マンザナ強制収容所
BS朝日 【いま世界は】 (11/29)の<ima-ペディア>で、
「大統領自由勲章」を、日系アメリカ人の故ミノル・ヤスイ氏が受賞した事を取り上げていたので記録しました(青字はナレーション)
「アメリカの強制収容所と日本人差別」を語る時、442部隊(第442連隊戦闘団)の事は欠かせませんが、
この、日本人差別と戦った日系アメリカ人ミノル・ヤスイさんの事を知らなかった・・・
女子アナ「大統領自由勲章、毎年アメリカの民間人に贈られる最高位の勲章なんですが、アメリカの民主主義や自由への貢献、芸術やスポーツなどの偉業をたたえる勲章で、24日に授与式が行われました。
そこで映画監督のスティーブンスピルバーグなどに混じり1人の日系人の名が呼ばれました。」ミノルヤスイ、日系2世の弁護士で、第2次世界大戦中、アメリカに住むおよそ12万人の日系アメリカ人が強制収容所に送られる中、日系人の夜間外出禁止令に抗議し投獄されました。そして戦後も、日系人強制収容所は不当であると訴え続けました。
オバマ大統領「日系アメリカ人への疑い、敵対、立ち退きと収容に耐え、ヤスイ氏は祖国アメリカを信じるこ事を止めませんでした。すべての市民の平等と正義の為に闘ったのです。」
1986年に亡くなったヤスイ弁護士に代わり、授与式には娘のローリエ・ヤスイさんが出席しました。
今回は映画監督のスティーブンスピルバーグさん、女優のバーブラストライサンドなど17人が勲章を授与されました。
女子アナ「日系アメリカ人への差別的な扱いを糾弾し続けたミノル・ヤスイ氏の姿勢や理念は移民や難民問題がクローズアップれている現在の状況に一石を投じるものではないでしょうか。」
(スタジオトークはやや要約)
木佐氏「うーん、なんかうれしいですね。」
手嶋龍一氏「そうですよね、日系アメリカ人の強制収容ってのはアメリカ史の中の最大の汚点と言われている。日系ではあるが現にアメリカ市民なのに、それを法の下での平等を踏みにじって強制収容した。
保守派のレーガン大統領が素晴らしい謝罪演説をしたが、アメリカは再び過ちを繰り返さないという事でメダルを贈った。素晴らしいですよね。」以上
この「大統領自由勲章」の受賞は素晴らしいですね☆
でもそれを、「移民や難民問題がクローズアップれている現在の状況に一石を投じるもの」というのはなんだかなぁ。
だってこの強制収容は、日系とはいえ自国民を弾圧したもので、まさに黄色人種の日本人だけを狙い撃ち・強制連行した典型的な人種差別行為なので、移民・難民問題と関連付けるのはこじつけだと思います。で、レーガンの謝罪というのは
・・・1988年8月10日、レーガン大統領は「1988年市民の自由法(通称、日系アメリカ人補償法)」に署名し、アメリカ政府は初めて公式に日系アメリカ人に謝罪し、署名した日に生存している被強制収容者全員に対してそれぞれ2万ドルの補償金を支払った。同時に、二度と同じ過ちを繰り返さないよう、日系アメリカ人の強制収容所体験を全米の学校で教えるため、12億5,000万ドルの教育基金が設立された。
日系アメリカ人の差別との戦いです
《アメリカの日本系人の「(マンザナ)強制収容所」の記憶。アメリカは歴史に向き合っている 【NEWS23】》2015年05月26日より一部抜粋
1941年12月、米国との戦争が始まった。
戦争がアメリカに住む日系人の生活を一変させた。
日本人の蔑称"ジャップ"という文字が街に溢れ、
およそ12万人の日系人が軍事的な理由からマンザナのような内陸地の収容所に送られる事となった。
6割以上がアメリカの市民権を持つ二世だったにも関わらず。(中略)
・・アメリカ政府が公式に謝罪したのは1988年。
人種差別や戦時ヒステリーなどが原因と認め、1人あたり2万ドルの補償を行った。
マンザナ収容所跡地は国定史跡に指定され、繰り返してはならないアメリカの人種差別を象徴する場所になっている。
ウィルバー・サトウさん「私達は今もアメリカに残る。人種差別を乗り越えなければならない。黒人の扱われ方から分かるように差別はまだ存在するのです。」
去年12月、白人警官が黒人少年を射殺
人種差別問題をめぐり今なお米国では衝突が起きている。
差別の生き証人である元収容者たちは高齢化。自らの体験が語ることが難しくなっている。
アメリカ政府は今年2月、地獄谷と呼ばれたハワイの(ホノウリウリ)強制収容所跡地を新たに国定史跡に指定した。
自由と平等を謳う国で起きた差別。戦後70年の今年どう向き合うのか。 日系人の体験は問いかけている。
(中略)・・というように、「アメリカの強制収容所と人種差別」の話で、「442部隊」を語らないのは片手落ちだと思います。
それにしても、いきなり米兵が日系人の家に来て収容所に連行して行く・・・まさにこれが本当の強制連行ですよね。在米日系人はアメリカに「愛国心」を持っていたにも関わらず、です。
それでも在米日系部隊は、アメリカ合衆国の為に本当に勇敢に戦いました。
そしてアメリカ政府の謝罪を寛容な心で受け入れた日系人だからこそ「模範的マイノリティー」として賞賛されているんだと思います
どっかの「権利だけ」叫ぶマイノリティーとエライ違いだ。
大事な事なので繰り返します
どっかの「権利だけ」叫ぶマイノリティーとエライ違いだ!
