TBS【朝ズバッ!】のけさ単で、
『竹島が日本領である理由』と題し、竹島不法占拠、44人の日本人が死傷・李承晩ライン、韓国側の3つの主張など、歴史は?法的には?どうかという解説をやっていたので記録しました(解説は流れはそのまま要約)
①竹島の基礎知識 ②竹島不法占拠への道 ③なぜ不法占拠が続くのか?韓国の主張
ほんの9分ほどのコーナーなのに、判りやすくて秀悦なまとめだと思います。竹島概要のワイドショー解説としてはバッチリかな
さくらにゃん
大韓帝国時代の工芸品「銀製李花文花瓶」は日本製 文化財登録を抹消 | 聯合ニュース 2023.02.07韓国の文化財庁、相変わらずテキトーですね。多分コレも「日韓併合記念品」なんだと思います。何故かというと・・
【ソウル聯合ニュース】韓国文化財庁が今月初め、国家登録文化財「銀製李花文花瓶」の登録を抹消すると官報で告示していたことが7日、分かった。1910年代に大韓帝国王室御用達の工房で製作されたとみられ、王室文化の一端を垣間見ることができる史料として2009年に文化財に登録されたが、調べ直したところ日本の時計店で製作されたものだった。
文化財庁は「銀製李花文花瓶の底面の刻印『小林』は、東京の小林時計店製を表すことが確認され、登録を抹消する」と説明した。
小林時計店はかつて東京に店を構えていた老舗の時計店で、時計以外にも銀製品や装身具などを製作し、宮内省(現宮内庁)にも納入したことがあったとされる。
銀製李花文花瓶は国立古宮博物館が所蔵する。首が細長く、膨らんだ胴部中央は大韓帝国の王室紋章であるスモモの花(李花文)に飾られている。
文化財庁は2009年に登録文化財に指定した際、「王室で使用する工芸品を製作するため設立された李王職美術品製作所で1910年代に製作」と解説していた。
だが底面に「小林」と刻印されているため、文化財の現場では調べ直す必要があるとの意見も根強かったとされる。
昨年末に調査に参加したある専門家は「刻印を見ると小林時計店で製作したことが明白だ」とし、「李王家が注文したものか商業的な理由で製作販売したものか分からないが、朝鮮工芸の脈を受け継ぐ、あるいは王室の生活像を示す歴史的な価値があるものとは見なし難い」との見解を示した。別の専門家は「『李花文がある工芸品は李王職美術品製作所の製品』という誤った認識によって国家登録文化財に登録された、明らかな間違い」だったと指摘した。
2009年の文化財登録に先立つ調査は、文化財庁が韓国伝統文化研究所を通じて外部に依頼し、工芸分野の専門家から助言を受けた。その際に刻印への言及はなかった。
銀製李花文花瓶の文化財登録は抹消されたが、文化財庁によると、国立古宮博物館で引き続き所蔵、管理する予定だ。同博物館は李花紋がついた銀製工芸品を購入するなどして収集している。
「日韓併合記念」印の模様、旭日かな?☆ 大韓帝国 公族 李熹公 李埈公殿下 純銀無垢 小林時計店製 下賜拝領品
日韓併合記念品 李王家 朝鮮総督府 桐文 韓国併合 ボンボニエール
≪キム・ヨナのスケート靴を文化財に。【韓国KBS】 韓国の文化財に自動車・電化製品・半導体・日本製時計・パク・セリのゴルフクラブも(・・;) ≫2017年01月10日やはり、日本人の考える「文化財」と韓国人のソレは全く違う概念。・・文化遺産研究所所長「特別な人物にゆかりのあるものを文化財にするということですが、その範囲については十分に検討するべきです。」
新たな文化財の対象は広範囲にわたっており、文化財指定の乱発による財政的な負担も予想されます。以上
なんか凄いラインナップ(~_~;) PSYの衣装とかも有力ですかね。
ちなみに日本の文化財は韓国のそれとは観念が別物のようで、韓国文化の底の浅さがちょっとかわいそうになりました。
まぁ、文化的な物?が取り壊されたり、ゴミだらけになるよりは良いと思いますけど。
で、ちょっと見つけてしまったんですが・・・下から3番目の時計、メーカー名がカタカナで書いてあります。こんなの韓国の文化財にして大丈夫でしょうか??
ちなみに「マツダ電気は現在の東芝」だそうです。
韓国のニュース、もちろん毎日大真面目にやっているんですが、日本人から見ればツッコミどころ満載。
中でも「ええーっ?!」のニュースを少しご紹介します!・・
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在米大韓帝国公使館、工事代金未納で抵当権設定 10/7(月)米ワシントンにある大韓帝国公使館が補修工事代金の未納で現地業者に抵当権を設定されていたことが6日までに分かった。公使館を管理する韓国文化財庁傘下の国外所在文化財財団は今回の一件で米国の裁判所に民事訴訟を起こされ、関係者が米警察当局の取り調べを受けている。金栄珠(キム・ヨンジュ)国会議員(共に民主党)が入手した裁判所資料によると、国外所在文化財財団は在米僑胞のB氏が運営する現地業者に公使館の補修代金約12万1000ドル(約1290万円)を支払わなかったとして、今月3日に提訴された。訴状によると、同業者は昨年2月から今年5月にかけ、総額15万4500ドル相当の工事を完了したが、うち3万3000ドルしか受け取っていないと主張した。業者は公使館の建物に根抵当権を設定した。また、公使館の館長と幹部は工事代金の支払いに関する契約書の署名を偽造した疑いでワシントン警察当局の捜査を受けているという。
«駐米「大韓帝国公使館」を復元・修繕し、"大韓帝国の自主独立外交・韓米友好の歴史を示す"博物館へ(ワシントン) 【韓国KBS】»2015年10月20日女子アナ「19世紀後半、大韓帝国の自主外交に力を入れていたアメリカ公使館の建物がワシントンDCに今も残っていますが、この度意味ある復元工事が始められました。」
ワシントンDCのホワイトハウスからそう遠くない歴史保存区域。
ここに今も残るこの建物は、朝鮮最後の王、高宗・(コ・ジョン)が1889年私財25000ドルを投じて購入し、大韓帝国の公使館として使用していたものです。
16年間駐米公使館として使用され、大韓帝国の自主外交の象徴となりましたが、日韓併合後日本政府により没収され、アメリカ人に売却されました。
それから102年後の2012年、韓国政府が再び購入しました。
「3年間の研究と準備の末、この建物の復元作業が始まりました。」
これまで収拾してきた資料に基づき、徹底的交渉を経て、当時の様相を忠実に復元します。交渉の為、アメリカの公文書や当時の新聞記事・歴史書の関連資料が収拾されました。
建物の1階2階は当時の公使館の様子をそのまま復元し、3階は展示スペースになる予定です。
事業を総括する国外所在文化財財団は、大韓帝国の自主独立外交・韓米友好の歴史を示す博物館にするとしています。
再来年の春には、大韓帝国公使館博物館としてオープンする予定です。以上
で、去年、文在寅大統領夫妻も訪問してました(・・;)
