要するに、中国人が直接関与せず、外国人を利用した情報戦だ。外形的に客観性を持たせることで、抜群の説得力を有することになる。第2次世界大戦後、中国では共産党と国民党が内戦をし、共産党が勝利したが、情報戦の巧妙さは変わっていない。尖閣諸島や歴史問題などで、日本を追い詰めようとしている。
このような中国に、日本はどう対処すべきか。
まずは世界に真実を伝えなければならない。日本の立場が理解されないのは、効果的な発信をしていないからだ。中国は日本が反論しないことに、プロパガンダを多用してきた。中国に勝る情報戦略を練り上げ、世界各国で広報活動を展開しなければならない。
安倍晋三政権になって、国際広報費用が増額されたが、省庁HPへの掲載や国際会議での主張だけでは不十分だ。海外のメディアやオピニオンリーダーを味方につけ、日本の立場を代弁してもらうことだ。専門知識を持つ広告代理店に依頼するのもいい。米国にはそうしたことに長けた会社はいくらでもある。
日本人はいまだに、連合国がでっち上げた「戦勝国」史観の呪いから抜け出せていない。日本人自ら、この呪縛を断ち切らねばならない。日本人が本気になれば、すべてはうまくいく。私はそう信じている。 (構成・安積明子)
■ヘンリー・S・ストークス 1938年、英国生まれ。61年、オックスフォード大学修士課程修了後、62年に英紙『フィナンシャル・タイムズ』入社。64年、東京支局初代支局長に着任する。以後、英紙『タイムズ』や、米紙『ニューヨーク・タイムズ』の東京支局長を歴任。著書に「英国人記者が見た 連合国戦勝史観の虚妄」(祥伝社新書)、共著に「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」(同)など。
ヘンリー・S・ストークス
今年の終戦の日に、NHK-BS【ワールドニュースアジア】中国CCTVにおいて、
Chinaの声明を発表していたので記録しました
何言ってんだか!?って感じですが・・
アナ「8月15日は心に刻み、永遠に忘れてはいけない日です。69年前のこの日、日本が無条件降伏を宣言し、人類の歴史の中で長く続いた第二次世界大戦が終わりを告げました。
日本の侵略者は自ら撒いた種を刈る事になったのです。
女子アナ「日本の無条件降伏はファシストの枢軸国の全滅を表し、中国の全民族による抗戦及び、世界の反ファシスト戦争が最終勝利を収めた事を世界に知らせました。
人類の運命に関わる正義と邪悪の対決において、中国人民と世界の平和を愛する全ての国と人々は、侵略戦争や抑圧に英雄的に抵抗し、人類の歴史に決して消えることのない偉大な勲功を刻みました。」以上
日中戦争が第二次世界大戦に吸収されて戦勝国・・。その頃、Chinaでは内戦が激しかったって、
【たかじんNOマネー】で、周来友が言っていた なぁ。自国民同士で殺しあっていたんじゃないの!?
歴史ってちょっと見方を変えると、全然違うものが見えてきます
《中国政府が「南京事件」・「(従軍)慰安婦」を記録遺産に申請! 過去、欧米記者を操った情報戦とは 【TBSニュースバード】》2014年06月11日より一部抜粋
・・政治的意図アリアリですよねぇ
そもそも、「南京事件」も「慰安婦問題」も、欧米の記者を利用した捏造・プロパガンダ
【目覚めよ日本】欧米記者を操った中国 「南京大虐殺」以降も変わらぬ情報戦の巧妙さ (1/2ページ) 2014.04.16
中国については、韓国と同じように考えてはならない。いずれも地理的に離れることができない隣国だが、その規模がまったく違う。中国は12億人の人口を抱え、GDP(国内総生産)世界第2位の大国である。そして、戦前から、非常に巧妙な情報戦を展開している。「南京大虐殺」は一つの例だ。
南京大虐殺は、蒋介石率いる中国国民党政府が作り上げた壮大なプロパガンダである。中国の情報機関が背後で暗躍し、欧米のジャーナリストを駆使して、巧みに国際世論を誘導した。
「南京大虐殺」を最初に報道したのは、南京にいた『ニューヨーク・タイムズ』と『シカゴ・デイリー・ニューズ』の外国特派員だ。彼らの情報源となったのは、米国人宣教師で、国民党政府顧問でもあったBである。Bは国民党中央宣伝部の計画に従って、虚構の報告を書いたとされる。
