フィリピン亡命政府
日本の3つの迎賓館の知られざる物語に迫る。「日本を支えた『迎賓館』物語」としてやっていた中、
かつてあった奈良ホテルの「フィリピン亡命政府」に関する、フィリピン在日大使の証言を書き起こして記録しました(青字はナレーション)
大使の父・ラウレル3世のサムライ姿の写真もだけど、「大東亜会議」の写真が画面に出て来たのにビックリー
きらびやかな設えが目を引く迎賓館赤坂離宮。その中で最も格式が高い朝日の間は、賓客に両陛下が最後のお見送りを行う部屋。その象徴となっているのが桜柄の絨毯で、国賓をもてなす際にのみ広げられる代物だ。日本発の西洋式宮殿でもある迎賓館赤坂離宮は宮殿建築の技法と最新技術を組み合わせたかつてない建築物。また、「西の迎賓館」と呼ばれた奈良ホテルにはかつてフィリピン亡命政府があったことも。そして、最後は2005年に完成した京都迎賓館。今回はこの3つの迎賓館の物語を探る。
(迎賓館赤坂離宮1974年に迎賓館として使われるようになったという事はそれまでは?!
奈良市にある奈良ホテルは「西の迎賓館」と称され、その設計は東京駅や日本銀行本店を手掛けた辰野金吾(片山東熊の同期)。外観は純和風だが、その内装は西洋ホテル風。こうした和洋折衷になったのは奈良の景観によくマッチするようにとの配慮で、建設当時、外国人観光客が急増し、内装は外国人利用客が過ごしやすいように造られた。一方で日本人の宿泊客はその内装に戸惑うことも多く、高浜虚子は著作で洋式便所を初めて使用した際の驚きの感想を詳細に記している。
外国人宿泊客への配慮が行き届いた奈良ホテルに政府は迎賓館としての役割も求め、宿泊客の中にはエドワード8世や愛新覚羅溥儀、リチャード・ニクソン、ハイレ・セラシエ1世、ジャワハルラール・ネルーなど各国の王族や国家元首・要人、
アインシュタイン・チャップリン、ヘレン・ケラー、オードリ・ヘップバーンなどの有名人も。そして、戦時下には奈良ホテルでフィリピン亡命政府があった時代が!その真相とは?)
奈良ホテルに置かれていた亡命政府とは一体?!
詳しいお話を教えて下さるのは、フィリピン駐日大使のホセ・ラウレル5世さん。大使が早速見せてくれた物は・・奈良ホテルに滞在していた、当時のフィリピン大統領の家族とその閣僚たちの写真。
大使「これが私です。私の祖父は当時フィリピン大統領だったんですよ」
太平洋戦争時、日本占領下にあったフィリピン。ホセ・ラウレル大統領は早期独立の為、日本軍の命令に従っていた。しかし、敗色が濃厚になってくるとラウレル大統領達にも命の危険が。そこで日本軍の要請でフィリピンを脱出。
大使「私達は運が良かった。同じようにビルマの政府も日本に亡命しようとしたが途中撃墜されてしまった。」
安全を期す為、少しずつ移動し、日本に到着したのは8ヶ月後。
大使「当時私は1歳だったから奈良ホテルで過ごした記憶はほとんどありません。しかし奈良ホテルのスタッフ達は本当に良くしてくれたと聞いています。」
奈良ホテル顧問・辻利幸氏「ラウレル一家、だからご家族の小さいお子さんもいらっしゃいますから、そういうお子さんを例えば抱っこしてあやしたりとか、もう本当にね、本当の親身になって親みたいな感じでね、子供さんの相手をしていたというのはもう何篇も(当時働いていたスタッフが)言ってましたね。」
赤ん坊だった大使を通して奈良ホテルスタッフと交流を重ねた大使の父・ラウレル3世は日本人への思い入れが強まったと言います。
「(Q.これサムライ?!) いえ、これは私の父です」
ラウレル3世は終戦後、フィリピン駐日大使となり日本の懸け橋になるべく活躍した。
更には日本語学校を開設。その絆を深めていった。
フィリピンと日本の友好、その最初のきっかけとなった奈良ホテルには、当時の繋がりを忘れないようラウレル大統領の胸像が今も残っています。