文大統領夫妻、在米大韓帝国公使館を訪問 2018.05.23米ワシントンを訪問中の文在寅(ムン・ジェイン)大統領と金正淑(キム・ジョンスク)大統領夫人は22日(現地時間)、在米大韓帝国公使館を訪問した。在米大韓帝国公使館は1889年に設置された。韓国が初めて西欧諸国に設置した外交公館で、自主独立の精神で外交を行おうとする高宗(朝鮮王朝最後の王で大韓帝国初代皇帝)の意思を象徴したものと評価される。同公使館は1905年の「乙巳条約(日韓保護条約)」により外交権が奪われたことで機能を停止。日本の植民地支配が始まった1910年に日本側が同公使館の入った建物を米国人に売却したが、2012年に韓国の文化財庁が買い戻した。復元工事を終え、1882年の5月22日に朝米修交通商条約が締結されたことを記念し、この日から一般公開される。文大統領は、開館式の冒頭発言で「朝米修交通商条約は、韓国が自主的に締結した初の条約」とし、「(今年が)朝米修交通商条約締結136周年と韓米同盟65周年にあたることを記念する」と強調した。 文大統領夫妻は「自主外交と韓米友好の象徴は、誇らしい歴史」と訪問録に書いた。
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NHK-BS【ワールドニュースアジア】韓国KBSで、
「大韓帝国(1897-1910)」の自主外交の象徴として、アメリカのワシントンDCにある「大韓帝国公使館」を買い戻し、修繕・復元して「大韓帝国」の自主独立外交・韓米友好の歴史を示す博物館としてオープンするというニュースをやっていたので記録しました(青字はナレーション)
忘却の遺産だったのに・・2012年から「日本に安値売却の駐米大韓帝国公使館、102年ぶり韓国の手に」 「歴史の帰還だ」 「取り戻した華盛頓公使館、主権回復を完成」 「滅びた国の忘れられた建物が生還した」 「米国の首都ワシントンにある大韓帝国公使館の建物が韓国に戻ってきた」
そして「取り戻したワシントン駐米大韓帝国公使館、観光名所に」と、
また「悲劇」の演出が本格的に始まりました。今度の舞台はアメリカ・ワシントンです。
女子アナ「19世紀後半、大韓帝国の自主外交に力を入れていたアメリカ公使館の建物がワシントンDCに今も残っていますが、この度意味ある復元工事が始められました。」
ワシントンDCのホワイトハウスからそう遠くない歴史保存区域。
ここに今も残るこの建物は、朝鮮最後の王、高宗・(コ・ジョン)が1889年私財25000ドルを投じて購入し、大韓帝国の公使館として使用していたものです。
16年間駐米公使館として使用され、大韓帝国の自主外交の象徴となりましたが、日韓併合後日本政府により没収され、アメリカ人に売却されました。
それから102年後の2012年、韓国政府が再び購入しました。
「3年間の研究と準備の末、この建物の復元作業が始まりました。」
これまで収拾してきた資料に基づき、徹底的交渉を経て、当時の様相を忠実に復元します。交渉の為、アメリカの公文書や当時の新聞記事・歴史書の関連資料が収拾されました。
建物の1階2階は当時の公使館の様子をそのまま復元し、3階は展示スペースになる予定です。
事業を総括する国外所在文化財財団は、大韓帝国の自主独立外交・韓米友好の歴史を示す博物館にするとしています。
再来年の春には、大韓帝国公使館博物館としてオープンする予定です。以上
たまたま価値ある建物という事で「歴史保存区域」に便乗ですね。
まるで日本から取り戻したかのような報道だけど、実はすっかり「忘れ去られていた」建物でした。
今回も、「日帝が強奪した」というストーリーのようですよ
※大した事は書いてないので、タイトルと強調文字だけ読んでください。
大韓帝国公使館の悲劇の教訓…「自主外交、富国強兵なければ破綻」(1)2013年08月27日17時10分
大韓帝国の高宗(コジョン)の最後の勝負の賭けは外交であった。亡国の影が濃くなっていた1887年、高宗は隠密で御命をくだす。米国の首都ワシントンDCに大韓帝国の常駐公使館(今の大使館)を開設しろとの命令だった。1891年、イ・チェヨン公使はワシントンDCローガンサークル15番地のビクトリア様式の赤褐色レンガ建物を買いとって屋上に太極旗を掲揚した。
しかし1910年、朝鮮は国権を喪失し、日帝はこの建物を5ドルで強奪した。記憶から忘れられた公使館を生き返らせたのは専門家たちの粘り強い意志であった。キム・ウォンモ檀国(タングク)大学教授は1983年、ワシントンの登記所で関連記録を探し出し、中央日報のパク・ポギュン論説委員は『生きている米国の歴史』の著述と講演を通じて買い入れ世論を主導した。昨年8月、公使館は102年ぶりに故国のふところに戻った。
韓国政府は20日、キム教授とパク論説委員に国民勲章牡丹章を授与した。キム教授とパク論説委員は21日に対談の機会を持ち、大韓帝国公使館の悲劇の教訓を振り返った。
--高宗が米国に公使館をつくった背景は。
キム・ウォンモ教授(以下、キム教授)=「米国は1882年に朝鮮と修好通商条約を結ぶ過程で朝鮮を清国の属国として待遇しろとの中国の影響力を排除した。条約締結を記念して米国は自国の独立戦争を象徴した歌『Yankee Doodle』を演奏した。朝鮮を新生独立国と認定したのだ」
パク・ポギュン論説委員(以下、朴委員)=「米国のチェスター・アーサー大統領は1883年高宗が送った使節団に『米国は他国の領土を占領、支配する意図はない』と言った。韓半島をめぐって日・中・露が繰り広げていた弱肉強食構図に苦しめられていた高宗にとって、この言葉は格別だった。朝米条約1条漢文本には『居中調整』、英文本には『good offices』という表現がある。朝鮮が第3国と紛争がある場合、米国が調整するという外交文面であった。これもまた高宗の心を動かした。しかし高宗の米国への心は片思いに過ぎなかった」
キム教授=「朝鮮は『居住調整』という外交的文面を拡大解釈した。駐韓米国公使ホロス・アレンはセオドア・ルーズベルト大統領に『米国が親露・反日政策を推進すれば韓国を日本の侵略から守ることができる』と言った。だがルーズベルトはロシアの南進を防ぐために親日・反露政策を選んだ。いくら良い条約でも国力がなければ紙切れに過ぎない」
パク委員=「公使館は弱小国朝鮮の外交的野望だ。だが虚弱な国力のせいで自主外交が挫折した教訓が込められた場所だ。高宗は『居住調整』という外交的な言葉を今の韓米相互防衛条約級だと過度に解釈した。日清戦争で日本が勝利する中、中国が数千年間影響力を行使してきた韓半島から撤退した。さらに日露戦争でも勝利した日本は、米国と『桂・タフト』密約、第2次日英同盟、ロシアとのポーツマス条約を結んで朝鮮に対する宗主権を確保する。富国強兵のない高宗の自主外交の野望は破綻した」。 (以下 略)
日本に安値売却の駐米大韓帝国公使館、102年ぶり韓国の手に2012年08月22日17時16分
