仙崎引揚援護局史

2016年02月23日17:59「奥底の悲しみ ~戦後70年、引揚げ者の記憶~。「特殊婦人・二日市保養所」とは 後半 【NNNドキュメント'16】
前記事 の続きです。二日市保養所とは・・・露助

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日本が35年間植民地として支配した朝鮮半島に、小林さん一家は暮らしていました。

性暴力の被害を何度も目にした小林さんの記憶は自分達が被害者であるという事に留まりません

朝鮮の方っていうのは植民地になった為日本人は第一等皇民って言ったんですよね、ほいで朝鮮の人は第二皇民であると。であとの国民は第三等皇民って言ってね、もう虫けらみたいな扱いだったんですよね。」

多くの差別がありました。配給制度では一等皇民の日本人には米が、二等皇民の朝鮮人には米と雑穀のコーリャンが半々、三等とされた満州人などにはコーリャンだけだったと言います。

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日本語を教育するなど現地の人々を日本人化する為に皇民化政策も進められました。そして敗戦。支配する側に立っていた小林さんは、

棒で叩くんですよ、日本人ちゅうのが分かったら。ちょっと恥ずかしいですけどね、頭叩かれて、、(陥没した所を触らせる)随分叩かれたんですよ、日本人の為に僕らこんな苦労しているこんな貧乏せないけんちゅう事で、殺されるんじゃないかと思うほどね、殴られるんですよ。」

頭の形が変わるほど顔中に傷跡が残るほど、現地の子供から度重なる暴力を受けましたしかしそこで初めて日本がしてきた支配とはどういう事なのか、子供心に考えたのでした。

それはね、僕らが悪い事したんだなってそういう理解ができたんですよ、殴られて初めて。叩かれて初めて。」

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国内最大の引き上げ港、博多。ここにも139万人が上陸しました。

博多港では多くの特殊婦人達が本土上陸を目の前にして命を絶ちました。

金谷美沙子氏「あの、若い女性の方たちがね、海に飛び込んだって話をね、やっとこさ故郷に帰った。でも自分が望んでいない子が宿ってる、、」

望まれなかった小さな命。その命も程なくこの世の中から消えて行きました

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博多から20キロ程離れた二日市では毎年水子供養祭が行われます。法的には許されていない堕胎・中絶が極秘に行われていたのです。

二日市保養所

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人道的立場から女性達を救う為、終戦の翌年、引き揚げ援護をする医師や関係者によって自発的につくられました。

堕胎は違法行為でしたが、国も黙認し協力していました。手術にあたったのは2人の医師と10人の看護婦達です。

報告書によると望まぬ子を宿した妊娠に不法妊娠とし、堕胎は妊娠後期の8か月や9ヶ月になっても行われていました。

手術に立ち会った看護婦の1人に話を聞く事が出来ました。

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青坂寿子さん(90歳)。人助けが信条で72歳まで看護婦を続けました。二日市保養所の堕胎の仕事は本当は断りたかったという青坂さん。これまで多くを語りませんでしたが、90を過ぎた今、これ私の役目と重い口を開いてくれました。

「私達は仕事だからあれだけど、やっぱり引き揚げた人達は強姦されてね、辛い思いして帰ってきた人が、やっぱり故郷にも帰られんで海に飛び込んで死んだ人もおるんですよ。

だけども上陸してね、療養所に運ばれてきた人にね、1日も早く体をきれいにしてね、故郷に帰してあげたい。やっぱり身奇麗になった人達はね、もう喜んでね・・・病院から振り向かずに帰って行ったんですよ。お産もね、臨月に足らない人堕すんだからやっぱり大変だったです。当時は道具もあまりないしね。」