また、英紙『マンチェスター・ガーディアン』中国特派員のTが、南京陥落について『戦争とは何か』という本を書き、ロンドンとニューヨークで出版した。内容は中央宣伝部が作り上げたものだが、英国人や米国人は、まさか西洋人がウソを書くとは思わず、内容の残酷さに震撼(しんかん)した。
Tの素性については、中国社会科学院の『近代来華外国人人名事典』に、こう記されている。
「盧溝橋事件後に国民党政府により欧米に派遣され宣伝工作に従事、続いて国民党中央宣伝部顧問に就任した」
つまり、中国が公的に認める「スパイ」だったわけである。
《元ニューヨークタイムズ東京支局長、ヘンリー・ストークス氏「河野談話はプロパガンダに利用」&「日本はアジアの希望の光」 【新報道2001】》より一部抜粋
2013年11月6日 憲政記念館にて
大東亜会議70周年記念大会 ⑦ ヘンリー・ストークス「日本はアジアの希望の光だ」
(元ニューヨークタイムズ東京支局長で、三島由紀夫と深い親交があり、日本の歴史や文化について極めて客観的な立場から正当な評価を与えてこられた方という紹介のあと・・)
皆様、こんばんは。ヘンリー・ストークスです。
このシンポジウムは1943年の11月5日、6日に東京で開催された大東亜会議の70周年を記念して開催されております。
このような歴史的な瞬間を皆様と共にできることをたいへん光栄に存じます。
20世紀で最も驚くべき展開は、500年続いた植民地支配、その禍が終焉を迎えたことにあります。白人による支配が霧散してしまいました。誰もがまったく予想しなかったことです。
1930年代末に「インドの独立はいつになるか」と問われたネルーは、「70年代には実現するかもしれない」と答えました。つまりそれは、「私の亡き後に」という意味です。
ところが1940年代初頭には、インド人たちの間に独立の気運が突如として高まりました。
なぜ独立の気運が高まったのでしょうか。答えは簡単です。
第二次大戦が勃発し白人の植民地支配500年のドラマに出現した新興勢力が、白人の植民地支配に痛烈な打撃を与えたからです。その新興勢力こそ、日本でした。
インド独立のタイムテーブルは、ネルーの「70年代に達成できるかもしれない」というものから、一気に第二次世界大戦の終焉時へと短縮されたのです。ここで、歴史の時間を20世紀から17世紀初頭まで少しもどしてみましょう。
インドでは、イギリスが1600年に東インド会社を設立し、植民地支配に着手しました。イギリスはマドラス(1637年)、ボンベイ(1661年) 、カルカッタ(1690年)に東インド会社を進出させました。
イギリスの侵略は、プラッシーの戦い(1764年)、マイソール戦争(1799年)、シーク戦争(1845年)と続き、1957年から59年にかけては、反イギリス民族闘争で 有名な「セポイの乱」が起こりました。
こうしてイギリスがインドを抑圧支配する中で、1868年、日本で明治維新が起こりました。ほぼ同じころに、インドでは独立のために戦った歴史的な人物が生まれています。
1869年にはマハトマ・ガンジーが生まれ、1897年には、チャンドラ・ボースが誕生しています。
1877年、イギリスが直接インド全土を統治するインド帝国が成立し、ビクトリア女王が「インド皇帝」として即位しました。
つまり、ボースはイギリスのインド植民地支配の絶頂期に誕生したのです。
ボースは今でもインドで「ネタージ」と呼ばれています。
ネタージとは「偉大な指導者」という意味です。
日本の支援を得て、ボースはINAを結成しました。
Indian National Army インド国民軍です。非暴力主義でイギリスの植民地支配と戦ったガンジーと 対照的に、ボースは司令官として戦闘を率いました。
1943年5月16日、ボースは来日し、嶋田海軍大臣、永野軍令部総長、重光外務大臣などと面会し、
その上で、東條英機首相と会談しました。
ボースは日比谷公会堂で講演しました。
そのメッセージは当時のアジアの人々の気持ちを代弁していました。「私が小学校に通い始めた頃に、アジア人の国が世界の巨人・白人帝国のロシアと戦いました。」