大韓帝国初代の皇帝・高宗(1852-1919)が自主外交の旗幟として設置した公使館。しかし5ドルという値で日本に強制売却された悲運の建物。 韓国近現代史の悲しみが染み込んだ米ワシントンDCの「駐米大韓帝国公使館」が、102年ぶりに韓国の手に戻った。
文化財庁(庁長・金讃)と文化遺産国民信託(理事長・金宗圭)は21日、米ワシントン・ローガンサークル歴史地区にある駐米大韓帝国公使館建物の現所有主、米国人のティモシー・L・ジェンキンス氏と売買契約を締結したと明らかにした。 購入金額は350万ドル(約39億5000万ウォン)。
1877年に建設されたこの建物は、地下1階、地上3階のビクトリア様式だ。 1882年に米国と守護通商条約を結んだ高宗は、清・ロシア・日本の圧力に対抗して米国との関係を強化するため、1891年11月当時、2万5000ドルの内帑金(皇室資金)を投じてこの建物を購入した。 当時「大朝鮮駐箚米国華盛頓公使館」(華盛頓はワシントンの漢字表記)と呼ばれたこの建物は、1905年まで現在の駐米韓国大使館と同じ用途で使用された。しかし1905年11月の乙巳勒約(第2次韓日協約)後に管理権が日帝に移り、韓日強制併合(庚戌国恥)2カ月前の1910年6月には、日帝の強圧でわずか5ドルで所有権までも日本に奪われた。 日本は購入の直後、フルトンという米国人にこの建物を10ドルで売った。 その後、建物は所有主が何度か変わり、77年に現所有主の米国人弁護士に渡った。
公使館の存在が国内に知られたのは05年、・・・(中略)・・文化遺産国民信託の金宗圭(キム・ジョンギュ)理事長は「今回の購入は単なる建物の買い取りではなく、奪われた私たちの自負心を取り戻したという意味がある」と評価した。 (以下 略)
【社説】「華盛頓公使館」の帰還=韓国 2012年08月23日 (木) 16時58分
旧韓末の大韓帝国の主権の象徴だった「華盛頓公使館」が歴史から消えて102年ぶりに大韓民国の手に戻った。 華盛頓とは米ワシントンの漢字表記で、華盛頓公使館は今でいえば駐米韓国大使館に該当する。 米国内の住所は「15 Logan Circle NW Washington DC」だ。 1910年の韓日強制併合当時、主権とともに日本に奪われた華盛頓公使館は、その後、数人の米国人の手を経て個人住宅に変質し、歴史性を失った。 しかし今回、政府がついに華盛頓公使館の米国人所有者と売買契約を締結したというのだから、喜ばしいことだ。
とはいえ、20年前から国内メディアと現地同胞が提起してきた購入問題を予算不足などを理由に先延ばししてきた政府の責任が完全に拭われたわけではない。 世界10位圏の経済大国に330兆ウォン(約23兆円)の予算を使う大韓民国政府が、ソウル江南(カンナム)のマンション1戸の価格で購入できる韓国初の外交公館をこれほど長く放置してきたのは恥ずかしいことだ。
華盛頓公使館は1891年に高宗皇帝が宮中内帑金(王個人の財産)2万5000ドルを投じて設置した。 極めて貧しい朝鮮だったが、隣接列強の中国・日本・ロシアの獲物に転落した危機の中、米国の外交力を引き込むために現実的かつ不可避な投資だった。 しかし高宗皇帝は日清戦争と日露戦争の清算過程で、米国にまたも背信の苦杯を嘗めさせられた。 皇帝は1905年の乙巳条約で日本に外交権を譲って華盛頓公使館を閉鎖し、強制併合された後には駐米日本公使館に5ドルで売られた。 当時の売買契約書に書かれた「日本公使は朝鮮皇帝に5ドルを支払い、朝鮮皇帝は無条件相続財産権に基づき日本公使に不動産を譲渡する」という内容は、あたかも亡びた国の主権の価格が2万5000ドルから5ドルに落ちたという印象を与える。
華盛頓公使館には大韓帝国の苦闘する自主と実用、独立の意志が込められているが、国際政治の力の論理、片思い外交の失敗、亡国の恨が深く染み込んでいる。 華盛頓公使館の帰還は、単に失った100年前の過去の一片を取り戻すというものではない。 自ら国を守れない国民がどれほど残酷な現実に陥るのかを見せる現在の話だ。 最近、韓日中3カ国に押し寄せている民族主義とポピュリズムの荒波は、1世紀前の東アジアの力の角逐を連想させる。 こういう時であるほど信じるべきものは国民の内的な力量しかないという華盛頓公使館の教訓を改めて確認させる。
政府は華盛頓公使館購入を国家、主権の大切さを市民に知らせる一大精神運動の契機としなければならない。 金泳三(キム・ヨンサム)政権が「上海臨時政府」を復元し、金大中(キム・デジュン)政権が白凡記念館を建設して独立精神を高揚させたように、李明博(イ・ミョンバク)政権には華盛頓公使館を米国内の「韓国の独立博物館」のようにし、世界の人々が訪れるところにすることを期待したい。
取り戻した華盛頓公使館、主権回復を完成=韓国 2012年08月25日 (土) 12時43分
歴史の帰還だ。滅びた国の忘れられた建物が生還した。米国の首都ワシントンにある大韓帝国公使館の建物が韓国に戻ってきた。奪われてから102年ぶりだ。22日、韓国政府は米国人所有主と売買契約を締結した。
公使館(現在の大使館)には高宗の自主外交の意志が込められている。渦巻く韓半島情勢の中、外交で国家の危機を打開するという戦略だった。1891年、高宗はホワイトハウス付近に常駐公館建物を購入した。そして朝鮮はワシントン外交街に進入した。
しかし高宗の執念は挫折した。1910年、庚戌国恥の亡国とともに公使館は日本に渡った。そして私たちの歴史から長期間消えた。公使館の帰還は主権回復の完成だ。
韓半島の地政学的な運命は変わらない。韓日中三角葛藤の解決は難しい。29日は庚戌国恥102年。日本との外交対立は深まっている。1世紀前の公使館の悲劇は今の歴史の教訓として存在する。
【噴水台】「駐日公使は残してほしい」 皇帝の哀願が拒否された日、独島も密かに島根県に編入された(1) 2012年08月31日 (金) 15時53分
庚戌国恥日の29日(現地時間)、米ワシントンの旧駐米韓国大使館の内部が韓国の文化財庁調査団に公開された。 亡国102年ぶりだ。 建物の内部の構造がほぼ原形のままというから、安堵と同時にあらゆる感慨がこみ上げてくる。 大朝鮮駐箚米国華盛頓公使館。 むしろ国号の前に「大」の字がなかったとすれば、少しは悲感が和らいでいただろう。 滅びる国の前に「大」の字が付いているため、その不均衡と痛々しさが数倍にも増幅される感じだ。 今の「大」韓民国も実力と知恵が伴わなければ、いつでも一瞬にして虚名に転落する可能性があるという歴史の教訓を骨身にしみて実感する。