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麻酔なしの手術にみな声も出さず耐えていた。

赤ん坊の泣き声を聞くと母性本能が目覚めるので、声を聞かせないよう幼い命を始末したが、バケツの中で息を吹き返し、泣き声を上げることもあった。

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堕胎の様子をこう証言したのは看護婦の村石正子さんです。

この隠された事実を語り継ぐ活動を続けてきましたが、去年春に亡くなりました。また1人語れる人がいなくなりました。

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二日市の水子供養祭に、毎年欠かさず参列する女性がいます、山本千恵子さん(78歳)。

山本さんが暮らしていたのは北朝鮮北部の町・羅南。

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敗戦が色濃くなると本土へ向けて母親は子供4人を連れて引き揚げ始めました。

しかしソ連兵に捕らえられ引き揚げは途中で断念。ソ連軍の監視下にある収容所での生活が始まりました。その収容所でも・・

マダムダワイって言って入ってくるんですよ、、犯されないように用意をしているんですけど収容所の中にバッと冷たい空気が走ってお姉ちゃん達は奥に走るし、みんなで知らないふりをして庇いながら奥に行って奥の畳を一枚はいでお姉ちゃん達は床下に隠れるわけです。」

収容所の生活は性暴力のみならず飢えや病気寒さとの戦いでもありました。山本さんの母・ふみさんは当時身重でした。その上、収容所の環境は劣悪で疫病が流行り始めます。何よりも食糧不足が深刻でした。当時8歳の山本さんはソ連兵の宿舎に潜り込み、ごみ箱からじゃが芋の皮を拾い集め、下水溝から流れ落ちる米粒を拾いなんとか飢えを凌いだのでした。最初に2歳の弟が亡くなりました。更に母親が死産。その母も3日後に亡くなり子供3人だけが残されたのでした。
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雪の舞う中を、山の、それこそ死者の為に掘られた穴の中に母を葬りに行きました。もうその時はね、涙なんか出ません。当時は本当に極限状態で、弟の時は泣いたんだけど、母の時は泣かなかったなぁと思い出しますねぇ。」「その頃ってのは内地に辿り着くまではもうあの当時で2歳以下、それから65過ぎ・・ってのは皆死んだよ。食べ物も、病気になっても薬もないしね」

母親が性暴力の被害にあった枌谷さん。敗戦翌年の夏、もう二度目の冬は越せないと一家は町を脱出しました。道端の草や泥鮒を食べ逃げるように大陸を彷徨いました。

数ヵ月後、満州の首都・新京へ。遂に母親が動けなくなってしまったのです。子供達を守る為にソ連兵の言いなりになるしかなかった母。引き揚げる間も少ない食料を5人の子供に分け与え自分は衰弱していきました。

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「お袋は着物をたくさん持って逃げたから、それを中国人に物々交換、食料と衣類と・・新京で生き延びたんですよね、でもその時にはお袋は・・新京で栄養失調でなくなったんですよ。・・当時39歳

枌谷さんは幼い頃の自分を抱いた母の写真を二つに折り畳み、靴底に隠して持ち帰りました。今も母の夢を見ます。しかし元気だった頃ではなく亡くなる直前の姿なのです。

「初めは骨と皮に痩せる・・そしたら次は太るんじゃなくて腹水が溜まるんです。・・・体験っていうのは酷いもんですね。根性まで変えてしまう。だから忘れる為に極力明るく明るく振舞ってきた・・・」.

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小林さんは家族に手記を読ませた後、直接自分の口からもう一度伝えました。これでいつの日かこのひ孫にも伝わるだろうと、胸をなでおろしています。,

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北朝鮮で母親を亡くした山本さん。戦時中母は敵国語である英語を勉強していました。戦争が終わったら世界中を飛び回る事が亡き母の夢でした。

山本さんも同じように英語を学び中学校の英語教師を35年間勤め上げました。いま朝鮮語を勉強しています。いつの日か母が眠る北朝鮮の地に手をあわせに行きたいのです

「母が色んな夢を持っていたのを分かって来る度に辛い思いをして、どんなにか無念だっただろうと。母だけじゃなくて戦争で亡くなられた方みんながね、本当に夢を断たれどんなにか無念な思い出なくなられただろうと思うと、もう堪らないですねぇ。」

