはね、大陸続きだから、うん。内地から船に乗るんじゃないだから、汽車に乗ればさぁ、シベリア鉄道行きゃ、ヨーロッパ行くんだもん。」
当時、京城帝国大学は、朝鮮半島から旧満州、中国へといたる東アジア地域の教育研究の一大拠点を目指していました。医学部では、朝鮮半島や大陸の風土病について最先端の教育が行われ、その附属病院は最新の医療設備が整えられていました。
平野春雄氏「大きかったですねぇー。大きな山一つ全部(大学病院)、だから大学病院の中に、あのー、昔の王宮みたいな庭園ね、ガーデン、それがあるし、あれは面積にしたら相当大きかったですねぇ。」「飛行機でも往診するのね。あの当時ね。だから相当権威を持ってたんじゃないかな。」
京城帝国大学の歴史は、日中戦争から太平洋戦争へと拡大していく、日本の戦争と共にありました。戦争を遂行する為の兵站基地として位置づけられた朝鮮半島では、朝鮮人を日本人と同化する政策が推し進められます。内鮮一体をスローガンに日本風の名前を名乗らせる創氏改名や日本語の使用を強く奨励する政策などが取られました。
昭和15年に改正された京城帝国大学についての大学規定です。"忠良有為ノ皇国臣民ヲ錬成スル" 戦争が拡大していく中、京城帝大も国策への協力という使命を色濃くしていきました。内鮮一体という国策の下で、京城帝国大学では朝鮮半島出身の学生が3割を占めていました。
日本と朝鮮の若者が共に学んでいたキャンパスでは、外とは全く異なる空気が流れていたと言います。
大村裕氏「それはもう日本人も朝鮮人も全然区別はないよ。あのー、教授から見ればね、先生から見れば。成績の悪いやつは朝鮮人であろうが日本人であろうが落ちとった(落第)からね。だいたい、日本人の方が落ち取ったよ、たくさん。(笑)優秀だから、エリートが入って入ってきとるから(笑)」
キム・セギョン氏「当時、専門学校生は戦闘帽をかぶり、ゲートルを巻いていた。しかし、私達の大学では(そのような格好を)しなかった。戦闘服を着ず、戦闘帽もかぶらず、ゲートルも巻かずに通学していたので、少し自由がありました。」(韓国語)
医学部を卒業し、戦後アメリカに移住したイ・クワンホウさんです。イさんは卒業後に日本軍の軍医になる事を条件に大学の授業料が免除されていました。
イ・クワンホウ氏「日本政府が授業料などを払ってくれたので、私は家のお金を全く使わずに医学部を卒業しました。日本人学生に対して特に良いとも悪いとも感じませんでした。日本人学生は主にソウル出身でしたが、日本本土から来た学生もいました。彼らに問題を感じる事は無く級友として接しました。
朝鮮人の学生同士のように親しくは付き合いませんでしたが、私の場合、他の人よりも多分、日本人に対して友好的でした。周囲がそれをどう感じたかはわかりません。」(英語)太平洋戦争開戦以来、優勢に戦いを進めていた日本軍は、昭和17年のミッドウェー海戦で大敗北を喫します。以後、戦局は悪化の一途を辿っていきました。兵員不足を補う為、昭和18年に始まった学徒出陣。
京城帝国大学でも、内地同様に文科系学生の徴兵が始まります。徴兵されなかった医学部の学生は、寮などで寝食を共にしてきた学友達の出征を見送りました。.
大村氏「文化系はその全部戦争に行ったわけさ。だから同級生、文化科系は全部行ったのね。戦死した人もおるし、医学部も4年も3年になって、10月には軍医に行かんといかんと思いようたけどね、、」
日本の敗戦が濃厚となった昭和20年。大学に残った医学生の元には特攻隊員となった学友の戦死の知らせが相次いで届けられました。横溝公明氏「とにかく、ショックでしたねぇ・・『わしは特急列車に乗って先に行くから、お前は鈍行で来い』とかゆうて、、最後に(手紙を)残して、、原爆の前だったでしょうかなぁ、、彼が(特攻隊で)突っ込んだのは。まぁそういう事で、、なんか、、もう・・・(嗚咽)・・・すみません。」
昭和20年8月15日、医学生たちは敗戦国民へと転落します。
相場氏「ソウルの町が、京城っていうか、まっソウルになっているけど・・すーーっごい騒ぎなのね。もう電車の上まで人乗ってんだよ『マンセーマンセー』で大騒ぎ。独立マンセーで。バンザイっていう事、、電車なんか乗れないから歩いて、、それで大学の裏の方の下宿に辿り着いてみたら、もうガーーラーンとして、なーんにもない。私の部屋に何もねえんだもん(笑)」.