元老言論人の洪仁根(ホン・イングン)国際韓国研究院研究委員(77、元東亜日報編集局長)が日本外務省の記録を翻訳して今月15日に出した『大韓帝国の海外公館』によると、日帝が大韓帝国の海外公館閉鎖工作を始めたのは1904年9月6日だった。 駐韓日本公使の林権助はこの日、外相の小村寿太郎に送った長文の機密文書で、「在外韓国公館を閉鎖しなければならず、その前の段階として外交官を召還しよう」と建議した。 外交官に休暇を与える形で帰国させた後、再派遣または後任者派遣をせず、外交業務は日本公館が代わりに処理すれば自然に閉鎖されるという内容だ。 全文には怒りがこみ上げてくる表現がある。 「いくつかの条約国に駐箚している韓国の使臣およびその属僚は、韓帝の虚栄政策によって派遣されたもので、任国で施行すべき使命や国際事務が全くない、ただの無用の長物にすぎない」という部分だ。 大韓帝国の外交官は高宗の虚栄心のため海外に派遣されただけで、実際には使い道もないという意味だ。
日本が大韓帝国外交官召還工作を韓国政府に公式提起したのは5カ月後の1905年2月22日だった。 林公使はこの日、高宗皇帝に会い、韓国の使臣を召還しようと要求した。 高宗は概して同意し、「韓日関係を考慮して駐日公使はずっと残したい」と頼んだ。 林の返事は冷たかった。 「その必要はありません」。
1905年11月17日の乙巳勒約(乙巳条約)締結を契機に、在外公館職員の召還は急速に進んだ。 日帝の「先に召還、後に閉鎖」方針は露骨に「先に閉鎖、後に召還」方針に変わった。 高宗が2万5000ドルで購入したワシントン公使館の建物も1910年に日帝に奪われた。 私たちが最近350万ドルを投じて取り戻したビクトリア様式の建物だ。 痛恨の歴史の教訓を忘れてしまえば、いつでも悲劇が繰り返されるおそれがある。 高宗が「駐日公使は残してほしい」と哀願して拒否された1905年2月22日はどんな日か記憶しているだろうか。 日帝が独島(ドクト、日本名・竹島)を自国の領土だとし、大韓帝国にこっそりと島根県告示をしたちょうどその日だ。 盧在賢(ノ・ジェヒョン)論説委員・文化専門記者
取り戻したワシントン駐米大韓帝国公使館、観光名所に 2013年07月10日 (水) 13時27分
韓日強制併合当時、日帝に強奪され昨年韓国政府が所有することになった米ワシントンDCの駐米大韓帝国公使館が現地住民と観光客に向けた歴史的名所に指定される。 (中略)
その後さまざまな持ち主を転々としながら建物の存在自体は韓国で忘れられた。2005年にパク・ボギュン中央日報大記者が著書『息づく米国史』で公使館の存在を知らせ公使館買い入れのための動きが始まり、文化財庁は昨年10月に350万ドルで建物を買い取った。
17日にはこうした建物の歴史が記された案内板が公使館建物の前に立てられる。ローガンサークルヘリテージトレイル開幕行事と案内板除幕式にはワシントンDC関係者とアン・ホヨン駐米大使、現地住民らが参加する予定だ。この席でワシントン僑民会はこれまで公使館買い入れのために募金した寄付金8万ドルを韓国政府に渡す。
現在は空いている公使館はこの日1日ワシントン市民に特別開放される。国外所在文化財財団は、「2015年の開館を目標に公使館活用に対する議論を継続している。韓米外交史を振り返られる空間として作られるだろう」と話した。
日本に併合されたら外交権がなくなるのは当然の話。それを奪われた!悔しい!という気持ちが伝わってきますが、そもそも高宗が日韓併合の原因みたいなもんでしょ?分かりやすい日韓関係のサイトより
韓国併合と高宗の責任
韓国併合では日本側の責任ばかり非難されている。しかし韓国が併合されなければならなかった真の原因は、高宗のわがままにあったのである。
まず日清戦争に日本が勝って、清に頼れなくなった高宗はロシア大使館に逃げ込んだ。そして鉱山等さまざまな利権をロシアに譲り渡した。その結果、朝鮮の覇権を巡っての日露戦争が始まったのである。
日露戦争の初戦でロシアを制した日本は、1904年8月第一次日韓協約を締結し、外交顧問と財政顧問を送り込んだ。外交顧問は列強にも配慮し、アメリカ人のスチーブンスに委嘱したのである。日本は外交と財政を押さえ、親日的で、健全な政権が出来れば十分だったのである。
当時は台湾での反日活動がようやく終結したばかりであった。台湾の反日活動は激しく、長期にわたった。その処理に手を焼いた日本ではフランスへ売却を真剣に検討したくらいである。従って伊藤博文や、当時の大蔵大臣で後に伊藤の後任として第二代の韓国統監になった曽祢荒助は、韓国の直接統治には絶対反対であった。理由は日露戦争で多額の費用を使ったので、韓国統治につぎ込む金がないということであった。
所が1905年2月韓国皇帝がロシア皇帝に密使を派遣したのである。ロシアとはまだ交戦中であり、明らかな裏切り行為である。その全貌がほぼはっきりした4月、日本は閣議で将来的には韓国に対する保護権を確立することを決定した。
更に6月から8月にかけ次々とアメリカや国際会議への密使の派遣が露見してきた。そこで9月に日本は保護権確立を目指して、列強との根回しに入ったのである。その後もフランス・ロシア・イギリスへの密使の派遣が相次いで露見した。
11月伊藤博文が特使として韓国に派遣され、武力で高宗を脅迫し、第二次日韓協約が締結された。高宗はこの密使事件を追及され、合意せざるを得なかったのである。又この密使事件の存在により、何故武力でこの協約の締結を迫ったかが明確になる。
所がこれに懲りないのが高宗である。1907年6月ハーグの国際会議に際し、又密使を派遣し、日本の暴虐を訴えようとした。日本の暴虐と言うより、自分の思うままに出来ない事への不満である。一般にはこの事件の責任を追及され、日本により退位させられたことになっている。
しかしこの事件に怒ったのは日本だけではなかった。韓国内閣も勝手なことをして貰っては困ると怒ったのである。韓国内閣が、閣議で国王の責任を追及し、退位させたのである。丁度この後の方針について林外相が、閣議の意見を持って伊藤統監と協議するためにソウルへ着き、伊藤との会談に入った直後であった。尚閣議では皇帝の譲位を主張したのは、寺内陸相等少数で、多数は皇帝の譲位には反対であった。この翌日高宗は前日の詔書の意味は退位ではなく、摂政に政務を委ねただけだと言い出した。そこで伊藤は内閣を支援し、高宗を退位に追い込んだのである。 (以下 略)
独自外交というか・・まさにわがまま。
この「大韓帝国公使館」って、"アメリカの建築文化財"という意味以外で何の価値もないような気がするけどぉ、韓国人にとっては相当「意味深い」んでしょうね・・・
関連記事
《韓国KBS「高宗(コジョン)皇帝の従兄弟の子孫が受け継いだ土地を、最高裁が親日財産として没収の判決を下しました」 【ワールドニュースアジア】》2014年5月27日
女子アナ「親日派の要人とされる高宗(コジョン)皇帝の従兄弟の子孫が、
祖先から受け継いだ京畿道(キョンギド)の土地18万㎡に対し、最高裁が親日財産とみなして返還しなければならないとの判決を下しました。」
それにしても「16年間駐米公使館として使用」ってホンマかいな?!