「笑って生きよう」目の前で妻を連れて行かれた父親の教えです。引き揚げの後、父は貧しくも男手一つで枌谷さんを育て上げてくれました。残りの人生も笑って生きたいと枌谷さんは胸を張ります

この先も語らない人、語らずに亡くなってくなっていく人、きっと大勢いることでしょう。戦争というものが生み出す奥底の悲しみ、その深さを私達はまだ知りません。

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このような悲劇は語り継がなければいけないと思います。

こういう悲劇の上に今の日本の平和があり、全ての先人に感謝しなければいけません。

関係者の高齢化が進んでいるので、こういう証言を元にして取材した番組は凄く良いと思いました。

 で、少し 気になったのが小林茂さんの証言。やはり朝鮮半島の事情って、相当濃淡があると思いました。 

人さし指というのも、6年ほど前、京城帝国大学(ソウル大学の前身)の医学生たちの証言をでは、京城帝国大学はそんな支配的な事は一切なかった様子だったので。

 《衝撃の医学生戦争証言(京城帝国大学編) 前編 【NHK・戦争証言】 》2010年4月26日

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・・当時、京城帝国大学は、朝鮮半島から旧満州、中国へといたる東アジア地域の教育研究の一大拠点を目指していました医学部では、朝鮮半島や大陸の風土病について最先端の教育が行われ、 その附属病院は最新の医療設備が整えられていました。(中略)

・・大村氏「それはもう日本人も朝鮮人も全然区別はないよ。あのー、教授から見ればね、先生から見れば。成績の悪いやつは朝鮮人であろうが日本人であろうが落ちとった(落第)からね。だいたい、日本人の方が落ち取ったよ、たくさん。(笑)優秀だから、エリートが入って入ってきとるから(笑)」 

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キム氏「当時、専門学校生は戦闘帽をかぶり、ゲートルを巻いていた。しかし、私達の大学では(そのような格好を)しなかった。戦闘服を着ず、戦闘帽もかぶらず、ゲートルも巻かずに通学していたので、少し自由がありました。」(韓国語)
医学部を卒業し、戦後アメリカに移住したイ・クワンホウさんです。イさんは卒業後に日本軍の軍医になる事を条件に大学の授業料が免除されていました。
イ氏日本政府が授業料などを払ってくれたので、私は家のお金を全く使わずに医学部を卒業しました。(日本人学生に対して)特に良いとも悪いとも感じませんでした。日本人学生は主にソウル出身でしたが、日本本土から来た学生もいました。彼らに問題を感じる事は無く、級友として接しました。朝鮮人の学生同士のように親しくは付き合いませんでしたが、私の場合、他の人よりも多分、日本人に対して友好的でした。周囲がそれをどう感じたかはわかりません。」(英語)

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村石氏「(最初にやって来た女性は)4、5人だったかね。だからね、あの、それ見たら声が掛けられなかったの。『お帰んなさい』とか何とかって、なんって言って声を掛けようかと思って、、」
吉田氏犯されて、連れ去られて、もうモノ言えない、、、涙も出ない、、『何が起こったの、私?! 私、、、これ何?! これ私?!』っていう様な、、、それぐらいあの、辛い思いして逃げてきたんだなと、、」・・

人さし指人さし指二日市保養所で治療を受けた引揚者の日本女性に強姦による妊娠をさせた相手の男性は

朝鮮人28人、ソ連人8人、中国人6人、アメリカ人3人、台湾人・フィリピン人各1人という記録があります。

この際、「衝撃の医学生戦争証言(京城帝国大学編)」も次に再掲します。

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2016年02月23日14:48「奥底の悲しみ ~戦後70年、引揚げ者の記憶~。「特殊婦人・二日市保養所」とは 前半 【NNNドキュメント'16】