(クイズ「暖炉を囲っている日本的なものとは?」。正解は鳥居。)サムライ姿のラウレル3世にはビックリしました☆
亡命政府への日本の心遣い、アジア独立の為に日本が尽力していた証拠ですよね。
「大東亜会議」の写真に写っていたチャンドラボースの墓も日本にありますし
«チャンドラ・ボースの遺骨が日本に!(・・;) 「祖国に帰れず70年・日本に眠るインド人秘話」 【未来世紀ジパング】»2016年03月29日では、「大東亜会議」とは何か本当に日本軍部が「占領地の傀儡」を集めて行った国内向け宣伝だったのかという事で、
・・実はこの蓮光寺、インドの歴史に埋もれたある人物の遺骨が眠っている。
チャンドラボース。第二次大戦中、インド独立を目指し、宗主国イギリスに少数のインド人部隊で戦いを挑んだ男だ。・・
元NYT記者の「日本はアジアの希望の光」「日本が侵略国家じゃなかった」という講演を紹介します(かなり端折っているけど、重要な話なので是非元記事も読んでください!)
«元ニューヨークタイムズ東京支局長、ヘンリー・ストークス氏「河野談話はプロパガンダに利用」&「日本はアジアの希望の光」 【新報道2001】»皆様、こんばんは。ヘンリー・ストークスです。
このシンポジウムは1943年の11月5日、6日に東京で開催された大東亜会議の70周年を記念して開催されております。
このような歴史的な瞬間を皆様と共にできることをたいへん光栄に存じます。
20世紀で最も驚くべき展開は、500年続いた植民地支配、その禍が終焉を迎えたことにあります。(中略)・・ところが1940年代初頭には、インド人たちの間に独立の気運が突如として高まりました。なぜ独立の気運が高まったのでしょうか。答えは簡単です。
第二次大戦が勃発し白人の植民地支配500年のドラマに出現した新興勢力が、白人の植民地支配に痛烈な打撃を与えたからです。
その新興勢力こそ、日本でした。(中略)・・こうしてイギリスがインドを抑圧支配する中で、1868年、日本で明治維新が起こりました。ほぼ同じころに、インドでは独立のために戦った歴史的な人物が生まれています。
1869年にはマハトマ・ガンジーが生まれ、1897年には、チャンドラ・ボースが誕生しています。(中略)
日本の支援を得て、ボースはINAを結成しました。Indian National Army インド国民軍です。
非暴力主義でイギリスの植民地支配と戦ったガンジーと 対照的に、ボースは司令官として戦闘を率いました。1943年5月16日、ボースは来日し、嶋田海軍大臣、永野軍令部総長、重光外務大臣などと面会し、
その上で、東條英機首相と会談しました。
ボースは日比谷公会堂で講演しました。そのメッセージは当時のアジアの人々の気持ちを代弁していました。
「私が小学校に通い始めた頃に、アジア人の国が世界の巨人・白人帝国のロシアと戦いました。」
「このアジアの国はロシアを大敗させました。 そしてその国こそが、日本だったのです。」
「このニュースがインド全土に伝わると、興奮の波がインド全土を覆いました。」
「インドのいたるところで、旅順攻撃や、奉天大会戦、 日本海海戦の勇壮な話が、沸き立っていました。」
「インドの子供たちは、東郷元帥や乃木大将を素直に慕いました。」
「親たちが競って、元帥や大将の写真を手に入れようとしましたが、できませんでした。」「その代わりに市場から日本製の品物を買ってきて、 家に飾りました。」
ボースは「日本はアジアの希望の光です。」とハッキリ語っています。
ボースはこう続けます。「このたび日本はインドの仇敵のイギリスに宣戦しました。」
「日本はインド人に、独立のための千載一遇の機会を与えてくれました。
われわれはそのことを自覚し、心から日本に感謝しています。」(中略)重要なのは、言葉より行動でした。ビクトリア女王が「インド帝国」皇帝に即位して66年目にあたる1943年10月、自由インド仮政府が樹立されました。
