姜徳相
官房長官の立場での発言だし、日本政府の意向いやマトモな日本人の総意なんですけどね(呆)
日本人にはなかなか理解できないので、この際、「韓国人が何故安重根を英雄視するのか」「安重根記念館」「安重根の遺骨」「在日の安重根像」を過去記事から振り返ります。
安重根切手、USBメモリー、潜水艦、テコンドー技、おまけに暗殺100周年記念エレキギターって・・マジ信じられません
これが菅官房長官の歴史観?過去の発言に韓国ネット仰天「日韓関係は終わりだ…」Record China配信日時:2020年9月3日
伊藤博文を暗殺した時点で、安重根は間違いなくテロリスト!2020年9月2日、安倍晋三首相の辞任を受けた自民党総裁選挙を前に、韓国では最有力候補となっている菅義偉官房長官の歴史観に注目が集まっている。
韓国で安倍首相は「歴史修正主義」「反韓」「極右」とみなされていることから、辞任表明を歓迎するムードがある。与党「共に民主党」のイ・ゲホ議員は安倍首相の辞任発表後、SNSに「本当に万感の思いだ。これまで韓国の国民と政府を苦しめてきたから」と書き込んだ。そのため次期首相にも関心が寄せられているが、メディアで菅官房長官の過去のある発言が大きく取り上げられ、波紋を広げている。韓国・アジア経済は2日、菅官房長官について「2012年12月に第2次安倍内閣が発足したときから官房長官としてほぼ毎日、記者会見を行ってきたが、会見中の発言には韓国に対して角を立てる内容も少なくなかった」とした上で「特に注目すべき発言は伊藤博文を狙撃した安重根義士に関するもので、韓国との歴史認識の違いが顕著に示された」と伝えた。菅官房長官は2013年11月19日、安重根記念碑の設置に向けた中韓の動きについて質問を受けた際に「日本は韓国政府に対し、安重根は犯罪者だという立場を伝えてきた」と述べ、「記念碑は日韓関係にプラスにならない」との立場を示していた。また2014年1月に中国に安重根記念館がオープンした際も「安重根は日本の初代首相を殺害し、死刑判決を受けたテロリスト」と述べていた。これに対し韓国のネットユーザーからは「ひど過ぎる発言だ」「戦犯国が被害国に向かって犯罪者だと!?」と驚く声や、「日本にはまともな考えを持つ人がいないのか」「こんな人が次の首相に?もう日韓関係は終わりだ」と落胆する声が続出している。(以下略)
でも「韓国では英雄!」という違和感は、10年前のNHKアンケートでも
(韓国人が思い浮かべる日本人:伊藤博文。日本の初代総理大臣。韓国が日本の保護国になった時の初代韓国統監)
«『日本の、これから』ともに語ろう日韓の未来 崔洋一の思い上がり 【NHK】»2010年08月15日では「安重根」とはどんな人物なのか、「安重根記念館」はどんなものなのかを過去記事から紹介
«韓国「安重根狂詩曲(アンジュングンラプソディー)」記念館・切手・USBメモリー、潜水艦、テコンドー技、暗殺100周年記念エレキギター・・・ 【朝ズバッ!】»2013年11月20日そして、こんなアホな小説がベストセラーになる国。パラレルワールドで生きてる民族だねTBS【朝ズバッ!】の けさ単!のテーマは『安重根(アンジュングン・あんじゅうこん)』(朝鮮の独立運動家。韓国では英雄視されている人物)
『日本では犯罪者 韓国人が安重根にこだわるワケ』 『サッカー日韓戦でも登場 韓国サポーターのマナー違反とは?』を説明していたので記録しました(ただし、要約)
改めてテロリストが英雄ってスゴイ国ですねー(棒)
安重根記念館に、切手に、USBメモリーに、潜水艦に、テコンドー技、おまけに暗殺100周年記念エレキギターですって!
おととい、朴槿恵大統領は中国での安重根の石碑建設について「中韓の協力のもとうまく進行している」謝意を示した。
「安重根」は1909年、伊藤博文を暗殺した人物で日本では犯罪者・テロリスト。しかし韓国では抗日運動の英雄。
菅義偉官房長官は、「安重根はこれまでも犯罪者であると伝えてきた。このような動きは日韓関係のためにならない」というコメント(中略)
この菅官房長官発言に、韓国は「遺憾」反省せよ!と言い、中国は「石碑設置を推進」
与良氏「中国は韓国が寄って来るのはウエルカム」
野村修也氏「でもこの官房長官の発言は、日本が従来から言っている事をただ言っただけの事」
浅羽准教授は「政府要人の暗殺を讃える事は中国にもマイナス。国内の反体制派勢力を刺激しかねない。石碑推進はリップサービスでは?」(山口県立大学)
日本人にはわかりにくい、韓国「安重根狂詩曲(アンジュングン ラプソディー)」
●第1楽章 どんな人物なのか?
暗殺は、1909年10月26日、ロシアの蔵相と朝鮮問題や今後の満州問題などを話し合う為、清国ハルビン駅に降り立った伊藤博文元総理。
安重根はここに近づき、「韓国万歳」とロシア語で叫び銃を発砲、3発命中した伊藤博文は30分後に死亡。
・韓国にとって不利益な条約 ・韓国皇帝の事実上廃位
・韓国軍解散 ・政権の事実上奪取などが不満
その後、安重根は翌年死刑判決、翌月死刑執行
この死刑執行の5ヵ月後に日韓併合。
実は伊藤博文は併合に消極的 →暗殺が併合が早まったんじゃないかという説も。
●第2楽章 現在の韓国では?
今年7月、サッカー日韓戦で、豊臣秀吉と戦った李舜臣将軍とともに「安重根」の巨大肖像画と、さらに『歴史を忘れた民族に未来はない』という巨大横断幕もスタジアムに掲げられ、この応援方法が問題に。
浅羽准教授「日本での赤穂浪士のような存在だが、国際社会ではマナー違反」
野村氏「特にスポーツの場所にそういう物を持ち込むのはやはり望ましくない」
さらにソウル市内では・・・年間13万人訪れる「安重根義士記念館」が人気スポット。
内容は生い立ちから死ぬまで細かくパネル展示。当時の写真・映像、遺書のレプリカなども。この記念館は朴正煕大統領が開館を指示。
日本では考えられない血書(血の文書)作りが人気コーナー。
田中氏「安重根については教科書で習ったが、このような子供達が気軽に参加できるような展示の場所で、感情に訴えるような展示は望ましくないのでは?」
辺真一氏「安重根は小学生でも習い、記念館は遠足コースにもなっている人気スポット」(コリア・レポート)
●第3楽章 ほかにもこんな安重根が・・・
安重根 200ウォン切手や、
安重根没後100周年記念USBメモリーなど日常用品。(姉妹品 独島(竹島)USBメモリー)
さらに、韓国海軍の潜水艦やテコンドーの型にも。国防でも国技でも「安重根」が使われている。
さらにさらに韓流ミュージックでも。
暗殺100周年記念エレキギターを活動家兼ミュージシャンのキム・ジャンフン氏が愛用。この活動家は芸能人竹島水泳のリレーに参加した人物。
辺真一氏「国際世論を味方につけて、日本政府へのプレッシャーが狙い」
浅羽准教授「国際世論を味方につけて、在外韓国人の地位向上が狙い」(中略)
世界中がテロリストとの戦いを表明しているというのに・・・
まっ、テロリスト像を建てるのは勝手だけど、テロリスト絶賛の中韓は、異常で幼稚で野蛮な国家だとますます国際的に認知されますねっ。
ただ、日本は徹底的に抗議する姿勢を見せないと、韓国の歪んだ歴史認識を受け入れたと間違ったメッセージを送ることになるかと。
で、今日は4年半ほど前、在日と反日日本人達がこのテロリストと朝鮮人の認識について大いに語っている番組を紹介します
《<韓国特集> 「在日コリアンの100年」 その3 【痛快!おんな組】》より抜粋
・・中山千夏「主題のね、関東大震災の時の話をお聞きしたいんですけど、私驚いちゃうのはね、・・(中略)
永六輔「あのーお話うかがっているとよく分かるんですけど、最後に謝ってないって日本人が。謝ってない前に知ってないんですよね。
資料館があることは大事なんですが、知ってないって事についてひとつと、伊藤博文良いと思うの。僕らの世代でいうと。あの事件、、それはどういう風に思います!?」
辛淑玉「アンジュングンのですね。」
姜徳相「私はやはりアンジュングンがやったテロをした伊藤博文を殺した。こういうこというと不謹慎かもわかりませんけどね、自分の生存権をね、奪われた人間ってのはね、怖いですよ。だからもう何をしても良いというね。もう最後の行き場が無いですから。アンジュングンってのはそういう事だと思うんですね。
彼があん時に言ったのは、自分は朝鮮の義兵という、日本に抗議する軍隊です義兵中将という資格で伊藤をやったんだと言ってますね。ですから単なる武器を持って人を殺すというそういう人殺しではない。と思いますね。」
姜徳相「絵葉書を見つけたんです。五枚綴りのね。これ何かというとね、アンジュングンの、、今アンジュングン記念館、ソウルにありますよね。それがね植民地時代、総督府なんかが博文寺という寺を造っていたんです。(へぇーー)寺を造ってね伊藤博文をお奉りをしてた。ところが戦争が終わるとアンジュングンの記念館になった。建物良く似てますよ。同じですよ。
だからさっき言った民族の英雄。それから明治の元勲って言うね、博文とアンジュングン記念館とそこでも繋がってるんですね。最近それ見つけましたね、あっこういうものがあったと、ビックリしましたけど。」
辛淑玉「日本で伊藤博文さんのね、事紹介される時に、テロリスト、アンジュングンって紹介される。そして韓国では民族の英雄っていう形で評価されると。
で、どちらにしても非常に悲しいことですよね。であと、思ったんですけど、先ほどの関東大震災にしてもそうなんですが、韓国政府とか韓国の社会自身も、在日の戦前戦後の歴史って言うのは知らないですよね。」
辛淑玉「知らないっていうより知ろうとしないんですよね。」
朴慶南「関心が無いんですよね。もう全く。もう無いもののように思ってるんですよ。」
以上、在日の妄想と、アンジュングンは「生存権を奪われたから何しても良くて」人殺しではないという主張でした;:゙;`(゚∀゚)`;:゙
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実は、安重根の遺骨に関心が高まっているそうで、3年前も大変な騒ぎでした。
《金嬉老(キム・ヒロ)死去、 安重根(アン・ジュングン)追悼式典 【ニュースバード】》2010年03月26日
レポーター「韓国では今、行方がわからないままの、アン・ジュングンの遺骨収拾に関心が集まっています。中国・旅順で日本当局に処刑されたアン・ジュングンの遺骨は、これまでも調査が行われてきましたが、発見には至っていません。
日本が埋葬場所について、資料を持っているのではないかという、韓国メディアの未確認情報も手伝って、日本に協力を求める声も聞かれます。.女・市民「新聞にアン・ジュングン義士が埋まっている場所を日本は知っていると書いていたので、もし知っているなら教えてほしい。」
レポーター 「こうした中、イ・ミョンバク大統領も、関係部署に日本の協力要請を指示するなど、このところ安重根のニュースがない日はありません。今朝の韓国の有力紙はすべて、このアン・ジュングンのニュースを1面に掲げています。殺害された伊藤博文の記憶が日本で薄れていく中で、韓国におけるアン・ジュングンの存在は、100年たった今もニュースになる存在なのです。」 以上.あと、伊藤博文が併合前に高宗皇帝(コジョン)の息子李垠(イ・ウン)を日本に留学させた話
《パク・クネ氏、安重根(アン・ジュングン)記念碑を中国・ハルビン駅に設置要請 【ニュースバード】》2013年06月29日
アンジュングンの遺骨収集に関心が高まって・・・で、どうにかなったんでしょうか?