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南・北朝鮮は、43時間に亘る協議で「北朝鮮は地雷の件で『遺憾』表明・韓国は北朝鮮向け拡声器放送を中止」「諸々の案件を継続協議」する事で電撃合意しましたが、
NHK-BS【ワールドニュースアジア】韓国KBSで、
北朝鮮が何故、韓国側の拡声器放送の中止に執着するのか、としてその放送内容を報じていたので記録しました(青字はナレーション)
日本人にはなかなか理解できないけど、この放送が最大の武器となってる意味が少し分かったような気がします。
この一連の会談、「難航・難航・・劇的解決!」の報道でしたが、結果、南は「離散家族面会」「クムガンサン観光再開への道筋」とか勝ち取ったし、いつものマッチポンプですよね
アナ「北朝鮮は北朝鮮内部でも合意会談でも韓国に北朝鮮向けの放送を止めるよう執拗に求めています。北朝鮮は何故スピーカーを通じた放送の中断にここまで執着しているのでしょうか。」
韓国の民謡が北朝鮮に向けて響き渡ります。韓国軍の大型スピーカーから流れているものです。
最近ではビッグバンや少女時代などK-POPスターのヒット曲も紹介されています。
前線地域11箇所に設置された放送施設で1日二度、合わせて8時間の放送を行っています。
天気やサッカーの中継、韓国が発展している様子や、日常生活など、自由民主主義体制の素晴らしさが放送の主な内容です。
大韓民国は指導者をはじめ、コンピューターやスマートフォンまでも輸出してている世界的な経済大国です。
特に脱北者出身のアンカーが伝えるニュースは北朝鮮の体制を批判する内容となっていて北朝鮮の兵士に対して心理的な圧力を加えています。
最近では朴槿恵大統領は中国を3回訪問した一方で、金正恩第一書記はまだ1度も訪問していないという内容が放送されました。
北朝鮮がこの放送の中断に執着せざるを得ないのは当然だと言えるでしょう。以上
拡声器放送って、実は何より一番威力があるようです(苦笑)
特に北としては、金正恩の権威を落とすような放送が一番困る。
「血の同盟の中国に我が国の将軍さまはまだ1度も行ってないのに、南の朴槿恵大統領はもう3回も訪中・・そういう疑惑の気持ちって一度持ったらもう拭えない。
Chinaでの「抗日戦争勝利70年の記念行事」に金正恩じゃなく朴槿恵が行って、習近平・プーチン・朴槿恵の3ショットなんか出ちゃったら建国の建前・正当性が根本から疑われますしね。
北朝鮮なんて引き締めでもってる国だから、それがジワジワ体制崩壊にも繋がる。
それに、ひもじい思いの北朝鮮兵士が南の発展を想像したら「我が国は・・」と思うだろうし、
K-POP聞けば、「いいなぁ」と思うでしょうね。
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・・・基本的には北朝鮮も同じだとは思いますが、韓国は
朝鮮→大韓帝国→併合時代→大韓民国という歴史の事実を認めず、
朝鮮→大韓帝国→臨時政府→大韓民国という「反日(抗日)」の歴史を主張しています。
これがアダになるわけですね。
臨時政府というのは土地の国有化などを掲げた団体であり、どうみても共産主義者たちです。あれを「正しく」受け継いだのがキタとミナミのどちらなのかは一目瞭然。
何度も引用した韓国の憲法前文、そのもっとも初期のものを見ると、大韓民国の建国が1919年になっています。1919年に臨時政府が設立されたからです。
後で無理があると判断したのか、この記述は消え、今では「継承したのは抗日精神だけだ」というスタンスを取っている韓国ですが、今でも
臨時政府の法統(正統性などを受け継ぐという意味)を受け継ぐという記述が残っています。・・
《朴槿恵大統領、「抗日戦争勝利70年の記念行事」出席後、上海・大韓民国臨時政府旧址へ(・・;) 【韓国KBS】 》 2015年08月21日より抜粋
・・しかし習主席の演説直後に軍事パレードが行われる為、朴大統領がこれを観覧する可能性は高いと見られます。
朴大統領は記念行事に出席した後、上海に移動し、4日には大韓民国臨時政府庁舎の改装記念行事に出席する予定です。全面補修工事が行われた臨時政府庁舎が再開館するもので、補修費用の7億ウォンは中国政府が負担しました。・・
そもそも遺憾って「ザンネーン」って意味で、『謝罪』じゃないんだけど・・・
まっ、北朝鮮が「遺憾表明」しただけで、戦闘モードすら解除するんだから、
これからは日本も何を言われても「遺憾でーす」って言っときゃ良いような??
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鬱陸島で見た!~竹島・溝は埋まったか~【TSKスーパーニューススペシャル 】(前編)の文字起こしです (青字はナレーション)
①
(鬱陵島は)朝鮮半島からおよそ130km。慶尚北道(キョンサンブクド)に所属する人口1万人足らずの島だ。
島の大きさは隠岐ドウブのおよそ1/3。この小さな島がここからおよそ90km離れた竹島の問題を調べる上で重要な鍵を握っている。
日本の古文書によると、竹島は江戸時代から日本人が鬱陵島に漁に行く為に中継地として立ち寄っていた。
一方、韓国側は元々竹島は鬱陵島の付属の島だと主張している。
島根県が竹島を編入した1905年から遡ること5年の1900年。大韓帝国は勅令で鬱陵島を郡に昇格させ、行政区域を鬱陵島(ウルルンド)・竹島(チュクド)・石島(ソクド)と定めた。
韓国側研究者はこの石島(ソクド)こそ竹島。韓国名・独島(トクド)だという。
また中世の韓国の文献や地図に登場する于山島を、韓国側はこれも今の独島だとして歴史的にも韓国領であると主張している。
これに対し、島根県の竹島問題研究会は反論している。
竹島問題研究会は、竹島問題をめぐる日韓の主張を整理し分析する為、島根県が去年設置した専門家による研究会だ。
研究会の報告によると、1882年朝鮮国王の命で作られた地図には竹島が登場しないばかりか勅令が出された1900年当時、日韓両国で竹島はリァンクール島などと言われていた。
石島(ソクド)を竹島とするには無理があると言う。
また18世紀に朝鮮王朝が作った地図には所謂于山島と記された島がある。これは位置的に鬱陵島の近くにある竹嶼(ちくしょ)という島の可能性が高いのだ。
これらの説を検証するため、今月、研究会は鬱陵島に向かった。
そこでは調査の成果と同時に、この問題に対する日韓のギャップが見えてきた。
-鬱陵島で見た!- ~竹島・溝は埋まったか~
韓国浦項(ポハン)、鬱陵島への高速船が就航している。
アナ「さて、調査の為に鬱陵島に向かう島根県の竹島問題研究会のメンバーなんですが、今回研究会が注目した島の名前があります。それは于山島。古くから韓国の地図や文献に記述され、鬱陵島とセットで語られていることなどから、韓国はこの于山島が竹島の事だと主張し、竹島が歴史的に韓国の領土であるという根拠にしているんです。
一方、こちらの朝鮮の古い地図。これは18世紀に朝鮮王朝が作成した鬱陵島の地図です。島の周りには多くの岩礁が描かれているんですが、その中のひとつに"所謂于山島"の文字が見えます。
研究会では地図に描かれた他の岩礁との位置関係などから、この島は鬱陵島の近くにある竹嶼(ちくしょ)だと推定しているんです。
そして実際に現地を見て、この地図に描かれた于山島が竹嶼(ちくしょ)だということが判れば、その結果、于山島が竹島でないことになります。
これにより、韓国側の根拠が一つ崩れると考えていて、今回の調査はそれを立証することも目的の一つとなっています。」
下條正男氏「竹島問題発端の地をですね、考査するというのが今回の目的ですし、それによってかなり様々な事実が明らかになると思います。」
浦項(ポハン)のターミナルには鬱陵島から竹島に向かう船のカウンターもある。竹島へは2つの会社が1日3往復運行し、運賃は4000円程度。
韓国が竹島を実効支配している現実を思い知らされる光景だ。
鬱陵島までは高速船で3時間。隠岐~本土間のおよそ3倍の時間がかかる。
(KTFは皆の心を込めて我々の領土独島を守ります・・携帯電話会社の竹島を守る基金の広告)
長い乗船を終え、メンバーは鬱陵島へ上陸した。鬱陵島は漁業と農業の町。
近年は観光にも力を入れている。年間20万人近い人が訪れるが、竹島観光は、観光客を増やす為の起爆剤だ。
竹島行きの待合所では慶尚北道(キョンサンブクド)教育庁の職員組合が竹島に軍隊を駐留させる事を求めシュプレヒコールを上げていた。
イ・チョルヨン委員長「独島は美しい島でした。独島は512年から韓国の領土、日本が領土の主張をする権利はないと思う」(教育長公務員労組)
研究会のメンバーは、鬱陵島を2時間ほどで一周する遊覧船に乗り込んだ。
レポーター「今、遊覧船が動き出しました。これから研究会のメンバーが船の上から視察を始めます。」(カモメが飛び交う・風光明媚な映像)
海上から、鬱陵島や周りにある数多の岩礁の位置と、日韓で描かれた地図とを見比べる。
遊覧船に乗って1時間あまり、竹嶼(ちくしょ)が見えてきた。18世紀の朝鮮王朝の地図に描かれた"所謂于山島"は竹嶼(ちくしょ)の位置にあるのか?