第11回日本放送文化大賞グランプリ・ 民放連賞最優秀をW受賞した

「奥底の悲しみ ~戦後70年、引揚げ者の記憶~/ KRY山口放送という番組の書き起こしをして記録しました露助

番組内容(NNNドキュメント'16)

太平洋戦争の敗戦を機に、本土への引き揚げを余儀なくされたのは軍人だけでなく、 これまで築き上げてきた資産を放棄した、着の身着のままの一般の人々でした。山口県長門市の仙崎港は、全国でも5番目に多い41万人が引揚げた港です。そこで引揚げの援護業務にあたった、厚生省の記録を探ると、私たちは聞き慣れない言葉を見つけました。「特殊婦人」の文字です。それは一体何を意味するのか…私たちの取材が始まりました。全国で最も多くの人が引揚げた博多港、そして佐世保港へと取材を進めるうちに、当事者たちの記憶の奥底には、70年間、家族にも打ち明けられなかった、深い悲しみがあったのでした。

特殊婦人・二日市保養所に関しては、証言だけでなく資料がしっかり残っているので、「朝鮮人慰安婦」の話とは説得力が違います。

本来、人権派の皆さんはこのファクトに対して力を注ぐべきなんですが、人さし指日本女性は名乗り出ない・・その意味も分かります!それにしても「マダムダワイ」のソ連兵は、人間じゃなくて獣・・・

戦争に負けるって悲惨なことです。

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71年前、祖国・日本が負けると大陸に暮らしていた女性達にはどうしようもない事が待っていました。身にはボロ布を纏い、足に履物はなく、見るも無残な姿で日本へ引き揚げてきたのです。 

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日本海を臨む山口県の(長門市)仙崎。この小さな港に、全国で5番目に多い41万人が引揚げました。当時、国が残した引き揚げの記録があります。 

『仙崎引揚援護局史』・・・検疫・医療・物資などについて書かたその中に、私達は聞き慣れない言葉を見つけました。「特殊婦人」です。 

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「特殊婦人」とは・・北朝鮮や満州からの引き揚げ婦女子には現地で暴行を受けた結果、身体に異常をきたしている者がいる

国はそんな女性達を「特殊婦人」と表現していました。港には特殊婦人達の話を聞けるよう相談所が設けられました。『婦人特殊相談所』です。北朝鮮と満州から上陸する特殊婦人の数を月毎に記録していました。

暴行を受けた女性達の相談に乗り、把握しようとしたのは妊娠や性病。相談を受けた女性の5%、500人以上が妊娠または性病を患っていたと記録されています。それが戦争に負けるという事。

「マダムダワイ マダムダワイってね、女くれ女くれって、、」「マダムダワイって言って入ってくるんですよ、、」

「マダムダワイってしますよね、、」「パーンって空に向けて(撃ち)脅かすんですからね、逆らうことできんかった、、」「お母さんの目の前で銃を突きつけられて娘が犯されるっていうのはどういう気持ちだと思いますか、、」

戦争の終わりは女性達にとって、新たな戦いの始まりでした。引き揚げ者の記憶の奥底を見つめました。

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特殊婦人とは・・・私達は引き揚げ者を訪ねました。深澤幸代さん(89)。19の時北朝鮮から引き揚げました。向こうで覚えた朝鮮漬けは今も毎年作ります。

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北朝鮮は寒いっていうか、痛い。私なんか教室にね、ストーブ3つ置いておいて、で学校に行くまでに睫毛が凍るんよ」

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深澤さんは北朝鮮の南部・平壌に程近い鎮南浦(チンナンポ)で育ちました。敗戦から間もなく町の様子は一転します。

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ソ連軍が押し寄せて来たのです。深澤さんの両親は、年頃の娘・幸代さんを2ヶ月間天井裏に隠しました。