岩永知勝氏「あの当時は夏休みですもんね、終戦が。僕は蒙古(モンゴル)におったの。で、京城帝国大学のね、満蒙調査隊っていうのがあって、(一員として)終戦帰りの報はね、帰りの汽車の中で聞いた。韓国領に入ってから聞いた。そしたらもう空気がいっぺんに変わったよ、汽車の中が。
ほとんど韓国人か満州人かね(車内に)日本人は少ないから、恐ろしかったんじゃないかな。敵国人に囲まれたような感じ」
朝鮮半島は大混乱に陥りました。日ソ中立条約を破棄したソ連軍が終戦直前から、満州や朝鮮北部に侵攻。命からがら逃れてきた日本人が、京城帝国大学の周辺にもなだれ込んで来ました。.
横溝氏「ビックリしたんですよ。乞食、、乞食の群れみたいな、、とにかく日本人の乞食を朝鮮で見たことないから。哀れな、、凝然としましたね、こういう事があるだろうかと思って。」.
大村氏「もうもみんな歩いて帰ってくるからね、それで女は全部丸坊主にして帰ってくるでしょ。
赤ん坊を抱いてくる、ね、もう赤ん坊ほとんど捨ててくるわけだけど、抱いてくる赤ん坊はもう猿と同じ。こう(頬が)そげてしまってね、ここがね。(子供達というのは?)助からなかったね、ほとんどが。もう栄養失調でね、うん。」
行く先々で目にする栄養失調や感染症などで苦しむ避難民の姿。医学生達は助けを求める避難民の手当てが出来るのは、自分達しかいないと考えます。.
横溝氏「50(歳)以下位の人で、元気の良い人はもうほとんど招集されてた。
それだから結局、医療の心得があってそして健康で、まっ少しは力仕事でもこなすという人っていったら、もう学生しかいないじゃないですか。学徒出陣で友達を失った、たくさんね、それがやっぱり一番のトラウマでしょうね。まぁ、ここでひと頑張りしなきゃ申し訳ないちゅうような感覚があるわけですよね。」
学生達は医療チームを組織し、傷ついた人々の手当てを行う活動を始めます。しかし、医学を学び始めてわずか数年の若者達には、荷の重い仕事でした。
大村氏「ソウルの駅の所で引き上げる連中、並んどるでしょ、汽車に乗るのに。したら、ひとり『お産だ』って僕を呼びに来たからねぇ、お産の経験ないのにどうしようかと思ったけどね、まっ行ってみたらもう出とったからさぁ。ヘソの緒切るのぐらいは知っとるからさぁ(笑) 切ってヨーチン塗ってっちゅう事は知っとったから、済んだ。もしあの、お産に立ち会うなんて事だったらもうできなかったけど、、」.
相場氏「引き上げ船の中で赤ちゃんが呼吸困難になったわけよ。それで肺炎を起こした。
輸血したのよ、当時、おなかに輸血したの。そういう方法をね、習ってたの。なにしろ出来る事それ位だったから、何とかしてと思ってね。博多港に上がるまで助けようって。」.日本への引き上げが本格化すると、学生達は列車や船に乗りこんで避難民の治療を行うようになります。その中に、医学生がとりわけ心を痛めた女性たちがいました。終戦前後の混乱の中で外国兵などに暴行された女性たちです。
(・・・・・は、暴行による妊娠による妊娠三ヶ月・・・).相場氏「妊娠している人もいるしねぇ、おなかの大きい人も、そういう人たちがね、
強姦されて、妊娠してるなんてねぇ、哀れな、、
もう祖国の土を踏めないなんて考えで、身投げする人もいたんだよ。」.
.
.
(長くなったので、次記事に続く・・・)
後編は、医学生達がその暴行強姦された女性たちの堕胎を重罪覚悟で行ったという証言です。
この「NHK戦争証言プロジェクト」は良い企画だと思いました。
このHP動画のインタビュー受けてる男性の「命を賭けるほどの国じゃない。日本は」「・・・こんな国滅びればいい」という発言が情けなかった・・・平和ボケもここまで来たかと・・
戦争は絶対にイヤだし、もちろん国の為に命を捧げろとは言わないけど、インタビューでこういう事をよく答えれるなぁと唖然としました。
ぬるま湯に浸かってると、感謝の気持ちもなくなるのかなぁ・・!とにかく先人の話を、しかと聞くべき!!
にほんブログ村 ←ちょっと共感!の方はポチッとよろしく