もしそうならば、于山島=竹島だという韓国側の主張に矛盾が生じる。
・・・そして。
舩杉力修氏「所謂于山島って島が描いてあるんですが、これは間違いなく、えーっと今の竹島ではなくて、目の前に見える竹嶼(ちくしさょ)であるという事は、この地図とそれから現在とを見比べても間違いないと思われます。
こっから90km先の東の竹島だ、独島だという主張はもう、まったく(笑)現地を見ても地図を見ても合っていないという事が判ると思います。」(島根大学法文学部助教授・歴史地理学)
また、この日は竹島が描かれていない1882年の地図や江戸時代に描かれた日本の地図も見比べ、いずれも正確に描かれていたことが判った。
下條氏「1882年にですね、李奎遠(リ・ケイエン)って人が王様(高宗)の命令を受けて鬱陵島の調査をしているんですね。その時の地図とですね、引き合わせているんですね。その時には今の竹島をですね、見ていないんですね。そういう意味ではですねぇ、1880年代も韓国側としてはですね、現在の竹島を認識していなかったという事をですねぇ、その地図を見ながら、そしてそれを見て、この様子を見るとですねぇ、ハッキリ確認が出来ました。」(船上)
②
鬱陵島の東南、8000㎡もの敷地にある独島博物館。
およそ10年前、韓国の大手企業(サムスン)が鬱陵島に建設し、今は年間10万人を超える観覧者が訪れる。
館内には韓国側の主張を裏付けるとされる様々な資料が展示されている。
下條教授は入り口に展示してある大きな地図を見て、早速矛盾点を指摘した。
下條氏「・・・だけど、今言ったようにコレ、まったく位置が逆ですから、これは事実を歪曲している。」
一方で、韓国側の研究者は、今回の研究会の調査や主張に対し、疑問や疑念を抱いている。
チェ・チャングン氏「古文献と古い地図からを見るとですね、独島は韓国の領土と解釈されるのが普通なんですね。
で、しかしあの、下條先生は特にですね、竹島問題研究会の中で、特に下條先生はそのー、竹島は日本の領土であることを前提として調査を始めているわけで、解釈も全ての文献もですね、日本の領土であることに解釈をひっくり返ってるんですね。
それで、で、今回の調査もその一環としてですね、その日本の領土であることを前提にしてですね、それを日本の領土の論理を作る為に来たというその意味あいが強いんで、そういう意味で一応懸念というか、相当心配ごとあります。
独島関連の資料はですね、朝鮮東海(日本海)にですね、2つの島があると。その島の距離はですね、天気がいい日にはよく見られる。そういうふうなそういう根拠が、、そういうものがあるんですね。で東海に2つの島があるんで、その1つは鬱陵島であって、もう1つは于山島であると。于山島はどれかということですね。
で、そこで今回、あの、鬱陵島を船で回った時、竹嶼(ちくしょ)という島があって、観音島という島があって、また小さい多くの島がありましてね、竹嶼(ちくしょ)と観音島、あんまり区別出来ない。
ただ鬱陵島の周りの一つの島という感じ。小さい環礁というようなもの、たくさんあるんで、じゃあそれと竹嶼(ちくしょ)と観音島と、あんまりひとつの、こう大きな、島、鬱陵島と対比出来る東海に2つの島があって、1つは鬱陵島でもう1つは于山島であるんですね。
竹嶼(ちくしょ)っていうのは鬱陵島に対比してくるもう一つの島として解釈するのはあまりにも無理、無理ですね。無理ですね。酷い、酷い解釈じゃないかと(笑)思う、、」(大邱大学 専任講師)(全て日本語)
大邱大学のチェ・チャングン専任講師は今年7月、竹島問題研究会に招かれ韓国側の主張を披歴した。
今回、鬱陵島では研究会のメンバーの依頼を受け、案内役を務めている。
チェ・チャングン氏「下條さんをはじめ、その竹島問題研究会がやっているその仕事を見てですね、そのー、研究会の主張もあるわけですね、竹島問題の自分なりの根拠を持ってるし、それを私も知ってですね、えー、また私は、韓国は、韓国はと言うか、まぁ竹島問題の、独島問題の本質ですけどね、本質をそのまぁ探る、そういうふうな立場でですね、その竹島問題研究会の方々の解釈を問題であるとですね、そんなに反論したりする必要があると、それでお互いのですね、研究者が向かい合ってですね、徹底的に議論することで本質が出てくると思うんですね。そういう意味で、やっぱ論議または議論が必要だと思ってるんです。」(日本語)
滞在中はしばしば下條教授と論争する場面があった。
(韓国KBSのテレビ取材中、互いに相手国の言葉、朝鮮語と日本語が飛び交う激しい論争の様子 必死でまくし立てる大邱大学のチェ・チャングン専任講師と笑顔の下條教授)
独島博物館でも・・(まくし立てる韓国人専任講師と冷静な下條教授)
チェ・チャングン氏「アナタのせいでですね、実際、本質、、変に解釈してですね歪曲してるわけですよ!アナタのせいで竹島問題研究会は駄目になってるわけですよ!"#$%&'()」
下條氏「いやだから、正しいことを書いてるだけですよ。」
チェ・チャングン氏「正しい事#$%&'()=」
下條氏「じゃあこれを見て下さい。」
(江戸時代、鬱陵島から日本人を追い出したとするジオラマの前・・・・いるはずのない武士の姿が!)下條氏「こんな事実がありましたか?」
チェ・チャングン氏「アナタ知ってるの?! アナタ、知ってるの?! アナタ?! 知ってるんですかこういうの!」
下條氏「こういうのあり得ないでしょう。」
チェ・チャングン氏「見たことありますか!」
下條氏「見た事・・(笑) 」
こうした韓国側研究者の思いが爆発したのが・・・・
(つづく)
後半、火病により、韓国人研究者発言の書き起こし断念・・
独島博物館内で、于山島と鬱陵島の位置を逆にして展示しているように、
独島博物館のジオラマ江戸時代に鬱陵島にちょんまげ姿のサムライがいたのも完全に捏造です。あり得ません。
また、竹島の認識という点なら、日本には正確な地図等がいろいろあります。
検証するまでもなく、于山島が竹島(独島)のわけがありません。鬱陵島から肉眼で見えるというのも怪しい~(;一一)
韓国人が竹島を領有したと言い張る512年は、日本聖徳太子 韓国高句麗・百済・新羅 の時代・・・そんなの意味ある??