まっ、伊藤博文を殺した人だからニュースになって当然だけど、ニュースにすべきは日本の方だと思いますけどね。
そして、日本人を殺した金嬉老も英雄扱いにみる韓国の異常さ・・
異常なナショナリズムの国の歴史解釈はマジ理解できません。
で、2年前にはこんな韓国・中央日報で記事も・・・
「日本のために伊藤博文を撃った」…安重根義士の親筆発見(2)
・・・私は伊藤という薪を片づけて韓国という煙突から火が出ないようにし、ひいては東洋というひとつの家を焼かないようにした先覚者だ。すなわちハルビンでの偉業は政治犯とか、復讐的だと呼ばれる理由はなく、同時にただ韓国のためだけでなく日本のためにしたものだ」。ユン研究員は、「安重根の義挙が韓国のためだけでなく究極的には日本と東洋平和のための義挙だったことを堂々と明らかにしている内容だ」と説明した。
日本のため? アンジュングンってやっぱりイカレポンチだったという話かいな。
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《朝鮮文化遺産 百年の流転 (朝鮮王朝儀軌は何故日本に渡ったか) 前半 【NHK】》より抜粋
日本政府は李王家と日本の結びつきを強めていきます。併合に先立ち初代韓国統監・伊藤博文はコジョンの息子李垠(イ・ウン)を日本に留学させました。
10歳の皇太子に徹底した日本式の教育を受けさせることが目的でした。
そして、併合後の1916年、イ・ウンの婚約が報じられます。相手は日本の皇族・梨本宮方子妃。日本と朝鮮が一体となる日鮮融和の象徴ともてはやされました。・・
«【安倍総理訪韓】 大ヒット映画『暗殺』。大ベストセラー小説『安重根アベを撃つ』で見る韓国の異常さが不安・・»2018年01月25日
・・そして去年、こんな小説まで出版された。そのタイトルは「安重根アベを撃つ」。伊藤博文を暗殺した韓国の英雄・安重根が現代に蘇り、アベという名の安倍総理に見立てた人物を暗殺するという何ともいい難い内容。
発売時は韓国メディアの注目も集めた。Nキャスは小説を書いた作家、キム・ジョンヒョンさんに話を聞く事が出来た。・・
「テロリスト」「犯罪者」と本当の事を言っただけで、攻撃してくる国は正常でしょうか?
まさに「反日種族主義」の国だと自ら証明していると思いますけど・・。
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「多摩川氾濫」のニュースがあったし、てっきり決壊したと思っていたら、決壊はしてなかった?ようですね。
「多摩川」といえば、10年前に辛淑玉氏司会の番組で、在日朝鮮人がいっぱい住んでいると言っていたのを思い出したので紹介します。まずはNHKのニュースから
川崎 幸区 河川敷の建物つかる | NHKニュース 2019年10月12日 18時49分
台風19号の接近で東京 大田区と川崎市の境を流れる多摩川に「氾濫警戒情報」が出される中、川崎市幸区戸手の河川敷にある建物数棟が水につかりました。
警察や消防によりますと建物の中にいる人を誘導したり、避難するよう呼びかけたりしているということです。
消防によりますとこれまでにけがをした人はいないほか、多摩川の堤防が決壊したり堤防を越えて水があふれたりはしていないということです。
市街地の変容と築堤の関係にみる無堤地区の形成史これを読んで、在日コリアンの苦悩?を思い出しました。
~玉川無提地区(二子玉川地区、立川錦糸町地区、川崎戸手地区)を事例として~
・・2005 年から住民の立ち退きが始まり、市内各地の 市営住宅等に移り住んだ。この時、1 世帯当たり 2700 万程度の補償が払われている。高規格堤防は下 流部から徐々に完成していったが、政権が交代し、 事業自体が停止してしまい、現在上流部のみ無堤地 区として残っている。
同地区は、在日韓国人の不法占拠に始まる等、社 会的に複雑な状況にあるため、安直な結論が導かれ るべきではないと思われるが、市街地形成と築堤と の関係のみに注目するならば、不法占拠に対する地権者の無主張や行政管理の不徹底等が課題としてあげられよう・・
10年前に書き起こししていたもので、『在日韓人歴史資料館内の映像』と姜徳相氏による説明です。(地名がよく分からないのでカタカナにしてあります;)
«<韓国特集> 「在日コリアンの100年」 その2 【痛快!おんな組】»2009年05月23日
「これはね、1930年代の、多摩川の砂利採取の労働現場です。そして今でも多摩川の川っ淵、チョウス、シチュウ、イナダ、ノボリト、南武線のツタヤマ、(※調布?、府中?、稲田、登戸、津田山)
あの辺は朝鮮人はとてもたくさんいます。その砂利採取をした人たちがあそこに定着した、それの子孫なんですね。」
(当方、山陰の片田舎在住の為、関東の地名・位置関係が本当に不案内なので💦「で、これ一日30銭で働いて。で、生活はというと極貧です。多摩川の川べりにあった彼らの住居です。」
「これがね当時の・・朝鮮人には家、貸さないんですよ。ですからやむなくね、こういう河川敷だとか、こういう基地を占拠して自分で家を建てる。これは朝鮮式のオンドルです。
これ炊き口ですね。円筒が向こうに通ってて、これオンドル小屋です。こういう家を建てました。
で実際に私もこういうとこに泊まった事がありますから。戦後暫くまで残っていたとこです。そこにはまさにこういう朝鮮性そのものの生活、が残っていた所です。」
「・・・これね、金持ちのおまるです。これ貧乏人のです。日本の住宅で、なんでおまるが必要かと思うでしょ。それはね、これで分かるんです。」
「これは、東京の朝鮮人部落です。これはさっき言った砂利採集ですね。でこれは豊島区・・今のカナメ町(※要町)の辺りです。西武線が通ってます。これです。池袋から次の駅の間に昔はあったんですね。これ見るとね、おまるが必需品って分かるんです。トイレと水道がないんですよ。全体の中に一箇所か二箇所しかないんですね。そうするとやっぱり夜は危険だから、トイレに行けない。そういう事が珍しくなかったです。だからどうしても、これが必需品だったということが分かりますね。」
「在日朝鮮人にとっては、忘れることの出来ない、すべてある面でトラウマと言っていいと思いますね。
関東震災です。・・・
カタカナにした部分が分かる方は、それをコメ欄で教えて頂ければありがたいです)
もし、河川敷の不法占拠地帯が流されていたとして、マスメディアはちゃんと背後関係を報道するでしょうか?! 否
多摩川河川敷を不法占拠した地域が台風で全滅したと判明 マスコミは事実を隠して報道中 2019年10月13日
これも、タブーにしちゃダメ。国民が共有すべき情報だと思いますよ。
「不法占拠」の事実は事実として報じないと、私ら地方の人にはさっぱり分からない。
それに後々、そこに居座っていた人達が「行政がー」と、「謝罪と賠償」する事があったとして・・
なんでそこに朝鮮人が住んでいるのかというとこまで、国民全体が理解しないといけないと思う
«在日コリアン地区 “京都・ウトロ問題”遠のく解決」 【NEWSゆう+】»2011年01月11日
・・幼い頃、母親に抱かれ、先に日本に渡った父親を追ってきたという南君子さん。南氏「子供はおるし、仕事はないし、みんな飢え死にになるさかい、私らの親もな、自分の国で住めばええねんけども、住むに住めへんから日本に来たんや。」
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前記事で、辛淑玉氏の日本人ヘイト番組を紹介しましたが、
その番組で特集していた「在日コリアンの歴史」を、この際少し手直しして再掲します。
(前半は「在日韓人歴史資料館」内の様子と解説。戦時中・後の朝鮮人の生活。炭鉱事故の事、関東大震災の時の事件、創氏改名などのレポートとアンジュングンと伊藤博文の話など)
これは、私が2009年にブログを始めてすぐに書き起こししたもので、歴史面でまだはお花畑に片足突っ込んでる状態💦
その時は5回に分けて記事にしたけど、今回は前半・後半の2回にしました。今読み返すと当時の私の感想がユルユルです(苦笑)
《<韓国特集> 「在日コリアンの100年」 その1 【痛快!おんな組】》2009年5月22日
朝日ニュースター【痛快!おんな組】<韓国特集> のレポートです。
(かなり長いし、画像も入れたいので2回に分けて書きます。今回はゲストの姜徳相氏の生い立ち等の井戸端会議。)
ゲスト:元一橋大学社会学部教授で現滋賀県立大学名誉教授で歴史学者、在日韓人歴史資料館館長の姜徳相(カン・ドクサン)氏
(関東大震災といえば姜徳相先生。二歳で渡日と紹介)
辛淑玉「姜先生・・一世??でらしたんですね。」
永六輔「(自分も)33年。同世代」
姜徳相「いえ、一世ではなんいです。向こうで生まれたと言う点ではね、二世です。ただ二歳で来てるでしょ。ですからふるさとの山だとか川だとか友達だとかそういうの一切ないんです。(ただ生まれただけ!?)そうです。私は東京渋谷育ち。そういうことです。」
辛淑玉「私も渋谷生まれ!(笑)。そうすると出産の為だけに韓国に戻ったのではなくて、産まれてすぐこちらに来たと!?」
姜徳相「そうです。1932年生まれですから、34年の12月にこっちに来てるんです。」
辛淑玉「歴史学者としてもたくさんの著書がありますが、姜先生は日本の戦前・・・在日としての、あっ自分は在日なんだと、認識したのはいつ頃の事なんですか?」
姜徳相「もう、私のうちはクズ屋ですから、・・・親方がいてね。うちの親父は親方なんですが、下に(??)がいてこれみんな同胞です。ですから周りの人と違うんです。クズの山がこうありますしね。隠しようがないですね。だからずっと最初から違うと認識は持っていたと思います。」
辛淑玉「お父さんとお母さんは日本語はどんな感じだったんですか?」
姜徳相「お袋は、日本語は出来ません。もう死ぬまで朝鮮丸出しの日本語でした。親父はね、外へ出て色々やるでしょ。ですからもう全然朝鮮訛りがありません。これはなかなか立派なもんです。」