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TBSテレビ 【NEWS23】(5/25)の<戦後70年企画・千の証言>で、
米国・日系人「強制収容所」の記憶・父も姉も兄も「ここで死んだ」と題し、アメリカ強制収容所の件を取り上げていたので記録しました(青字はナレーション)
「アメリカの強制収容所と日本人差別」を語る時、442部隊(第442連隊戦闘団)の事も合わせてきちんと語らないのは物凄い中途半端なんだけど・・やはり意図的なんでしょうねぇ。
膳場氏「今回は第二次世界大戦中、アメリカ政府によって実施された日本人の強制収容です。
記憶の風化が懸念される中、アメリカ政府は収容所跡地を国定史跡に指定するなど歴史に向き合っていく姿勢を打ち出しています。」
70年前と変わらない風が吹いている。日系二世のボ・サカグチさん。かつてここで暮らしていた。
ボ・サカグチさん「約5年前、初めてここに来た時は・・・"ナミダ"が出ました。」
鉄条網と監視塔に囲まれた青春時代だった。
ボ・サカグチさん「みんな変わってしまいました。暮らした家もありません。木も大きくなりました。」
アメリカ・カリフォルニア州のマンザナ収容所跡地。1万人以上の日系人が強制収容された場所だ。
跡地には今も日本語の文字が残っている。
先月25日、開かれた慰霊祭には元収容者らおよそ1000人が訪れた。
1941年12月、米国との戦争が始まった。
戦争がアメリカに住む日系人の生活を一変させた。
日本人の蔑称"ジャップ"という文字が街に溢れ、
およそ12万人の日系人が軍事的な理由からマンザナのような内陸地の収容所に送られる事となった。
6割以上がアメリカの市民権を持つ二世だったにも関わらず。
サカグチさんは16歳から2年間、家族と共に強制収容所での生活を余儀なくされた。
風や埃が酷く寒暖の差も激しい収容所の過酷な環境の中、父親と姉、そして兄が亡くなった。
ボ・サカグチさん「今でもアメリカ政府には怒りがあります。ただその時は皆『シカタガナイ』と言っていました。」
毎年、慰霊祭に参加しているウィルバー・サトウさん、今でも当時の辛い記憶が蘇るという。
ウィルバー・サトウさん「日系人はアメリカへの愛国心に溢れていました。アメリカの一部でした。それが突然否定されたのです。」
自分の国にアイデンティティーを否定される屈辱。
更にアメリカ政府は1943年、17歳以上の全ての収容者に、いわゆる”忠誠質問”を実施した。
-天皇陛下や他の外国への忠誠を破棄するか。命令されれば軍の徴兵に応じるか-
8割以上の人が両方Yesと答え、そうした人を中心に多くの日系人が徴兵され日系人部隊も編制された。送られた先は激戦地ヨーロッパの最前線。
マサオ・カドタ「日系であろうが私たちはアメリカ国民で日本人が日本のために戦うように、米国のために戦いアメリカ国民だと証明しなければならなかった」(日系人部隊に徴兵)両方Noと答えた人は不忠誠組とされ管理が厳しい僻地の収容所へ送られた。また徴兵を拒否すれば裁判にかけられ刑務所へ収監された。
アメリカ政府が公式に謝罪したのは1988年。
人種差別や戦時ヒステリーなどが原因と認め、1人あたり2万ドルの補償を行った。
マンザナ収容所跡地は国定史跡に指定され、繰り返してはならないアメリカの人種差別を象徴する場所になっている。
ウィルバー・サトウさん「私達は今もアメリカに残る。人種差別を乗り越えなければならない。黒人の扱われ方から分かるように差別はまだ存在するのです。」
去年12月、白人警官が黒人少年を射殺
人種差別問題をめぐり今なお米国では衝突が起きている。
差別の生き証人である元収容者たちは高齢化。自らの体験が語ることが難しくなっている。
アメリカ政府は今年2月、地獄谷と呼ばれたハワイの(ホノウリウリ)強制収容所跡地を新たに国定史跡に指定した。
自由と平等を謳う国で起きた差別。戦後70年の今年どう向き合うのか。 日系人の体験は問いかけている。
(VTR終了 スタジオへ)
(「冒頭で"日本人"の強制収容と言ったのは"日系アメリカ人"の誤りだった」と謝罪。「それにしても戦争は不条理だ」と膳場氏)
岸井氏「そうですよねー。ほんっとに悲惨なんですよね。日系アメリカ人に対する強制収容について、アメリカ政府としては人種差別だという事を認めて公式に謝罪したんですねー。
まっ、戦争中ってこうした差別的な事が各国であったんです。日本でもあったんですよねー。ですから戦後70年という節目の今年はね、しっかりとそこは向き合っていかなきゃいけないなと改めて思いますね。