サンフランシスコ講和条約・・竹島について、日本は、国際社会の中でちゃんと手続き踏んでいたから、日本領と認められて、韓国は、異議を唱えたけど戦争取得じゃないから却下されたという簡単な話。
そっちじゃ勝ち目ゼロだから、竹嶼を竹島とすり替え、展示物捏造してまでも(思い込みか勘違いかも)歴史的に領有してたことにしちゃってるからややこしい。
次に出てくる研究者たちも、冷静じゃないし、全然客観的じゃない・・・だめだこりゃ
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昨日の衆議院予算委員会で玄葉大臣が、「竹島は韓国に不法占拠されている」と発言、領有権問題があるという認識を示した。
韓国側は、「容認できない不当な内容が含まれていた」と野田総理の親書を前代未聞の返送→外務省は受け取り拒否 →書留で郵送
野田総理は「どうしちゃったんだろう・・あまりにも冷静さにかける行動」
→総理自ら、今日の夕方、一連の領土問題について会見。
山田教授[親書を送り返すという事は外交上あり得ない暴走。自分の保身の為に、愛国大統領のイメージを必死になって作っているだけ。今こそ冷静に歴史や国際法を見直すべき。](東海大学 海洋学部)
-歴史的には? 法的には? 竹島が日本領であるこれだけの理由-
①竹島の基礎知識
◆そもそも竹島ってどこ?
島根県隠岐の島町 資源・石油と天然ガスは現在のところ発見されず。
山田教授[カニ・アジなどの水産資源が豊富な場所。最近ではメタンハイドレートがあると言われている。]
周辺海域→(1999年~暫定)日韓共同漁業水域という折衷案で日韓双方が漁が出来る。
◆日本の領土になったのはいつ?!
江戸時代、漁の拠点 ・・・鎖国中だったので日本の領土という認識。
明治時代、日本アシカ漁が盛んになったので島根県が竹島を編入して下さいと政府に願い出た。
→政府は調査を行った上で1905年(明治38年)に日本の領土に編入を閣議決定→大韓帝国は抗議せず!
大森教授[領土編入は当時の法令に沿って合法的に行われたもの。](慶應義塾大学)
②竹島不法占拠への道
1910年(明治43年)日韓併合が行われ日韓国境が消滅。領土問題存在せず。
1945年(昭和20年)終戦 1948年(昭和48年)大韓民国成立
1951年(昭和26年)サンフランシスコ講和条約 戦争で得た領土は放棄
その中に竹島は含まれず。(戦争で得た領土ではないのを国際社会が認めた)
尾崎氏「サンフランシスコ講和条約ってのは、極東が共産化しないように連合国がですね。抑えようとしたところで、朝鮮戦争の次の年ですから韓国もこの条約の恩恵を受けているわけですよね。これは当然当時は遵守していたわけですから。」
その翌年、1952年(昭和27年)韓国側は一方的に軍事境界線を引く・・イスンマン(李承晩)ライン
李承晩大統領は日本漁船の侵入も禁止した。更に2年後 竹島領有宣言し不法占拠が続いている。日本漁船に対して容赦なく発砲し、拿捕200隻以上 抑留4000人 死傷44人
山田教授[占領政策が終わり日本がようやく国際社会に復帰した時代。国力も弱く為す術もなかった]
1954(昭和29年)・1962年(昭和37年) 国際司法裁判所提訴→韓国同意せず
1965年(昭和40年) 李承晩ライン廃止(国交樹立)
不法占拠が続いて58年 なぜ不法占拠が続くのか?韓国の主張
主張1.「6世紀から我が国の古文書に記載」
山田教授[古文書が事実である証拠はないし、6世紀の国際情勢を持ち出すことに全く意味がない]
日本 聖徳太子 韓国 高句麗・百済・新羅 の時代
主張2.「日本の竹島編入の時、通達がなかった」
山田教授[国際法的に編入した日本には通告の義務はない。異議があるならその時言うべき]
主張3.「島は戦後に連合軍に返還された」
山田教授[領土の帰属を決める権限など軍隊にはない。重視すべきはサンフランシスコ条約]
今後、日本がやるべき事は?
大森教授「不法占拠が60年以上続く中、反論し続けないと国際法上、時効を宣言される可能性がある。事あるごとに反論する必要がある。」
山田教授「今回の件で韓国は国際常識がない国である印象が広まった。例えばアメリカの新聞に全面広告を打つなど日本の立場を世界に訴える空気作りをすべき。」 以上
ひとつ指摘すると・・日韓共同漁業水域という折衷案で日韓双方が漁が出来る。というのは建前で、実際は暫定水域の中で漁が出来ない状態です。これは、地元では頭を抱える大問題なのです。
で・・、話はちょっとそれるけど、昨日頭に来たことがありました!
テレ朝の【やじうまテレビ】で、コメンテーターの竹田圭吾が「国際司法裁判所に出ても日本が勝てる確率は低い」と言っておりました
山陰ローカルニュースでも、法律の専門家・法学部教授・竹島研究者などに取材していて、この大森教授と同じことを言っていたのに、専門家でもないコメンテーターが「批判を恐れず言えば・・勝てない」とはどういうことー?!
確かに実効支配はされてるけど、ヘリポート・宿泊施設建設などその都度、正式に口上書などで抗議はし続けているのに?! この竹田圭吾は竹島問題の認識も薄いし法律に詳しいとも思えない。何者だよっ?!
なのにテレビで簡単に言っちゃう根拠を出せ!と言いたい!