辛淑玉「先輩世代で、日本の大学の教授になられるって事は、在日にとっては、物凄いキラ星のようなもので、その時に勉強したり学ぶって事は、姜先生の世代ってのはもう本当に難しかったですよね。勉強好きだったんですか?(笑)」
姜徳相「特に歴史ってのは、やっても何も就職とかね結びつかない。ですから私が歴史を学んだっていうのは、子供の頃は歴史、大っ嫌いなんです。どうしてかっていうと必ず神武皇后・豊臣秀吉、日清戦争の樋口、・・・広瀬中佐ね。(この辺の名前合ってますかね^^;)そんなものが出てきて、その下には必ず朝鮮があるわけです。
だから加藤清正が虎退治っていうと、クラスのやつが皆見るんですよね。こう小さくなっていましたね。だから早く過ぎれば良いなって。で、あの頃の教科書、神武天皇のおじいさんだったか・・・雲の上に乗っているんです。先生に何で雲の上に落ちないんですかと聞きに行って物凄く怒られた。職員室へね(笑)。そういう事があって歴史は好きじゃなかった。
歴史をやるようになって、これ、いつから始まったのかなって事を調べてね、二年前ぐらいに、錦絵に出てくる朝鮮で、神武皇后から始まるんですね。加藤清正の虎退治。 幕末明治にこういう考えが完成したんだなと。そういうことを本に書きましたけどね。それはあの時の非常に嫌な思いってのがあって、集め出したらそういう傾向がきちっと出てくるもんでね、面白かったと思います。」
中山千夏「お年頃からすると戦争が終わった時が(13歳)13歳ですか。それまでの学校っていうものはもう本当に、本当に嫌な教育の、ね。」
姜徳相「遊んでも、腕力は強かったですよ。ケンカでは勝つんです。口も達者でしたからね。だけど最後に『朝鮮人野郎!』で終わりです。もう勝負あった。」
中山千夏「絶対的なカードなのねー。」
永六輔「同世代の日本人としてうかがうんですけど、学童疎開はどうなさってたんですか?」
姜徳相「私はね、自分で疎開したんです。東京空襲があったでしょ。三月十日。四月の空襲のすぐ後に宮城県に疎開しました。集団疎開じゃないです。縁故疎開。」
辛淑玉「集団疎開と縁故疎開の違いはなんですか?」
永六輔「集団疎開は文部省が立派な大人になって戦争に参加できるように、学校ごと」
中山千夏「クラスの友達全員が一緒に。」
姜徳相「それは、小学生、、、私は中学生でしたから。中学一年から二年にかけて」「動員もしました。軍事工場じゃなくてね、二年ですからね、田舎でやったのは開墾。畑を耕して。」
永六輔「僕らの近くの被差別部落と朝鮮の人達は学童疎開に参加出来なかった。」
朴慶南「えー、そこに区切りとか差別とかあったわけですか」
姜徳相「うん、あった」
辛淑玉「当時、周りには同じ在日の同胞はおりました!?」
姜徳相「はい、いました。女の子でしたけどね。私は二組であの子は四組なんですけどね。
で、金玉子(キムオッチャ)って言うんです。玉子(たまこ)さん。で、ガキどもが名前をね、キンタマキンタマってね。いじめるんですね。本名だったんです。その子はね。
私はね三年の時に創氏改名した。『神農』の名前に変わって、だけど日本名に変わったけど、下の方の『徳相(トクソウ)』はね、変わらないんですよ。だから神農 徳相(シンノウ・トクソウ)ってのはね、担任が変わったりね、課外の音楽の先生とかね分かんない先生来るでしょ。出席簿見ると、まず名前の変な異常さに気がついてオマエどっから来たんだと。」
朴慶南「神農はなんで!?」 中山千夏「中国の神様ですよね~」
姜徳相「神様の農ですね。姜氏はね元々族譜を見ますと、『神農しセイはキョウなり』というアレがあるんです。でそこから来たんです。で姜は大概、神農になるか、大山、神田。」
朴慶南「大体この苗字は、金なら金田とか、朴は新井とかね。なにか共通性があるんですよねぇ」
辛淑玉「私は辛だからシンさんシンさんで、新山になるんですよねぇ(笑)」
ここまでが序章です。最初の「二歳で渡日」って聞き慣れない日本語でした。学童疎開と縁故疎開の違い、私も知りませんでした^^;
確かに昔は、酷い差別があったかも知れません。うちの親も結構言う方で、子供の頃はそれがすごい嫌でした。
私は、この在日の人の話に限らず、戦時中の話とか戦後の生活の話とか興味があります。当時の苦労は現代に生きる私たちには想像もできませんからね。つづく・・・
次の記事は「在日韓人歴史資料館」内の様子と解説です。戦時中・後の朝鮮人の生活。炭鉱事故の事、関東大震災の時の事件、創氏改名などのレポートです。
◆レギュラー出演者 (順不同、敬称略)
辛 淑玉(シン・スゴ) 人材育成コンサルタント 中山 千夏 作家
永 六輔 放送作家 朴 慶南(パク・キョンナム) エッセイスト
境分 万純(サコウ・マスミ) ジャーナリスト 山根 春美 フラワー作家
◆ゲスト出演者 在日韓人歴史資料館館長 姜徳相
《<韓国特集> 「在日コリアンの100年」 その2 【痛快!おんな組】》
『在日韓人歴史資料館内の映像』と姜徳相氏によるの説明です。(地名がよく分からないのでカタカナにしてあります^^;)
「ここは船ですね。
最初の頃に出航していた船ですね。済州島と大阪の間を往来した船です。
君が代丸って言います。航路は下関からレイスイ。博多からレイスイ。1920年代。1910年から朝鮮は日本領になるんです。
それで、総督府という植民地としての地位になって、まあ従属した形です。
ですからその間に、朝鮮から日本に労働者として移動してくる。
あるいは戦争中には炭鉱などに強制的に労務動員される。そういう形で在日っていうのは作られているっていうことですね。」
「これ、大変面白い。
朝鮮の北の方のタンゲってとこなんですけどね。
ここからこうーー来て、東京までの汽車の切符です。42年ですね。
昭和で言うと16年ですか。17年ですか。
で値段がね、39円55銭。今の貨幣価値にして・・・、あの頃、普通のサラリーマンの月給にして50円あったかなかったかじゃないですかね。」
「これはね、炭鉱ってのはすごく劣悪な労働条件ですね。保安施設も非常に貧しいわけです。
これは宇部っていう山口県の炭鉱で海底炭鉱なんです。海の下に石炭山があるんですね。
だから、陥没しちゃったんです。海が。海水がワッと入ってきてここの人は全滅をしたんです。
ところがこの鉱山はこの人たちを水をかき出して死体を取り出すと物凄く金が掛かるわけです。で、この山はもう駄目なんだ。だから埋めちゃった。
ですからここに居た数百人の人はまだ骨も回収されない。そのまま。その時の賃金の支払い票とか、その後の色んな捜査が行われているということですね。まだ死体はこの中にある。骨も回収されてないですね。そういうのが宇部の炭鉱の話で、大変に有名な話です。」
「これはね、1930年代の、多摩川の砂利採取の労働現場です。
そして今でも多摩川の川っ淵、チョウス、シチュウ、イナダ、ノボリト、南武線のツタヤマ、
あの辺は朝鮮人はとてもたくさんいます。
その砂利採取をした人たちがあそこに定着した、それの子孫なんですね。」
「で、これ一日30銭で働いて。で、生活はというと極貧です。多摩川の川べりにあった彼らの住居です。」
「これがね、当時の・・・朝鮮人には家、貸さないんですよ。ですからやむなくね、こういう河川敷だとか、こういう基地を占拠して自分で家を建てる。
これは朝鮮式のオンドルです。これ炊き口ですね。円筒が向こうに通ってて、これオンドル小屋です。こういう家を建てました。
で実際に私もこういうとこに泊まった事がありますから。
戦後暫くまで残っていたとこです。そこにはまさにこういう朝鮮性そのものの生活、が残っていた所です。」
「・・・これね、金持ちのおまるです。これ貧乏人のです。
日本の住宅で、なんでおまるが必要かと思うでしょ。それはね、これで分かるんです。」「これは、東京の朝鮮人部落です。
これはさっき言った砂利採集ですね。
でこれは豊島区・・今のカナメ町の辺りです。西武線が通ってます。これです。
池袋から次の駅の間に昔はあったんですね。これ見るとね、おまるが必需品って分かるんです。
トイレと水道がないんですよ。全体の中に一箇所か二箇所しかないんですね。
そうするとやっぱり夜は危険だから、トイレに行けない。そういうことが珍しくなかったです。
だからどうしても、これが必需品だったということが分かりますね。」
「在日朝鮮人にとっては、忘れることの出来ない、すべてある面でトラウマと言っていいと思いますね。
関東震災です。
もう日本政府は当時の偶然的なことで、
一部日本人自警団がやったんだということで蓋をしちゃってますが、実際そうじゃないですね。
戒厳令を軍隊がしいて、朝鮮人が暴動を起こしてると。・・・軍隊が真っ先に出て行くんです。そして警察がその軍隊を道案内して朝鮮人虐殺をする。
それに自警団が俺の町は俺たちが守ろうと言うんで、軍隊や警察に協力すると、そういう形での官民一体の形での体制が出来ている。これが真実です。これ軍隊ですよね。これは警官ですよ。警官は後ろで手縛って連れて来てますよね。そして自警団が日本刀や槍あるいは、とび口これでこういう風に殺している。民衆はこうやって見ている。
恐らくこれ隅田川なんです。エイタイバシの辺りには官憲の記録がちゃんと残っています。朝鮮人を殺したっていうね。多分そうだろうと思います。」
「これは戦争中の日本人になれ。郷に入っては郷に従えと、日本風の生活をしろということを教え込んだ協和会。これ大阪本部です。」「これがね、創氏改名の通信簿で、ちょっと話題になった資料です。
これ見るとね、昭和15年度です。創氏改名なった年、1940年。そして、この人は3年なんですね。
で、3年の時の通信簿、一学期はイ・モヨン、二学期は武田茂と、本名が消されて日本名になるんですね。で、創氏改名が日本でなされていると。私の記憶と全く同じです。
私もこの人と同学年で、3年の時に二学期に担任の先生に教壇に呼ばれて、みんなの前に・・こう言いましたよ『キョウ君は今日から神農に替わったから、みんなそのように心得て』そう言ったのハッキリ覚えてますよ。で、友達たちはアイツ養子に行ったのかなぁと思ったそうです。」