「このアジアの国はロシアを大敗させました。 そしてその国こそが、日本だったのです。」
「このニュースがインド全土に伝わると、興奮の波がインド全土を覆いました。」
「インドのいたるところで、旅順攻撃や、奉天大会戦、 日本海海戦の勇壮な話が、沸き立っていました。」
「インドの子供たちは、東郷元帥や乃木大将を素直に慕いました。」
「親たちが競って、元帥や大将の写真を手に入れようとしましたが、できませんでした。」「その代わりに市場から日本製の品物を買ってきて、 家に飾りました。」
ボースは「日本はアジアの希望の光です。」とハッキリ語っています。
ボースはこう続けます。「このたび日本はインドの仇敵のイギリスに宣戦しました。」
「日本はインド人に、独立のための千載一遇の機会を与えてくれました。
われわれはそのことを自覚し、心から日本に感謝しています。」「ひと度この機会を逃せば、今後100年以上にわたりこのような機会が訪れることはないでしょう。」
「勝利はわれわれのものであり、インドが念願の独立を果たすと確信しています。」
重要なのは、言葉より行動でした。
ビクトリア女王が「インド帝国」皇帝に即位して66年目にあたる1943年10月、自由インド仮政府が樹立されました。シンガポールでの大会で、ボースは満場の拍手をもって、仮政府首班に推挙されました。
ボースは「チャロ・デリー」 つまり「デリーへ!」と、 進撃を宣言し、人々はその メッセージを掲げて行進 しました。
祖国インドへ向けた歴史的な進撃の開始でした。
インド国民軍INAの将兵は日本軍とともに、インド・ビルマ国境を越え、インパールを目指し「チャロ・デ リー!」と雄叫びをあげ、進撃しました。
「われらの国旗を、レッド・フォートに掲げよ」そう言ってボースは将兵たちを激励しました。
自由インド仮政府は、日本とともに、イギリス、アメリカに対して宣戦布告をしました。
同年(1943年)11月5日より6日間にわたって、東京で大東亜会議が開催されました。これは人類の長い歴史において「有色人種によって行われた最初のサミット」となりました。
東條首相、満州国の張景恵国務総理、中国南京政権の汪兆銘行政院長、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバー・モウ首相、タイのピブン首相代理であるワイワイタヤコン殿下の首脳が一堂に会し、ボースはインド代表を務めました。
今日、日本の多くの学者が大東亜会議は日本軍部が「占領地の傀儡」を集めて行った国内向け宣伝だったと唱えています。しかし、そのようなことを言う日本人こそ、日本の魂を売る外国の傀儡というべきです。
会議では大東亜共同宣言が満場一致で採択されました。
ボースは「この宣言がアジア諸国民のみならず、全世界の被抑圧民族のための憲章としようではないか」と訴えました。
ボースは、日本は「全世界の有色民族の希望の光だ」と宣言しました。
この500年の世界史は、白人の欧米キリスト教諸国が、有色民族の国々を植民地支配した壮大なドラマでした。そのなかにあって、日本は前例のない国でした。
第一次世界大戦の後のパリ講和会議で、日本は人種差別の撤廃を提案したのです。
会議では各国首脳が、国際連盟の創設を含めた大戦後の国際体制づくりについて協議しました。
人種差別撤廃提案が提出されると、白豪主義のオーストラリアのヒューズ首相は、「署名を拒否して帰国する」と言って退室しました。
議長であるアメリカのウィルソン大統領は「本件は平静に 取り扱うべき問題だ」と、日本に提案の撤回を求めました。
日本で外務大臣も務めた日本代表団の牧野伸顕男爵は、ウィルソン議長に従わず採決を求めました。イギリス、アメリカ、ポーランド、ブラジル、ルーマニアなどが反対しましたが、出席16カ国中11カ国の小国が 賛成し、圧倒的多数で可決されました。
あろうことかウィルソン大統領は「全会一致でない」として、この採決を無効としました。
牧野は多数決採択を求めましたが、議長のウィルソン大統領は「本件のごとき重大な案件は従来から全会一致、少なくとも反対者なきによって議事を進める」と採択を無視したのでした。