気を取り直して・・朝ズバッ!のこのコーナー、最近なかなか良い☆
《日韓でここまで違う報道。パニルカムジョン(反日感情)が高まる韓国 【朝ズバッ!】》2012年08月22日
情報7daysニュースキャスターの現地取材も良かった☆
《韓国は何故竹島について興奮するのか?! 徹底した独島教育。韓国の中学校・独島部?! 【情報7daysニュースキャスター】》2012-08-19
劇的に、竹島問題の本質がテレビで取り上げられるようになって、本当にうれしくてしょうがないです
でも、李承晩ラインを引いて漁船に見境なく発砲した韓国の蛮行については、テレビはもっともっと詳しく報道すべき!いつも数字しか言わないもん。
拿捕200隻以上 抑留4000人 死傷44人の部分ですが、悲惨な一例を是非知って下さい。
韓国という国が、いかに凶悪で卑劣かという一つの例です
《報道されない韓国の凶行 日韓条約と李承晩ラインと漁船拿捕(第一大邦丸事件)・漁民殺傷》2012年08月21日
«【竹島 #李承晩ライン】タブー視された竹島の真実を韓国人が語る(韓国警備艇、日本漁船銃撃・拿捕の真相) 【WWUKTV 】»2019年02月25日
これこそ、あの国のトップに土下座して謝罪させるべき。
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NHK-BS【ワールドWave】にて、韓国KBSで今朝伝えた
大韓帝国が竹島を実効支配していた文書発見のニュースを記録しました。
日本の漁師達は竹島でアシカ漁とアワビ獲りをずーっとやってきていたんですよ。
しかも江戸時代には幕府の許可を取って。
「国際的な証拠!」と報じていたけど、「どこが?」と頭おかしくなりそうなニュースです
アナ「大韓帝国の独島(竹島)の実効支配を証明する文書が公開されました。
独島で漁業活動をしていた日本人が大韓帝国に税金を収めたという文書です。」
写真は独島に生息していたアシカです。1900年代初め、日本人の漁民は独島で捕獲したアシカをウルルン島(鬱陵島)で加工して輸出しました。
1902年、大韓帝国内務大臣が鬱陵島と独島を管轄する鬱陵郡に送った文書です。
それには鬱陵島に出入りする全ての貨物・税金をかける内容が示されています。
大韓帝国の行政力が独島にまで及んだ事を示す証拠です。
研究者「日本人が獲ったアシカに対する税金を鬱陵島の郡守に納めていたという事は、独島を日本と見ていたというのではなく、韓国と見ていたという証拠です。
大韓帝国が独島を実効支配していた決定的な証拠は他にもあります。
1900年頃、アワビを追って独島まで来た日本の商人らは、大韓帝国の鬱陵島の地方下に輸出税を出すと約条文書き、署名した商人らの名前も出ています。」
日本の商人等が輸出税を納めた事を記録した日本外務省の文書も発見されました。
日本はこれまで1905年に島根県が編入した事を領有権の根拠としてきました。
しかし、専門家らは、これらの資料がそれよりはるか以前から韓国が実効支配していた事を立証する国際法的な証拠となると評価しています。以上
えーっと、国際法的?な証拠とやらって、どこにありました?
このニュースを普通に日本側から見ると・・竹島は日本なんだから、もし仮に税金取られていたとしたら、文字通り「輸出税?」かなんかと考えます。とにかく貿易でしょ?!
で、このニュースの中の鬱陵島と独島を管轄する鬱陵郡は絶対にウソですあり得ません
竹島で漁をしていたのは日本の漁民だけで、朝鮮人漁民は来させなかったんですから。
アシカ漁の様子です
歴史的に見ても日本の領土です より
そもそも無人島だった鬱陵島に人が住み始めたのは1882年以降です。
日本の江戸幕府の許可を得た隠岐の漁師などが、空島となった鬱陵島へ行き海産物や竹などを採取していたが、このとき朝鮮本土より密漁に来ていた朝鮮人を見つけ日本へ連行、幕府が李氏朝鮮へ抗議する。自国領だとする朝鮮がこれに反発。日朝間で長期間論争が続いたが、17世紀末の徳川5代将軍綱吉の時、日本から渡航させない旨を李氏朝鮮に伝え、日本の漁師達が幕府の許可を得て渡航することはなくなった(竹島一件)。
もっともっと詳細な資料はココ
隠岐から157キロの所に現在の竹島があり、そこからさらに92キロ先に鬱陵島があります。前回述べましたように朝鮮王国がここに人を住まわせない、いわゆる「空島政策」をとりましたので無人島のようでした。島に豊富な産物があることに気づき、ここを目指したのは日本人達でした。具体的な名前でわかる鬱陵島へ行った最初の人は、美保関(現在の島根県松江市美保関町)の馬多三伊[またざい](又左衛門か又蔵のことと思われます)等で、次が米子(現在の鳥取県米子市)の商人大屋(後に大谷と改名)甚吉[おおやじんきち]です。トップ > 総務課 > Web竹島問題研究所 > 調査研究成果・報告 竹島問題研究会 > 実事求是 > 第30回
で、この国際法的証拠?らしい"欝島郡節目"については島根県が反論しています
(凄い長いので、全文はリンク先で見て下さい)
韓国海洋水産開発院は2011年1月3日、「独島・海洋領土ブリーフィング」を通じ、「勅令41号の欝陵島及び管轄区域の統治実態、『欝島郡節目』を発見」と発表した。この「欝島郡節目」は1902年4月、中央政府から欝島郡守の●(ハイ 衣のなべぶたの下に非)季周に対して行政の指針を示したものとされ、それは大韓帝国が独島を実効支配していた証拠なのだという。(中略)「欝島郡節目」では独島に言及していないとしながら、その独島に言及していない「欝島郡節目」を根拠に、どうして「独島を実効支配していたことを示す証拠」とすることが出来るのだろうか。それを敢えて「独島を実効支配していたことを示す証拠」としたのは、「勅令第41号」では、欝島郡の管轄区域を「欝陵全島と竹島、石島」としているため、その石島を今日の独島とする前提で「欝島郡節目」を解釈したからである。
だがこの杜撰な文献解釈とは裏腹に、「欝島郡節目」の発見は、竹島が韓国領でなかったことを示す新たな証拠とすることができる。「勅令第41号」の公布以後、欝島郡に下された「欝島郡節目」に独島に言及した記述がない事実は、逆に欝島郡の行政権が独島にまで及んでいなかった証左にもなるからだ。現に1900年前後の竹島(独島)は「リャンコ島」と呼ばれ、日本領でも大韓帝国領でもない「無主の地」であった。(中略)これらの事実は、欝島郡の行政管轄区域とされる「欝陵全島と竹島、石島」の中に、欝陵島から東南東に90キロ近くも離れた「リャンコ島」は含まれていない、と言うことである。それを「欝島郡節目」を根拠に、「節目に独島に対する直接的な言及はないが、‘欝陵全島と竹島、石島(独島)'を管轄した欝陵郡守に下した行政指針として、大韓帝国が勅令を発布した後にも持続的に欝陵島と独島を実効支配していたことを示す証拠」とするのは、文献を恣意的に解釈した、歴史の捏造でしかない。(中略)
しかし欝陵島の韓人が「リャンコ島」に渡るのは1904年頃からで、アシカ猟をする日本人に雇われたのがきっかけである。(以下 略)
というわけで早い話、《島根県 : Web竹島問題研究所 かえれ島と海》に行けば、韓国側の主張なんて完璧に論破出来るって話。日本の竹島関連の資料って、超膨大でスッゴイんだから!
国際司法裁判所に持って行くのも大変かも~
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