男のように頭を剃り、食料は天井の隙間から入れてもらいます。寝るのは細い柱の上、用を足すのは壷の中でした。

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怖いとか何とか通り越してね、どうしたら生きられるだろうかと、、両親がいるから生きにゃならんと思うでしょ。それがゲルマンと戦ってきたもん(ソ連兵)だから一番荒いのが来たの。それを第一に何を目的にするかって言ったら、女性なんです。そうすると私達が一番酷い目に遭ってるわけ、、」

国会の議事録の中に、現地で日本人女性の被害に及ぼすソ連兵に関する記述を見つけました。

ソ連兵は粗野で、一面野獣的な性格を所有し、シベリアの囚人をかり集めて組織されていた

「本当、やられた人たくさんおる、小さい子供ね、1歳2歳の子供????に入れても声がするからダメじゃないですか。友達もたくさんイタズラされた。死んだ人もたくさんいる

(当時はどうしようもなかった?)どーしようない、どーしようもない。それが戦争に負けたっていう事でしょ。日本人が手を出す事、全然出来ないもん。逃げる事が一生懸命、どこが手助け出来ますか、日本から来ることは全然ない。だから私達もクラスの中で1/3は帰ってないから、どういう死に方しているか分かりません。」

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いくつもの国や地域を統治下に置き、領土と勢力圏を広げていった大日本帝国。

新天地での成功を夢見て多くの人々が海外に渡りました。満州などには国策の開拓団として27万人が移り住みました。そして敗戦・・ 

海外に取り残された日本人、その数660万。軍人は武器を捨て、一般人は現地で築いた財産を捨て、皆一斉に本土を目指しました。 

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しかしソ連軍の占領下にあった満州と北朝鮮からの引き揚げは、数ヶ月から1年以上大幅に遅れました

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アナ山口放送では今年に入って引き揚げに関する特集を放送しています。このように多くの方々から貴重な体験記をお寄せ頂いています。本当にありがとうございます。」

引き揚げの体験を聞かせてほしいと、山口県内の視聴者に呼びかけたころ、多くの反響がありました。私達は寄せられた手記を元に取材を進めました。

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敗戦から1年後に北朝鮮から引き揚げた小林茂さん(81歳)

「ああ、戦争に負けたんだなっていうのがね、ハッキリと1人1人の胸にね、叩き突きつけられたっていうかね、、」

小林さんの手記は90ページに及びます。戦後80年にはもう生きていないかもしれないと、前々から少しずつ書き進め、地図などの資料も合わせて作りました。 

「これ、父の転勤したコースなんですけどね、ここでね、球場ってとこですけどね、ここで敗戦になったんです。」

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敗戦当時、小林さんは11歳。父親を戦地へ送り出し、家の中は母と子供達だけでした。

敗戦後すぐに街はソ連軍に占領され、日本人は長屋に押し込められます。その後1年間毎日のようにそこにやってきたソ連兵。

「マダムダワイ」女を出せと大声で喚き、発砲したのです。

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抵抗するものは撃ち殺すんですよ、もうマンドリン銃ゆうて、この位の小銃で、それガーンと撃つんです。そういったのを見てるんですよ。もう全部裸にされるんですよね。そして後ろ向けってな格好なんですよね、だからねぇ、もう犬が盛っているようなカンジのね、まぁ言えば男女間のセックスしてるんですよ。口の中にね、銃を持っとるんですよ。ほいで周りに男性が1人か2人おるんですよ、次の人が待っとる、それで強姦しよるんですよ。

それでこん畜生、体を開かんかったらボンッ、と撃つんですよ、目の前で。ほんでそれを引きずり出して次の、、もうそんな事考えられませんよ、あの状況の中で。(昼の日中でも?) そうです。雪の中でも、道路の中でもそうです。」

恐怖と興味が混ざり合う心で初めは遠くから見ていたという11歳の小林さん。しかし、幾度もその場を目にする内に自分に出来る精一杯の事をするようになったのです。
ソ連兵が去った後、放心状態で動けない女性の為に服を拾い、湯を沸かし、体を拭き・・そんな11歳の記憶を子や孫達にもいつか知ってほしいと手記にしました。書き終えて肩の荷が下りたと言います。