「これが1945年までの状況です。で、この虐殺の問題に関しては、未だに日本政府は一言も調査もしないし、謝罪もしないし、もう頬かむりした状況のままです。
そして、在日が・・よく朝鮮人怖いと言う人いますね。それはね、この時の流言蜚語からなんです。朝鮮人が爆弾投げた。火をつけた。強姦したというね。
これがね間違いだと言うことを日本政府、言ってないんですよ。未だに。あのやっぱりきちっとね間違ったことをやったならやったと、歴史の汚名の回復って言うんでしょうか、歴史的な濡れ衣を・・・きちっとしてくれないと困るなという感じがしております。」
歴史資料館内の説明はここまで。
・‥…━━━・‥…━━━・‥…━━━
在日の人の生活と主張は、よく分かりました。
で、関東大震災時の朝鮮人虐殺数について、当時の政府(司法省)の調査では233人、吉野作造の調査では2711人、最も犠牲者を多く見積もる立場からは6415人(「独立新聞」社長の金承学の調査)と幅が見られ、(ウィキペディアより)韓国の教科書では、多い数をとっているそうです。
あの当時、閉鎖された中で、こんな情報がもたらされたら、皆パニックになるのではないでしょうか。
朝鮮人が暴徒となって放火していると伝える大阪朝日新聞(大正12年9月3日号外)
《 <韓国特集> 「在日コリアンの100年」 その3 【痛快!おんな組】》
中山千夏「これ、去年お出しになった本ですね。写真で見る在日コリアンの100年。(来年がね丁度100年になる)
さっき、ちらっと見せていただいて、凄くビジュアルのとってもいい感じの本」
朴慶南「資料もね、今発掘したり集めたり、残して行ってる。」
中山千夏「貴重な資料がいっぱい載ってますねぇ。」
朴慶南「力道山も写ってますね。」
中山千夏「あたしが子供の頃、、懐かしいですよ。」
姜徳相「玉の海も載ってます。」
辛淑玉「外国人初の力士、横綱っていわれるといつも曙とかが出てくるけど、本当は玉の海。」
朴慶南「だから、力道山も朝鮮人であることを、、最近は慣れているけど、当時はタブーでしたもんね。日本人のヒーローになってたもんね。」
姜徳相「玉の海は自分では最後まで隠してましたけどね。お兄さんがね、韓国で「ヤクザと横綱」って本を出したんです。それで自分の弟のこと書いて、だからこれはまぁいいだろうと言うことで出したわけです。」
辛淑玉「あの私、日本各地に仕事に行くと、男女共同参画なんかに行ってもですね、高齢の男性がポツッと座っている時があるんですよ。全く会場にそぐわない人が会場に来ているんですね。100%在日の先輩。
それで、終わってから大体皆親戚だって言って来てくれるのね。まぁそんなもんですよ。それでね、今でも記憶に残っているんですけど、名古屋の駅をねあれを、あれを建てたのは私達だって、言ったのね。で、つまり枕木一本朝鮮人って言われてて、いろんなとこのね、小さな村に行っても、女性の色んな講演会なんだけど、お爺さんが来てるっていうと、もう在日の先輩なんですよね。」
中山千夏「主題のね、関東大震災の時の話をお聞きしたいんですけど、私驚いちゃうのはね、驚いちゃうって言うよりこれは考え違いかなってお話聞いて思うのは、一番デマの恐ろしい例としてね、
民間にデマが飛んで、それが大事引き起こす一番良い例という風に何となく思ってきたわけですよ。それで限りなく軍隊が果たした役割とか政府の意図があったというようなことは、我々知らなかったんですね。そうなんですか!?
朴慶南「資料を姜先生が発掘されてその辺を明らかにされてるんですよね。」
姜徳相「これまだ、私の考えですけどね、みんながそれをそうだと言っているわけでは無いんですが、
流言蜚語ってのは、出方はね、日本人の朝鮮人に対する差別的な感情、これみんな持っていたんで、それがこうあの時の朝鮮人、爆弾投げるぞという形で出たんで、民間から出たんで、それを警察がキャッチしてやったんだと。(それが一般に・・・)
だけどね、実際はそうじゃない。まだあの頃ね、朝鮮人、東京付近関東一円に二万人くらいしかいませんでした。で、皆、労働現場です。ハンバにいる、そういう季節労働者が多いんです。
ですから、今のように隣に朝鮮人が住んでいる。隣の朝鮮人の生活が臭くてしょうがないとかね、そういうアレがあまりないんです。まだこの頃は。
ですから、一般の人が、色々聞いたり読んだりそういうことでは知っていますが、朝鮮人そのものをあまり認識していないんです。」
中山千夏「あーー、反感を持つほどにも親しんでいないという、、」
姜徳相「ですから、それよりもっとね、朝鮮人は怖いぞという認識を持った官憲がいるわけです。それを商売にしている。
それは何かというと、やっぱり朝鮮の併合あるいは朝鮮の併合過程までに、日本という国家がかなり酷いことやっていますよ。朝鮮に。まぁ実際私は宣戦布告無き戦争と言っていますが、何人も殺しているんです。
だから朝鮮人が日本国家に反感を持っているっていうことは、彼らは十分よく知っているわけです。だから警戒をする。注意をしてる。日本に朝鮮人が来るとそれを視察する。管理するということを商売としてる人がおるわけです。恐らく私はそこから来ていると思うんです。
ですから、地震で権力がガタ落ちするでしょ。警察力は40%になりますよね。で、治安の維持が出来なくなるこうなった時に、まず彼らは何を考えたかって言うとあそこの朝鮮人気をつけろと必ずそう言うはずです。」
辛淑玉「丁度その前に3.1の独立運動がありましたからね。その意味で社会をコントロールする危機感を持ったということですね。」
姜徳相「ええ、3.1以後、ある面では朝鮮の独立運動と日本の軍隊とが直接こうやっているわけです。満州やシベリアでね。ですから、満州、シベリア帰りはみんなそういう経験しているわけです。朝鮮、怖いというね。
ですから、恐らくそういうものを複合したかたちで、戒厳令がまず出されるでしょ。戒厳令ってのは、軍隊が最高の権力を持った時です。ですから、剣付き鉄砲を持った兵隊が、街角に立っているときに、大っぴらに殺人事件があるわけでしょ。それがだめだって言うのが良民で殺すなって言うんだったら軍隊がやめろと、やれば自警団ハハァーとかしこまりますよ。それは。」
中山千夏「そうですよね。戒厳っていうんだから、みんなちゃんとしろって事ですから、人殺しがあったらやめろって言うのが普通ですよね。」
姜徳相「だから、逆なんですよね。軍隊が率先してやっていて自警団が民兵として協力するそういう形です実際は。」
永六輔「あのーお話うかがっているとよく分かるんですけど、最後に謝ってないって日本人が。謝ってない前に知ってないんですよね。
資料館があることは大事なんですが、知ってないって事についてひとつと、伊藤博文良いと思うの。僕らの世代でいうと。あの事件、、それはどういう風に思います!?」
辛淑玉「アンジュングンのですね。」
姜徳相「私はやはりアンジュングンがやったテロをした。伊藤博文を殺した。こういうこというと不謹慎かもわかりませんけどね、自分の生存権をね、奪われた人間ってのはね、怖いですよ。だからもう何をしても良いというね。もう最後の行き場が無いですから。アンジュングンってのはそういう事だと思うんですね。
彼があん時に言ったのは、自分は朝鮮の義兵という、日本に抗議する軍隊です義兵中将という資格で伊藤をやったんだと言ってますね。ですから単なる武器を持って人を殺すというそういう人殺しではない。と思いますね。」
姜徳相「絵葉書を見つけたんです。五枚綴りのね。これ何かというとね、アンジュングンの、、今アンジュングン記念館、ソウルにありますよね。それがね植民地時代、総督府なんかが博文寺という寺を造っていたんです。(へぇーー)寺を造ってね伊藤博文をお奉りをしてた。ところが戦争が終わるとアンジュングンの記念館になった。建物良く似てますよ。同じですよ。
だからさっき言った民族の英雄。それから明治の元勲って言うね、博文とアンジュングン記念館とそこでも繋がってるんですね。最近それ見つけましたね、あっこういうものがあったと、ビックリしましたけど。」
辛淑玉「日本で伊藤博文さんのね、事紹介される時に、テロリスト、アンジュングンって紹介される。そして韓国では民族の英雄っていう形で評価されると。
で、どちらにしても非常に悲しいことですよね。であと、思ったんですけど、先ほどの関東大震災にしてもそうなんですが、韓国政府とか韓国の社会自身も、在日の戦前戦後の歴史って言うのは知らないですよね。」
辛淑玉「]知らないっていうより知ろうとしないんですよね。」
朴慶南「関心が無いんですよね。もう全く。もう無いもののように思ってるんですよ。」
永六輔「資料館、ご案内くださいましたよね。
あの画面見てると日本語が多いんですけど、
あの資料館は両方にもちろん行って欲しいんですけど、
日本人は相当マークしてるんです!?」
姜徳相「いえ、あれは三つ目的があります。
ひとつは在日の同胞たち三世四世になって、お爺さんお婆さんの時代を知らない人に来てもらって、匂いを嗅いで欲しいということ。
日本の方にはやはり、在日ってのは日本の社会で見えにくい社会でしょ。ですからここへ来ると隣に居た人はこういう食器も違ったし着る物も違ったそういう文化を持ってたんだという事をやっぱり見て欲しい。
そして日本の国際化ってのはどっから考えたら良いかっていうね、それをちょっと考えて欲しいという事。
もうひとつは韓国から年間日本に300万位、人が来ますよ。その人たちに寄ってもらって今韓国にもう無くなっているような物もこの在日の資料館にはあると。
そういうもので自分たちとルーツを同じとする人間が日本にこれだけおるんだという存在を知って欲しいという。これ三つあります。」
辛淑玉「では戦後の在日はどうだったのかまた資料館の中を旅してみたいと思います。」
ウーーン・・・言いたことはいっぱいありますが、
まず、玉の海って人は、韓国系ハーフの日本人だったので、やっぱり曙が外国人初の横綱ということじゃないのかなぁ。 中央日報記事
姜徳相氏の意見は、確証があって言っている事ではないみたいですね。それに、テロリストが韓国では英雄って・・・変です!