人種差別撤廃提案が11対5の圧倒的多数で可決したにもかかわらず、ウィルソン大統領はこの議決を葬ったのです。今日の文明世界ではありえないことです。いまアメリカの大統領は黒人ですが、そのようなことは当時は全く考えら れないことでした。
日本人も白人ではなく有色民族です。
同じ有色民族として誇りある日本人は白人の植民地支配を看過することができ なかったのです。
ここでインドネシアについても触れておきましょう。
インドネシアの植民地支配は、1596年にオランダが艦隊をインドネシアに派遣したことに始まります。
オランダの350年以上に及ぶ植民地支配に終止符が打たれたのは、1942年の日本軍の進攻によるものでした。
オランダ軍は、わずか7日で降伏してしまいました。
インドネシアには、「白馬に跨る英雄が率いる神兵がやってきて、インドネシアの独立を援けてくれるという伝説」がありました。
日本軍の進攻は、伝説の神兵の到来を思わせました。
日本兵は、神話の軍隊であったのです。
ジョージ・カナヘレは「日本軍政とインドネシア独立」という著書で、次の4点を掲げています。1. オランダ語、英語の使用を禁止。これにより公用語としてインドネシア語が普及した。
2. インドネシア青年に軍事訓練を施した。これにより青年が厳しい規律や忍耐、勇猛心を植え付けられた。
3. オランダ人を一掃し、インドネシア人に高い地位を与え能力と責任感を身につけさせた。
4. ジャワにプートラ(民族結集組織)やホーコーカイ(奉公会)の本部を置き、全国に支部を作り、組織運営の方法を教えた。
日本は第二次大戦でアジアの国々を侵略したとされますが、どうして侵略する国が、侵略された国の青年に軍事教練を施すのでしょうか?
彼らの精神力を鍛え、高い地位を与え、民族が結集する組織を全国につくり、近代組織の経営方法を教えることがありますか?
この事実は、侵略したのが日本でなかったことを証明しています。日本はアジアの国々を独立させるために、あらゆる努力を 惜しまなかったのです。では一体、どこからの独立でしょうか?
もちろん、アジアの国々を侵略していた白人諸国の植民地支配からの独立です。
ジャカルタの中心にムルデカ広場があります。
ムルデカはインドネシア語で「独立」を意味します。独立の英雄ハッタとスカルノの像とともに高さ37メートルの独立記念塔が立っています。
地下1階には、独立宣言の実物が納められています。
ハッタとスカルノが直筆でサインをしています。
そこに独立の日が「17-8-‘05」とハッキリ書かれています。17-8は8月17日の独立の日を示していますが、‘05、05年とはどういう意味でしょうか?
インドネシア人はイスラム教徒ですからイスラム暦ですが、これはイスラム暦ではありません。ましてやキリスト暦でもありません。
では05年とは、いったい何暦でしょう?実は’05年は、日本の「皇紀」なのです。
1945年は、日本の「皇紀」では2605年にあたるのです。
初代の天皇である神武天皇が即位して建国をした時から数えた年です。ハッタとスカルノは日本に感謝して皇紀を採用したのです。
インドネシア独立の生みの親は日本だったのです。だから二人はインドネシアの独立宣言の独立の日を日本の「天皇の暦」によって祝福したのでした。
皆さん、こうした西欧の500年に及ぶ植民地支配は、世界中で広く認知されたことであります。私たちは今日、植民地支配の禍の終焉をこうしてここに集い祝福しています。
日本は「日いづる国」です。真に自由なアジアを求めるみなさんで、手を取り合ってゆきましょう。 民主的なアジアの連帯を実現する重要な役割を、日本が果たすことを願っています。
日がまた昇ることを祈りつつ、本日の私の話を締め括ら せて頂きます。
ご清聴ありがとうございました。Henry S. Stokes以上大東亜会議に参加した各国首脳。左からバー・モウ、張景恵、汪兆銘、東條英機、ナラーティップポンプラパン、ホセ・ラウレル、スバス・チャンドラ・ボース
このイギリス人ジャーナリスト、ヘンリー・S・ストークス氏こそ本物のジャーナリストです☆
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