「重かったですねー、それを抱えとるっちゅう事が。だからね、家族にも言えんし、今初めて話すんですけどね、秘密っちゅう事はないけどね、自分のこの負の世界っちゅうのをね、抱えとるっちゅうのはほんっとに厳しかったですね。

で、まさかこういう風にしてね、読んで下さるとは夢にも思わんで、ただ原稿ぼしゅうしてますよって事で出したんだすけどね、だから考えてみましたらしあわせだなぁ、、聞いてくださる方がおられるって事は幸せやったと思ってね。(涙を拭く)ごめんなさい。

だから子供も戦争の後の辛さっていうのはあったんですけどね、子供を持っとる親はまだ辛かったと思うんですよ。無事に連れて帰らにゃいけんしね。」

性暴力から逃れる為に2ヵ月間、天井裏に隠れた深澤さん。

女学校時代をすごした北朝鮮の町・チンナンポからの引き揚げ者と今も交流を続けています。皆当時の記憶は鮮明に残っています。

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マダムダワイ マダムダワイってね、女くれ女くれって、、」

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マダムダワイって言って入ってくるんですよ、、私達は畳を上げて床下に隠れました」

ソ連兵に怯える日々。チンナンポの日本人会の幹部達は悩んだ挙句、特定のの職業の女性達に犠牲になってもらう事に決めたのでした。

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一般の婦女子が危険な目に遭うので、あなた方は済まんけども何とかそういう人達の事を考えて助けてやってくれないかという事で、そういうお姉さん達に頼んだわけです。」

水商売の人がおられて・・・なんか皆からお金を集めてね、申し訳ないけどって言って、まぁ素人の娘がねそういう目に遭うのは可哀想だからっていう風な、、」

敗戦から1年後、集団で町を脱出。しかし引き揚げる道中に女性を要求するソ連兵が待ち伏せていました。その時も・・

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「これ言っていいかどうか・・・いまだに胸が痛みますけど、女の人4人選び出してですね、ロスケ(ソ連兵)に与えたんですよ。そしてその間に私達は移動しました。自分だけ今幸せで居れるって事はねぇ・・・」

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新田浩治さん(78歳)。敗戦の翌年、満州から引き揚げました。暮らしていたのは満州最大の都市・奉天。

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父親は国民学校の校長を務め、3人の女中と2人の運転手を抱える生活でした。

しかし敗戦後、ソ連兵は銃を撃ちながら家の中に押し入り、金目の物は全て奪って行きました。そしてここでも・・・

丁度皆兵隊にとられてますよね、家には子供と奥さんしかおらんでしょう。皆奥さん方は軍服を着てちゃんと戦闘帽子も被っているけど、やっぱ女って分かるじゃないですか。全部トラックに乗せてね強姦しとる訳ですよ。」

新田さんが見ている目の前でソ連兵に連れて行かれた女性達。

近所の家の母親も強姦されました。更に悲劇が起こります。辱めを受けたその母親は子供を道ずれに手榴弾で一家心中をしたのです。

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「うちの隣の隣位だったですけど、ボーーンってったから僕らも走って出たらもうブァーって物凄い爆風でしてね、肉片が飛ぶでしょう。その飛んだの(肉片)を犬が咥えるのを僕は目の当たりに見たんですよ。だからその頃食料ないでしょう、コーリャンとか粟とかカンパンとか芋しかないのに、腹がすいているにも関わらず4日間位メシが食えませんでしたね。」

北朝鮮・鎮南補の町で女性達が身を守る為に覚えさせられたのは自ら命を絶つ事。

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「どうやって死んだらいいかって、死に方を一生懸命習ったんだよ、・・・昔でいう隣組。首のくくり方、ここの頚動脈の切り方、親によってはその青酸カリを持って、、私なんか持ってましたけど、親は最後に死ぬから、最初子供達が死ぬのを見届けて死ぬっていう事を聞かされてたんで、、」