あと、この辛淑玉氏は、「拉致は絶対にない。日本人はそれよりもっと酷いことをいっぱいした。」と昔、日本テレビのワイドショーで主張していたのを観たので、信用できません。
次は、戦後の民族教育、戸籍問題等のレポートです。 ・・・つづく
そもそも、辛淑玉は、朝鮮・沖縄・アイヌは日本の被植民地連合として手を取り合って戦おうと言っているし・・
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朝鮮学校は、教員は無免許 無償化理念から逸脱 しているので、民族学校そのものなのですが、
その教師が「日本人に拉致言う権利ない」と教えているという高校生の告発記事を読んで、
その朝鮮学校の成り立ちについて、2年前、朝日ニュースターの【痛快!おんな組】の文字起こしたのを思い出しました。今日は、その在日朝鮮人たちのトンデモ井戸端会議を紹介したいと思います。
まずは、産経新聞の記事より
教師が「日本人に拉致言う権利ない」朝鮮学校の実態 2011/10/14 11:17更新
朝鮮学校から自分の意思で別の学校に移った高校生が初めて産経新聞に実態を告発した。教師は生徒らに反日意識をすり込み、「日本人に拉致を言う権利はない」と言い放つ。学校側が無償化や補助金申請のために国や自治体に行っている説明とは大きく食い違う。「生徒の立場が理解されていない。無償化するぐらいなら学校を選ぶ自由をください」。生徒は悲痛な声を上げた。(桜井紀雄)関連記事 朝鮮学校、教科書偽装…生徒に隠蔽指示 横田さん夫妻「北献金、吐き気する」
「誰かに実態を伝えないと」。無償化問題で朝鮮学校が注目されるようになってから生徒は悩み続けた。
菅直人前首相が辞任間際に無償化審査再開を指示したニュースが背中を押した。「学校がそのままなのに無償化が適用されてしまえば後輩たちが苦しめられ続ける」と取材に応じた。
最も違和感があったのは反日教育だという。教師が授業中、強制連行を例にこう言い放ったのを記憶している。「日帝(植民地)時代にあれだけ朝鮮人を拉致した日本人が拉致問題を言う権利はない」
朝鮮学校側が「拉致問題をきちんと教えている」と主張しているのとはあまりにかけ離れている。
教師は日本人を指す蔑称の「チョッパリ(獣のひづめ)」「倭(ウェ)奴(ノム)」と連呼し、歴史の授業で生徒に感想文を書かせたが、「教師が反日的な方向に誘導するため、皆、いい成績を取ろうと反日的な文章を書いた」という。「どうして日本が嫌いになるよう教えられなきゃいけないのか」と感じた。
生徒が北朝鮮について「独裁」と漏らすと呼び出された。教師の板書の間違いを指摘しても叱り飛ばされる。「目上の言うことを聞くのが朝鮮文化だ」。教師の指導は「絶対服従だった」と今、思う。生徒が朝鮮学校から移ろうとすると、この学校では教師や同級生が集まって思いとどまるよう圧力をかけたという。学校側は他校に受験し直すのに必要な書類の記入を渋り、「内申書はゼロだから」と告げた。
朝鮮学校側は「在日差別が続く中での民族教育の必要性」を強調し、無償化や補助金問題では「子供たちの学ぶ権利や人権の保障」を強く訴えている。
しかし生徒は「人権というなら国や自治体は無償化で学校を支援するより、生徒が自由に学校を選べる環境を作ってほしい。学校を変わると一時的に苦労するが、朝鮮学校に通い続けると日本社会に適応できず苦しむ」と語った。
朝鮮学校から別の学校に移った高校生が耐えられなかったのが「反省会」と称するホームルームの存在だった。
クラスはいくつかのグループに分けられ、一日を振り返って得点をつけさせられる。教室で日本語を使ったら減点。「反省することがない」と報告すると、教師から「ダメだ」と突き返された。
北朝鮮で職場や地域ごとに相互批判させられる「生活総和(総括)」の朝鮮学校版だ。
学費面での不公平感も拭えなかった。毎月、授業料に加え、施設修繕費などとして4万円近い金を納めさせられたが、学校の設備はボロボロのまま。「お金はどこに行っちゃったんだろう」と感じ続けた。
在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)職員の子供たちは学費さえ免除されていた。この事実は他の学校関係者も証言している。
2002(平成14)年の日朝首脳会談で金正日総書記が拉致を認め、謝罪してから故金日成主席、金総書記父子礼賛や反日教育といった教育内容は変わったとされる。
しかし生徒が通っていた朝鮮学校では、故金主席の業績を称賛する教科書記述を暗記させられ、土曜日の課外授業では、北朝鮮の経済発展をたたえる映像を見させられた。教師は「わが学校は世界的に優れた教育だ」と自賛したという。
補助金問題で大阪府は、教室に掲げた金父子の肖像画を下ろすよう要請した。初級(小)学校など既に肖像画を取り外した学校も少なくない。
しかし生徒は「小学生のころ、肖像画が外されたが、教室の横の壁に金日成の別の写真が掲げられた」と振り返る。
神奈川県の補助金問題でも学校側は拉致問題などに関する記述を訂正したとしているが、多くの学校で変わっていなかったことが判明している。
生徒も「絶対変わっていない。教師のメンツを考えると変えられるわけがない」と断言する。・・(以下 略)
何度も繰り返しますが、こんな反日組織に補助金(税金)を投入するなんて狂ってる。
こんな教育受けていたらそりゃ日本を恨むし、日本社会からはみ出て凶悪犯罪に走るわ。
で、本題!