(時間が経ち過ぎているからもう謝らなくて良いというものでもないんだなと・・:膳場氏) ないですね、はい。いつまで経ってもね、そこはしっかり。」以上
「時間が経ち過ぎているからもう謝らなくて良いというものでもない」「いつまで経っても」と膳場氏と岸井氏は言ってるけど、その主語は”日本政府”ですかね?(苦笑)
で、戦争中だから敵国系の人を監視するのはアリなんだけど、日本人だけは黄色人種として完全に人種差別されていました。
近年、アメリカの強制収容所の事がクローズアップされてドラマ化もされたけど、442部隊なくして現在のアメリカでの日本人の立ち位置は絶対に語れません
・・・その際にアメリカ政府は、アメリカ国内の日系人社会の動向を、黄色人種に対する人種差別的感情を背景に(実際に同じく敵国であったドイツ系やイタリア系アメリカ人については、大がかりな強制収容は行われなかった)不安視していたことなどから、1942年2月以降に、アメリカ西海岸に居住していた日系人と日本人移民約12万人は、ほとんどの財産を没収された上で全米に散らばる強制収容所に強制収容された。
日系人で編成された442部隊は、その勇敢さでアメリカで最も多くの勲章を受けた部隊としても知られ、特にヨーロッパの激戦での大活躍は後々の評価に繋がる訳ですが・・・
テキサス大隊の211名を救出するために、第442連隊戦闘団の216人が戦死し、600人以上が手足を失う等の重傷を負った。
それでも、日系人が評価されたのはずっと後の話で
442連隊が強制収容所の被収容者を含む日系アメリカ人のみによって構成され、ヨーロッパ戦線で大戦時のアメリカ陸軍部隊として最高の殊勲を上げたことに対して、1946年にトルーマン大統領は、「諸君は敵のみならず偏見とも戦い勝利した。(You fought not only the enemy, you fought prejudice-and you won.)」と讃えている[9]。
しかし勇戦もむなしく、戦後も日系人への人種差別に基づく偏見はなかなか変わらなかった。部隊の解散後、アメリカの故郷へ復員した兵士たちも、白人住民から「ジャップを許すな」「ジャップおことわり」といった敵視・蔑視に晒され[10]、仕事につくこともできず財産や家も失われたままの状態に置かれた。
やがて1960年代になると、アメリカ国内における人権意識、公民権運動の高まりの中で、日系人はにわかに「模範的マイノリティー」として賞賛されるようになる。(中略)
2010年10月にオバマ大統領は、442連隊戦闘団と陸軍情報部に、アメリカ合衆国において最高位の勲章である議会名誉黄金勲章を授与する法案に署名した[11]。現在のアメリカ陸軍では、442連隊戦闘団の歴史を学ぶ授業は必修課程となっている。
勇敢だった442部隊の働きで、アメリカでの日本人の評価が変わったのは歴史的事実。
ダニエル・イノウエさんの功績もそれを証明してますよね。
ダニエル・ケン・“ダン”・イノウエ(Daniel Ken "Dan" Inouye、1924年9月7日 - 2012年12月17日)は、アメリカ合衆国の政治家。元アメリカ陸軍将校、上院議員、上院仮議長。日本名は井上 建(いのうえ けん)。
1963年から50年近くにわたって上院議員に在任していた長老議員であり、上院民主党の重鎮議員の1人であった。2010年6月28日に最古参であったロバート・バード上院議員が死去したことで、上院で最も古参の議員となり、またこれに伴い慣例に沿うかたちで上院仮議長に選出、亡くなるまで同職にあった。上院仮議長は実質名誉職ではあるものの、大統領継承順位第3位の高位であり、アメリカの歴史上アジア系アメリカ人が得た地位としては最上位のものとなる。また第二次世界大戦時はアメリカ陸軍に従軍し、数多くの栄誉を受けた。アメリカ陸軍での最終階級は陸軍大尉。
というように、「アメリカの強制収容所と人種差別」の話で、「442部隊」を語らないのは片手落ちだと思います。
それにしても、いきなり米兵が日系人の家に来て収容所に連行して行く・・・まさにこれが本当の強制連行ですよね。在米日系人はアメリカに「愛国心」を持っていたにも関わらず、です。
それでも在米日系部隊は、アメリカ合衆国の為に本当に勇敢に戦いました。
そしてアメリカ政府の謝罪を寛容な心で受け入れた日系人だからこそ「模範的マイノリティー」として賞賛されているんだと思います どっかの「権利だけ」叫ぶマイノリティーとエライ違いだ。
全米が賞賛した故ダニエル・イノウエ上院議員の生涯
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