ある集団自決の記録を見つけました。満州からの引揚者の証言です。

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佐世保引揚 援護局 婦人相談所の問診日誌

金品のみならず女性を求めるソ連軍の圧力は日に日に強まりやむなく開拓団の老若男女全員での自決を強行。何も分からない子供達は薬だといって青酸カリを飲まされ、ぐずぐずしている老婆は団長から首を切られ、あたり一面は修羅場と化した。と、その場を脱出した女性は証言しています。この証言記録が残っていたのは、長崎県の佐世保市。ここには139万人もの人が引き揚げました。

佐世保市でも特殊婦人の相談は行われました。15歳から50歳までの女性達、全員に話を聞いたという記録が残っています。

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相談員を務めたのは佐世保友の会の婦人達でした。全国で2万人がいまも活動をする友の会では、70年前の引揚げの事が語り継がれています引き揚げてくる女性達に直接向き合った当時の会員達その1人、故・西村二三子さんの娘が母親のから引き継いで今も活動しています。

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中山興子さん(76歳)。当時、まだ幼かった中山さんは母が毎晩遅くに消毒の匂いをさせて帰ってきた事を憶えています。中山さんの母親達は相談の内容を日々(問診日誌に)書き残していました。

お母さんの目の前で銃を突き付けられて娘が犯されるというのはどういう気持ちだと思いますか。そして赤ちゃんを身ごもって、身ごもった体で日本には帰れないって、島々が見えた時に身を投げたっていう、、それをお母様が淡々と語られる。語られた事を書き表すっていう、、」

悲しみを胸に引揚げてきた特殊婦人達の記録。ソ連兵から要求され、未婚の婦女子47名を出しましたが、それでも足りないので第二班として合計80名を出しました。

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・16歳の女学生が危うく陵辱を受けるところ、見るに見かねて飛び込み身代わりとなりました。

・強引な要求を遂に拒みきれず、とうとう我が娘を出しました。

・皆の見ている目の前で犯されました。

・63歳になる老婆さえ暴行を受けました。

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敗戦翌年の秋、満州から引き揚げました。枌谷勝二さん(79歳)

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笑顔を絶やさない事を信条に生きてきたという枌谷さん。当時暮らしていたのは北朝鮮との国境に近い龍井(リュウセイ)町は、敗戦とほぼ同時にソ連軍に占領されました。

銀行マンだった父とよく気がつく母、二人の姉と弟。枌谷さんは当時9歳でした。ソ連兵による性暴力は占領後すぐに始まりました。

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「(占領した)ソ連兵は囚人兵で最低の兵隊だった。『ロスケロスケ』って言いよったけど、女は犯す、本当に惨めなもんだったんですよね。一番上の姉が女学校3年生、姉も坊主にして男装して、、姉は小さい方だったからだから姉は犯されずにすんだんですよね。子供だと思ったんだろうね。

姉は無事でした。しかし枌谷さんの母・とし子さんは夫の目の前でソ連兵に連れて行かれたのです。

パーンっと空に向けて(撃ち)脅かすんですからね、逆らうことできんかった、、だからね、仕方がないですよ、親父は自分の女房を連れて行かれるからそれはもう死ぬような思いだったでしょう。男連中は(女性が)ポンポンポンポン車に乗せられるのを見とるんですからね。そしてら『イヤー』ちようた。かえって男の方が泣きながら、(敗戦したんだから命までは取られんからと説得した)そりゃ辛かっただろうと思うねぇ。女房を連れて行かれるのはそりゃただ事じゃないねぇ・・」(奥さんが「思い出すのもイヤって言ってたのにとうとう言ったね」と)

長くなったのでつづく・・後半は、二日市保養所に関する証言・などです。