元一橋大学社会学部教授で現滋賀県立大学名誉教授で歴史学者の姜徳相氏の『在日韓人歴史資料館内の写真の説明です (一部抜粋)
「これ、戦後の状況ですが、この旗は韓国の国旗です。だけど良く見てください。これはね元は日の丸なんです。日の丸を半分色を塗って、、、これもそうです。最初はみんなそういう形で大極旗が再生するんです。」
「これは民族教育です。民族教育ってのは、やはり1945年まで朝鮮語を教えるってのは、犯罪なんです。砂川刑務所行きです。だけど、そりゃもう言葉っていうのは民族ですからね。
皇民化政策では、常に反抗するものという形でショハン?)されるわけですけど、在日が60数年の歴史の中で、戦後の、一番力を尽くしたのは教育。で、それは奪われたものを取り返すという、そういう事だと思いますね。
だから子供たちに民族を吹き込むというそういう為に、学校が出来るのはね1946年9月。一番先に出来たのはね、今の高田の馬場。
ですから、早稲田の方に行くと、明治通りとぶつかってるとこありますよね。交差点。スワ町っていうんですね。そこにお寺があったんです。お寺の一角で始まったのが、民族学校の始まりです。そして一年の間にね、全国に広がります。そして最大525校、中学校は4校、まだ高等学校は出来てなかったと思いますが、青年学校14校、そして48年には高等学校も出来るんです。で民族教育が、、で学生数が6万人。」
「で、この時に日本政府がやったことは、朝鮮人は日本人と同じであると。
だから日本人である以上、義務教育は日本の学校に通わなければならない。こういう変な理屈をつけて、これを潰すんです。これが48年朝鮮人学校事件という大騒動になった事件です。
だから日本政府は戦後、一番先にやったことは、、朝鮮人は日本国籍持ってましたよね。
で、貴族院にも衆議院にも議員を出してます。日本にいる朝鮮人は選挙権があったんですね。市会議員は多分かなりいた、、地方議員は。ところが45年の12月の衆議院議員改正法これを作ると当分の間、朝鮮人は選挙権、、戸籍法の適用を受けざる者は、当分選挙権を停止するという変なことで、選挙権を奪うんです。
で、サンフランシスコ条約までは日本国内にいる朝鮮人は日本国籍なんです。法的にもね。ところがそうやって終わります。そのことはね、なんでこういうことをやったのかと。いうと当時、日本政府が無条件降伏の際に例外をひとつ付けました。
『国体の護持』、これを条件にしてましたね。そして、これは天皇制の問題です。
で、米軍はそれについて確約も何もしないで、占領しました。だけど、対日理事会ってのが、アメリカだけでなくて、ソ連もいたし、イギリスもいたし、オーストリアもいたし、オランダもいた。そういう中で、中国もいたし、一致できなかった。で、天皇制が維持できるかどうか分からないっていうんで、色々難しい問題があったようです。
そのときにね、日本の議会から天皇制廃止を言う議員が出たのでは身も蓋も無い。そういう意味での緊急避難。当時の朝鮮人、200万人位いましたからね。単純計算しても議員は5,6人でるんです。だからその危険を切ってしまえっていうのは、どうも真相のようです。・・
これが朝鮮学校の成り立ちあたり、在日の主張の一部です。
あと4つ記事があるんですが、辛淑玉(シンスゴ)や中山千夏や永六輔らが、「日本はヒッドイよねー」「天皇は汚ねぇやつ」「恥ずかしい」と言っております。
暇な時にでも、在日と反日日本人の井戸端会議を覗いてみて下さい。
もう勝手すぎて・・ご想像通り・・・
【朝日ニュースター】辛淑玉司会番組(2009年放映) <韓国特集> 「在日コリアンの100年」 後半 【痛快!おんな組】
・ゲストの姜徳相氏の生い立ち・・イジメ・疎開等の話など・『在日韓人歴史資料館内の映像』と姜徳相氏による強制的労務動員と戦後朝鮮人の暮らし・関東大震災・創氏改名など
・「写真で見る在日コリアンの100年」力道山・玉の海の話、アンジュングンと伊藤博文の話・在日の苦労など
【朝日ニュースター】辛淑玉司会番組(2009年放映) <韓国特集> 「在日コリアンの100年」 前半 【痛快!おんな組】・再び、『在日韓人歴史資料館内の映像』と姜徳相氏によるの説明。戦後の帰国の様子・民族教育、戸籍問題偏見・最後の天皇の勅令への批判など
・スタジオへ戻り、再び井戸端会議。最後の勅令について罵詈雑言・選挙権等について在日としての不平不満など
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朝日ニュースター【痛快!おんな組】<韓国特集> 「在日コリアンの100年」のレポートです。
«<韓国特集> 「在日コリアンの100年」 その4» 2009.05.25 『在日韓人歴史資料館内の映像』と姜徳相氏によるの説明より
姜徳相氏「●これは博多。これ復員兵です日本の。この復員兵が降りた後に、朝鮮人がこの空船に乗って帰る訳ですね。
ですから最初日本政府は朝鮮人がこれだけたくさん連れてきたのに、計画的に帰そうという計画が何もなかった。
ですから、空船が帰るよということで、皆港に集まるわけです。
ところが船がこの人たち半年くらいの間に250万位帰るんですよ。ですからなかなか乗れないんですよ。で、乗船待ちのために下関・仙台・博多、これはもう朝鮮人で埋まるんです。
ところが宿屋がないんですね。
ですから道端で寝る。
で、当然ご飯を食べる、排泄がありますよね。施設がないんです。
だからもう本当にね、大変な生活を一ケ月も二ケ月もやる中に、病気になって死んだやつも出てきたりね、対策が無かったです。」「●これ、戦後の状況ですが、この旗は韓国の国旗です。だけど良く見てください。これはね元は日の丸なんです。日の丸を半分色を塗って、、これもそうです。最初はみんなそういう形で大極旗が再生するんです。」
「●これは民族教育です。
民族教育ってのは、やはり1945年まで朝鮮語を教えるってのは犯罪なんです。
砂川刑務所行きです。
だけど、そりゃもう言葉っていうのは民族ですからね。
皇民化政策では、常に反抗するものという形でショハン?)されるわけですけど、在日が60数年の歴史の中で、戦後の、一番力を尽くしたのは教育。で、それは奪われたものを取り返すという、そういう事だと思いますね。
だから子供たちに民族を吹き込むというそういう為に、学校が出来るのはね1946年9月。
一番先に出来たのはね、今の高田の馬場。ですから、早稲田の方に行くと、明治通りとぶつかってるとこありますよね。交差点。
スワ町っていうんですね。そこにお寺があったんです。お寺の一角で始まったのが、民族学校の始まりです。そして一年の間にね、全国に広がります。そして最大525校、中学校は4校、まだ高等学校は出来てなかったと思いますが、青年学校14校、そして48年には高等学校も出来るんです。で民族教育が、、で学生数が6万人。」「●で、この時に日本政府がやったことは、朝鮮人は日本人と同じであると。だから日本人である以上、義務教育は日本の学校に通わなければならない。こういう変な理屈をつけて、これを潰すんです。
●これが48年朝鮮人学校事件という大騒動になった事件です。だから日本政府は戦後、一番先にやったことは、、朝鮮人は日本国籍持ってましたよね。
で、貴族院にも衆議院にも議員を出してます。日本にいる朝鮮人は選挙権があったんですね。市会議員は多分かなりいた、、地方議員は。ところが、45年の12月の衆議院議員改正法これを作ると当分の間、朝鮮人は選挙権、、戸籍法の適用を受けざる者は、当分選挙権を停止するという変なことで、選挙権を奪うんです。
で、サンフランシスコ条約までは日本国内にいる朝鮮人は日本国籍なんです。法的にもね。
ところがそうやって終わります。その事はね、何でこういう事をやったのかというと
当時、日本政府が無条件降伏の際に例外をひとつ付けました。『国体の護持』これを条件にしてましたね。そしてこれは天皇制の問題です。で、米軍はそれについて確約も何もしないで占領しました。
だけど、対日理事会ってのが、アメリカだけでなくて、ソ連もいたし、イギリスもいたし、オーストリアもいたし、オランダもいた。そういう中で、中国もいたし、一致できなかった。
で、天皇制が維持できるかどうか分からないっていうんで、色々難しい問題があったようです。その時にね、日本の議会から天皇制廃止を言う議員が出たのでは身も蓋も無い。そういう意味での緊急避難。
当時の朝鮮人、200万人位いましたからね。単純計算しても議員は5,6人出るんです。だからその危険を切ってしまえっていうのは、どうも真相のようです。これは京都大学の水野ナオキさんって方が、あの時の強制文書??ですかあれのを調査した結果、そういう風に言っておりましたね。
●ですから、都合が悪いのには外国人ですね。で47年の5月2日に、覚えといてくださいよ。
外国人登録令ってのを出すんです。外国人登録令ってのはね、最後の天皇の勅令です。新憲法が出来ると国民主権ですから、国会の法律じゃないと日本の法律はないんです。
だけど戦前の法律は国会の法律より天皇の命令が優先するんです。これを勅令と言いますね。この最後の勅令が外国人登録令です。そして当分の間朝鮮人は外国人とみなすというわけです。そして翌日の新憲法には国民はこの憲法の、、享受出来ると。(私は)外国人ですからね、憲法の適用外。勝手な事をどーんどんやってくるわけです。
●だから、戦後特にね、サンフランシスコ条約以降、日本は戦争被害による、、あるいは国の政策の過ちによって受けた多くの犠牲。これに対して60いくつかの補償法案を出します。
一番いいのは遺族年金。色々あります。障害者年金とかね。全部出来る法律には、但し日本国籍を有するもの。朝鮮人は全て除外されます。これが、これが戦後の差別の始まりです。で、この事はね、どういうことを意味するかっていうと、戦争中は朝鮮人に戦争協力させるでしょ!? ですから法律の上においてはね、差別はそれほど酷くないんです。階級も同じだったし、選挙権もあったしね。要するに出来るだけ日本人と同じ。法律の上では。
差別と法律は違うんです。ああ偏見は違うんです。日本人は朝鮮はけしからん国だ。日本にいつも不平を持っている。という偏見はあります。クサイとかね。ニンニククサイとかね。そういう偏見はあります。だけど、法的にはそれほど差別は出来ない。
ところが、戦後になると偏見はそのままあるわけでしょ!? 偏見持ったヤツが差別をもった制度を手に入れるわけですからね、これはもう酷いもんです。
戦後は、私の実体験からいくと、朝鮮人はもうほんとーうに大変でした。ほっんとうに大変でした。それはもう本当に実体験です。
朝鮮学校の成り立ちあたり、在日の主張を抜粋しました。
他の記事では、辛淑玉や中山千夏や永六輔らが「日本はヒッドイよねー」「天皇は汚ねぇやつ」「恥ずかしい」と言っております。
ブログをはじめたばかりの時に書いたので読みにくいかもしれませんが^^;、あとは暇な時にでも在日の主張を覗いてみて下さい。 もう勝手すぎて・・ご想像通りです💦
- <韓国特集> 「在日コリアンの100年」 LAST 2009.05.25
- <韓国特集> 「在日コリアンの100年」 その4 2009.05.25
- <韓国特集> 「在日コリアンの100年」 その3 2009.05.24
- <韓国特集> 「在日コリアンの100年」 その2 2009.05.23
- <韓国特集> 「在日コリアンの100年」 その1 2009.05.22
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再び、『在日韓人歴史資料館内の映像』と姜徳相氏によるの説明です。
「●これは博多。これ復員兵です日本の。
この復員兵が降りた後に、朝鮮人がこの空船に乗って帰る訳ですね。
ですから最初日本政府は朝鮮人がこれだけたくさん連れてきたのに、計画的に帰そうという計画が何もなかった。
ですから、空船が帰るよということで、皆港に集まるわけです。
ところが船がこの人たち半年くらいの間に250万位帰るんですよ。ですからなかなか乗れないんですよ。で、乗船待ちのために下関・仙台・博多、これはもう朝鮮人で埋まるんです。
ところが宿屋がないんですね。
ですから道端で寝る。
で、当然ご飯を食べる、排泄がありますよね。施設がないんです。
だからもう本当にね、大変な生活を一ケ月も二ケ月もやる中に、病気になって死んだやつも出てきたりね、対策が無かったです。」「●これ、戦後の状況ですが、この旗は韓国の国旗です。だけど良く見てください。これはね元は日の丸なんです。日の丸を半分色を塗って、、これもそうです。最初はみんなそういう形で大極旗が再生するんです。」
「●これは民族教育です。
民族教育ってのは、やはり1945年まで朝鮮語を教えるってのは犯罪なんです。
砂川刑務所行きです。
だけど、そりゃもう言葉っていうのは民族ですからね。
皇民化政策では、常に反抗するものという形でショハン?)されるわけですけど、在日が60数年の歴史の中で、戦後の、一番力を尽くしたのは教育。で、それは奪われたものを取り返すという、そういう事だと思いますね。
だから子供たちに民族を吹き込むというそういう為に、学校が出来るのはね1946年9月。
一番先に出来たのはね、今の高田の馬場。ですから、早稲田の方に行くと、明治通りとぶつかってるとこありますよね。交差点。
スワ町っていうんですね。そこにお寺があったんです。お寺の一角で始まったのが、民族学校の始まりです。そして一年の間にね、全国に広がります。そして最大525校、中学校は4校、まだ高等学校は出来てなかったと思いますが、青年学校14校、そして48年には高等学校も出来るんです。で民族教育が、、で学生数が6万人。」「●で、この時に日本政府がやったことは、朝鮮人は日本人と同じであると。だから日本人である以上、義務教育は日本の学校に通わなければならない。こういう変な理屈をつけて、これを潰すんです。
●これが48年朝鮮人学校事件という大騒動になった事件です。だから日本政府は戦後、一番先にやったことは、、朝鮮人は日本国籍持ってましたよね。
で、貴族院にも衆議院にも議員を出してます。日本にいる朝鮮人は選挙権があったんですね。市会議員は多分かなりいた、、地方議員は。ところが、45年の12月の衆議院議員改正法これを作ると当分の間、朝鮮人は選挙権、、戸籍法の適用を受けざる者は、当分選挙権を停止するという変なことで、選挙権を奪うんです。
で、サンフランシスコ条約までは日本国内にいる朝鮮人は日本国籍なんです。法的にもね。
ところがそうやって終わります。その事はね、何でこういう事をやったのかというと
当時、日本政府が無条件降伏の際に例外をひとつ付けました。『国体の護持』これを条件にしてましたね。そしてこれは天皇制の問題です。で、米軍はそれについて確約も何もしないで占領しました。
だけど、対日理事会ってのが、アメリカだけでなくて、ソ連もいたし、イギリスもいたし、オーストリアもいたし、オランダもいた。そういう中で、中国もいたし、一致できなかった。
で、天皇制が維持できるかどうか分からないっていうんで、色々難しい問題があったようです。その時にね、日本の議会から天皇制廃止を言う議員が出たのでは身も蓋も無い。そういう意味での緊急避難。
当時の朝鮮人、200万人位いましたからね。単純計算しても議員は5,6人出るんです。だからその危険を切ってしまえっていうのは、どうも真相のようです。これは京都大学の水野ナオキさんって方が、あの時の強制文書??ですかあれのを調査した結果、そういう風に言っておりましたね。
●ですから、都合が悪いのには外国人ですね。で47年の5月2日に、覚えといてくださいよ。
外国人登録令ってのを出すんです。外国人登録令ってのはね、最後の天皇の勅令です。新憲法が出来ると国民主権ですから、国会の法律じゃないと日本の法律はないんです。
だけど戦前の法律は国会の法律より天皇の命令が優先するんです。これを勅令と言いますね。この最後の勅令が外国人登録令です。そして当分の間朝鮮人は外国人とみなすというわけです。そして翌日の新憲法には国民はこの憲法の、、享受出来ると。(私は)外国人ですからね、憲法の適用外。勝手な事をどーんどんやってくるわけです。
●だから、戦後特にね、サンフランシスコ条約以降、日本は戦争被害による、、あるいは国の政策の過ちによって受けた多くの犠牲。これに対して60いくつかの補償法案を出します。
一番いいのは遺族年金。色々あります。障害者年金とかね。全部出来る法律には、但し日本国籍を有するもの。朝鮮人は全て除外されます。これが、これが戦後の差別の始まりです。で、この事はね、どういうことを意味するかっていうと、戦争中は朝鮮人に戦争協力させるでしょ!? ですから法律の上においてはね、差別はそれほど酷くないんです。階級も同じだったし、選挙権もあったしね。要するに出来るだけ日本人と同じ。法律の上では。
差別と法律は違うんです。ああ偏見は違うんです。日本人は朝鮮はけしからん国だ。日本にいつも不平を持っている。という偏見はあります。クサイとかね。ニンニククサイとかね。そういう偏見はあります。だけど、法的にはそれほど差別は出来ない。
ところが、戦後になると偏見はそのままあるわけでしょ!? 偏見持ったヤツが差別をもった制度を手に入れるわけですからね、これはもう酷いもんです。
戦後は、私の実体験からいくと、朝鮮人はもうほんとーうに大変でした。ほっんとうに大変でした。それはもう本当に実体験です。
はい、戦後は皆大変でした。純日本人もそうです。私も祖母や伯母達に聞かされました。
客観的に理解しようとしてみても、敗戦したのだから、日本もいっぱいいっぱいだったと、容易に想像できます。
日本政府も戦中は朝鮮人を、同等にしていたし、戦後、朝鮮は独立したのだから、外国人になるのは当然だと思うのですが、なんで、日本の天皇制や天皇陛下の勅令にまで不満を言うのか分かりません。
次は最後のレポートですが、ますます訳のわからない主張です。
・・・つづく
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中山千夏「これ、去年お出しになった本ですね。写真で見る在日コリアンの100年。(来年がね丁度100年になる)
さっき、ちらっと見せていただいて、凄くビジュアルのとってもいい感じの本」
朴慶南「資料もね、今発掘したり集めたり残してってる。」
中山千夏「貴重な資料がいっぱい載ってますねぇ。」
朴慶南「力道山も写ってますね。」
中山千夏「あたしが子供の頃、、懐かしいですよ。」
姜徳相「玉の海も載ってます。」
.
辛淑玉「外国人初の力士、横綱っていわれると、いつも曙とかが出てくるけど、本当は玉の海。」
朴慶南「だから、力道山も朝鮮人であることを、、最近は慣れているけど、当時はタブーでしたもんね。日本人のヒーローになってたもんね。」
姜徳相「玉の海は自分では最後まで隠してましたけどね。
お兄さんがね、韓国で「ヤクザと横綱」って本を出したんです。それで自分の弟のこと書いて、だからこれはまぁいいだろうと言うことで出したわけです。」辛淑玉「あの私、日本各地に仕事に行くと、男女共同参画なんかに行ってもですね、高齢の男性がポツッと座っている時があるんですよ。全く会場にそぐわない人が会場に来ているんですね。100%在日の先輩。
それで、終わってから大体皆親戚だって言って来てくれるのね。まぁそんなもんですよ。
それでね、今でも記憶に残っているんですけど、名古屋の駅をねあれを、あれを建てたのは私達だって、言ったのね。で、つまり枕木一本朝鮮人って言われてて、いろんなとこのね、小さな村に行っても、女性の色んな講演会なんだけど、お爺さんが来てるっていうと、もう在日の先輩なんですよね。」
中山千夏「主題のね、関東大震災の時の話をお聞きしたいんですけど、私驚いちゃうのはね、驚いちゃうって言うよりこれは考え違いかなってお話聞いて思うのは、一番デマの恐ろしい例としてね、
民間にデマが飛んで、それが大事引き起こす一番良い例という風に何となく思ってきたわけですよ。それで限りなく軍隊が果たした役割とか政府の意図があったというようなことは、我々知らなかったんですね。そうなんですか!?
朴慶南「資料を姜先生が発掘されてその辺を明らかにされてるんですよね。」
姜徳相「これまだ、私の考えですけどね、みんながそれをそうだと言っているわけでは無いんですが、
流言蜚語ってのは、出方はね、日本人の朝鮮人に対する差別的な感情、これみんな持っていたんで、それがこうあの時の朝鮮人、爆弾投げるぞという形で出たんで、民間から出たんで、それを警察がキャッチしてやったんだと。(それが一般に・・・)
だけどね、実際はそうじゃない。まだあの頃ね、朝鮮人、東京付近関東一円に二万人くらいしかいませんでした。で、皆、労働現場です。ハンバにいる、そういう季節労働者が多いんです。
ですから、今のように隣に朝鮮人が住んでいる。隣の朝鮮人の生活が臭くてしょうがないとかね、そういうアレがあまりないんです。まだこの頃は。
ですから、一般の人が、色々聞いたり読んだりそういうことでは知っていますが、朝鮮人そのものをあまり認識していないんです。」中山千夏「あーー、反感を持つほどにも親しんでいないという、、」
姜徳相「ですから、それよりもっとね、朝鮮人は怖いぞという認識を持った官憲がいるわけです。それを商売にしている。
それは何かというと、やっぱり朝鮮の併合あるいは朝鮮の併合過程までに、日本という国家がかなり酷いことやっていますよ。朝鮮に。まぁ実際私は宣戦布告無き戦争と言っていますが、何人も殺しているんです。
だから朝鮮人が日本国家に反感を持っているっていうことは、彼らは十分よく知っているわけです。だから警戒をする。注意をしてる。日本に朝鮮人が来るとそれを視察する。管理するということを商売としてる人がおるわけです。恐らく私はそこから来ていると思うんです。
ですから、地震で権力がガタ落ちするでしょ。警察力は40%になりますよね。で、治安の維持が出来なくなるこうなった時に、まず彼らは何を考えたかって言うとあそこの朝鮮人気をつけろと必ずそう言うはずです。」
辛淑玉「丁度その前に3.1の独立運動がありましたからね。その意味で社会をコントロールする危機感を持ったということですね。」
姜徳相「ええ、3.1以後、ある面では朝鮮の独立運動と日本の軍隊とが直接こうやっているわけです。満州やシベリアでね。ですから、満州、シベリア帰りはみんなそういう経験しているわけです。朝鮮、怖いというね。
ですから、恐らくそういうものを複合したかたちで、戒厳令がまず出されるでしょ。戒厳令ってのは、軍隊が最高の権力を持った時です。ですから、剣付き鉄砲を持った兵隊が、街角に立っているときに、大っぴらに殺人事件があるわけでしょ。それがだめだって言うのが良民で殺すなって言うんだったら軍隊がやめろと、やれば自警団ハハァーとかしこまりますよ。それは。」
中山千夏「そうですよね。戒厳っていうんだから、みんなちゃんとしろって事ですから、人殺しがあったらやめろって言うのが普通ですよね。」
姜徳相「だから、逆なんですよね。軍隊が率先してやっていて自警団が民兵として協力するそういう形です実際は。」
永六輔「あのーお話うかがっているとよく分かるんですけど、最後に謝ってないって日本人が。謝ってない前に知ってないんですよね。
資料館があることは大事なんですが、知ってないって事についてひとつと、伊藤博文良いと思うの。僕らの世代でいうと。あの事件、、それはどういう風に思います!?」
辛淑玉「アンジュングンのですね。」
姜徳相「私はやはりアンジュングンがやったテロをした伊藤博文を殺した。こういうこというと不謹慎かもわかりませんけどね、自分の生存権をね、奪われた人間ってのはね、怖いですよ。だからもう何をしても良いというね。もう最後の行き場が無いですから。アンジュングンってのはそういう事だと思うんですね。
彼があん時に言ったのは、自分は朝鮮の義兵という、日本に抗議する軍隊です義兵中将という資格で伊藤をやったんだと言ってますね。ですから単なる武器を持って人を殺すというそういう人殺しではない。と思いますね。」
姜徳相「絵葉書を見つけたんです。五枚綴りのね。これ何かというとね、アンジュングンの、、今アンジュングン記念館、ソウルにありますよね。それがね植民地時代、総督府なんかが博文寺という寺を造っていたんです。(へぇーー)寺を造ってね伊藤博文をお奉りをしてた。ところが戦争が終わるとアンジュングンの記念館になった。建物良く似てますよ。同じですよ。
だからさっき言った民族の英雄。それから明治の元勲って言うね、博文とアンジュングン記念館とそこでも繋がってるんですね。最近それ見つけましたね、あっこういうものがあったと、ビックリしましたけど。」
辛淑玉「日本で伊藤博文さんのね、事紹介される時に、テロリスト、アンジュングンって紹介される。そして韓国では民族の英雄っていう形で評価されると。
で、どちらにしても非常に悲しいことですよね。であと、思ったんですけど、先ほどの関東大震災にしてもそうなんですが、韓国政府とか韓国の社会自身も、在日の戦前戦後の歴史って言うのは知らないですよね。」
辛淑玉「知らないっていうより知ろうとしないんですよね。」
朴慶南「関心が無いんですよね。もう全く。もう無いもののように思ってるんですよ。」
永六輔「資料館、ご案内くださいましたよね。
あの画面見てると日本語が多いんですけど、あの資料館は両方にもちろん行って欲しいんですけど、
日本人は相当マークしてるんです!?」
姜徳相「いえ、あれは三つ目的があります。
ひとつは在日の同胞たち三世四世になって、お爺さんお婆さんの時代を知らない人に来てもらって、匂いを嗅いで欲しいということ。
日本の方にはやはり、在日ってのは日本の社会で見えにくい社会でしょ。ですからここへ来ると隣に居た人はこういう食器も違ったし着る物も違ったそういう文化を持ってたんだという事をやっぱり見て欲しい。
そして日本の国際化ってのはどっから考えたら良いかっていうね、それをちょっと考えて欲しいという事。
もうひとつは韓国から年間日本に300万位、人が来ますよ。その人たちに寄ってもらって今韓国にもう無くなっているような物もこの在日の資料館にはあると。
そういうもので自分たちとルーツを同じとする人間が日本にこれだけおるんだという存在を知って欲しいという。これ三つあります。」
辛淑玉「では戦後の在日はどうだったのかまた資料館の中を旅してみたいと思います。」
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ウーーン・・言いたことはいっぱいありますが、
まず、玉の海って人は、韓国系ハーフの日本人だったので、やっぱり曙が外国人初の横綱ということじゃないのかなぁ。 中央日報記事
姜徳相氏の意見は、確証があって言っている事ではないみたいですね。
それに、テロリストが韓国では英雄って、超変です!
あと、この辛淑玉氏は、「拉致は絶対にない。日本人はそれよりもっと酷いことをいっぱいした」と昔、日本テレビのワイドショーで主張していたのを観たので、信用できません。
次は、戦後の民族教育、戸籍問題等のレポートです。・・・つづく
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『在日韓人歴史資料館内の映像』と姜徳相氏によるの説明です。(地名がよく分からないのでカタカナにしてあります^^;)
「ここは船ですね。最初の頃に出航していた船ですね。済州島と大阪の間を往来した船です。
君が代丸って言います。航路は下関からレイスイ。博多からレイスイ。1920年代。1910年から朝鮮は日本領になるんです。それで、総督府という植民地としての地位になって、まあ従属した形です。
ですからその間に、朝鮮から日本に労働者として移動してくる。
あるいは戦争中には炭鉱などに強制的に労務動員される。そういう形で在日っていうのは作られているっていうことですね。」
「これ、大変面白い。朝鮮の北の方のタンゲってとこなんですけどね。ここからこうーー来て、東京までの汽車の切符です。42年ですね。昭和で言うと16年ですか。17年ですか。で値段がね、39円55銭。今の貨幣価値にして・・、あの頃、普通のサラリーマンの月給にして50円あったかなかったかじゃないですかね。」
「これはね、炭鉱ってのはすごく劣悪な労働条件ですね。保安施設も非常に貧しいわけです。
これは宇部っていう山口県の炭鉱で海底炭鉱なんです。海の下に石炭山があるんですね。
だから、陥没しちゃったんです。海が。海水がワッと入ってきてここの人は全滅をしたんです。
ところが、この鉱山はこの人たちを水をかき出して死体を取り出すと物凄く金が掛かるわけです。
で、この山はもう駄目なんだ。だから埋めちゃった。ですからここに居た数百人の人はまだ骨も回収されない。そのまま。その時の賃金の支払い票とか、その後の色んな捜査が行われているということですね。まだ死体はこの中にある。骨も回収されてないですね。そういうのが宇部の炭鉱の話で、大変に有名な話です。」
「これはね、1930年代の、多摩川の砂利採取の労働現場です。
そして今でも多摩川の川っ淵、チョウス、シチュウ、イナダ、ノボリト、南武線のツタヤマ、(※調布?、府中?、稲田、登戸、津田山)
あの辺は朝鮮人はとてもたくさんいます。その砂利採取をした人たちがあそこに定着した、それの子孫なんですね。」
「で、これ一日30銭で働いて。で、生活はというと極貧です。多摩川の川べりにあった彼らの住居です。」
「これがね当時の・・朝鮮人には家、貸さないんですよ。ですからやむなくね、こういう河川敷だとか、こういう基地を占拠して自分で家を建てる。これは朝鮮式のオンドルです。
これ炊き口ですね。円筒が向こうに通ってて、これオンドル小屋です。こういう家を建てました。
で実際に私もこういうとこに泊まった事がありますから。戦後暫くまで残っていたとこです。そこにはまさにこういう朝鮮性そのものの生活、が残っていた所です。」
「・・・これね、金持ちのおまるです。これ貧乏人のです。日本の住宅で、なんでおまるが必要かと思うでしょ。それはね、これで分かるんです。」
「これは、東京の朝鮮人部落です。これはさっき言った砂利採集ですね。でこれは豊島区・・今のカナメ町(※要町)の辺りです。西武線が通ってます。これです。池袋から次の駅の間に昔はあったんですね。これ見るとね、おまるが必需品って分かるんです。トイレと水道がないんですよ。全体の中に一箇所か二箇所しかないんですね。そうするとやっぱり夜は危険だから、トイレに行けない。そういう事が珍しくなかったです。だからどうしても、これが必需品だったということが分かりますね。」
「在日朝鮮人にとっては、忘れることの出来ない、すべてある面でトラウマと言っていいと思いますね。
関東震災です。もう日本政府は当時の偶然的なことで、一部日本人自警団がやったんだということで蓋をしちゃってますが、実際そうじゃないですね。
戒厳令を軍隊がしいて、朝鮮人が暴動を起こしてると。・・軍隊が真っ先に出て行くんです。そして警察がその軍隊を道案内して朝鮮人虐殺をする。
それに自警団が俺の町は俺たちが守ろうと言うんで、軍隊や警察に協力すると、そういう形での官民一体の形での体制が出来ている。これが真実です。これ軍隊ですよね。これは警官ですよ。警官は後ろで手縛って連れて来てますよね。そして自警団が日本刀や槍あるいは、とび口これでこういう風に殺している。民衆はこうやって見ている。
恐らくこれ隅田川なんです。エイタイバシの辺りには官憲の記録がちゃんと残っています。
朝鮮人を殺したっていうね。多分そうだろうと思います。」
「これは戦争中の日本人になれ。郷に入っては郷に従えと、日本風の生活をしろということを教え込んだ協和会。これ大阪本部です。」
「これがね、創氏改名の通信簿で、ちょっと話題になった資料です。これ見るとね、昭和15年度です。創氏改名なった年、1940年。そして、この人は3年なんですね。で、3年の時の通信簿、一学期はイ・モヨン、二学期は武田茂と、本名が消されて日本名になるんですね。で、創氏改名が日本でなされていると。私の記憶と全く同じです。私もこの人と同学年で、3年の時に二学期に担任の先生に教壇に呼ばれて、みんなの前に・こう言いましたよ『キョウ君は今日から神農に替わったから、みんなそのように心得て』そう言ったのハッキリ覚えてますよ。で、友達たちはアイツ養子に行ったのかなぁと思ったそうです。」
「これが1945年までの状況です。で、この虐殺の問題に関しては、未だに日本政府は一言も調査もしないし、謝罪もしないし、もう頬かむりした状況のままです。
そして、在日が・・よく朝鮮人怖いと言う人いますね。それはね、この時の流言蜚語からなんです。朝鮮人が爆弾投げた。火をつけた。強姦したというね。
これがね間違いだと言うことを日本政府、言ってないんですよ。未だに。あのやっぱりきちっとね間違ったことをやったならやったと、歴史の汚名の回復って言うんでしょうか、歴史的な濡れ衣を・・・きちっとしてくれないと困るなという感じがしております。」
歴史資料館内の説明はここまで。・‥…━━━・‥…━━━・‥…━━━
在日の人の生活と主張は、よく分かりました。
で、関東大震災時の朝鮮人虐殺数について、当時の政府(司法省)の調査では233人、吉野作造の調査では2711人、最も犠牲者を多く見積もる立場からは6415人(「独立新聞」社長の金承学の調査)と幅が見られ、(ウィキペディアより)韓国の教科書では、多い数をとっているそうです。
あの当時、閉鎖された中で、こんな情報がもたらされたら、皆パニックになるのではないでしょうか。
朝鮮人が暴徒となって放火していると伝える大阪朝日新聞(大正12年9月3日号外)