シンガポールでの大会で、ボースは満場の拍手をもって、仮政府首班に推挙されました。
「われらの国旗を、レッド・フォートに掲げよ」そう言ってボースは将兵たちを激励しました。
自由インド仮政府は、日本とともに、イギリス、アメリカに対して宣戦布告をしました。
同年(1943年)11月5日より6日間にわたって、東京で大東亜会議が開催されました。これは人類の長い歴史において「有色人種によって行われた最初のサミット」となりました。
東條首相、満州国の張景恵国務総理、中国南京政権の汪兆銘行政院長、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバー・モウ首相、タイのピブン首相代理であるワイワイタヤコン殿下の首脳が一堂に会し、ボースはインド代表を務めました。
今日、日本の多くの学者が大東亜会議は日本軍部が「占領地の傀儡」を集めて行った国内向け宣伝だったと唱えています。しかし、そのようなことを言う日本人こそ、日本の魂を売る外国の傀儡というべきです。
会議では大東亜共同宣言が満場一致で採択されました。
ボースは「この宣言がアジア諸国民のみならず、全世界の被抑圧民族のための憲章としようではないか」と訴えました。
ボースは、日本は「全世界の有色民族の希望の光だ」と宣言しました。この500年の世界史は、白人の欧米キリスト教諸国が、有色民族の国々を植民地支配した壮大なドラマでした。
そのなかにあって、日本は前例のない国でした。
第一次世界大戦の後のパリ講和会議で、日本は人種差別の撤廃を提案したのです。
会議では各国首脳が、国際連盟の創設を含めた大戦後の国際体制づくりについて協議しました。
人種差別撤廃提案が提出されると、白豪主義のオーストラリアのヒューズ首相は、「署名を拒否して帰国する」と言って退室しました。
議長であるアメリカのウィルソン大統領は「本件は平静に 取り扱うべき問題だ」と、日本に提案の撤回を求めました。
日本で外務大臣も務めた日本代表団の牧野伸顕男爵は、ウィルソン議長に従わず採決を求めました。イギリス、アメリカ、ポーランド、ブラジル、ルーマニアなどが反対しましたが、出席16カ国中11カ国の小国が 賛成し、圧倒的多数で可決されました。
あろうことかウィルソン大統領は「全会一致でない」として、この採決を無効としました。
牧野は多数決採択を求めましたが、議長のウィルソン大統領は「本件のごとき重大な案件は従来から全会一致、少なくとも反対者なきによって議事を進める」と採択を無視したのでした。
人種差別撤廃提案が11対5の圧倒的多数で可決したにもかかわらず、ウィルソン大統領はこの議決を葬ったのです。(中略)・・同じ有色民族として誇りある日本人は白人の植民地支配を看過することができ なかったのです。
ここでインドネシアについても触れておきましょう。
インドネシアの植民地支配は、1596年にオランダが艦隊をインドネシアに派遣したことに始まります。
オランダの350年以上に及ぶ植民地支配に終止符が打たれたのは、1942年の日本軍の進攻によるものでした。オランダ軍は、わずか7日で降伏してしまいました。
インドネシアには、「白馬に跨る英雄が率いる神兵がやってきて、インドネシアの独立を援けてくれるという伝説」がありました。
日本軍の進攻は、伝説の神兵の到来を思わせました。日本兵は、神話の軍隊であったのです。
ジョージ・カナヘレは「日本軍政とインドネシア独立」という著書で、次の4点を掲げています。(中略)日本は第二次大戦でアジアの国々を侵略したとされますが、どうして侵略する国が、侵略された国の青年に軍事教練を施すのでしょうか?
彼らの精神力を鍛え、高い地位を与え、民族が結集する組織を全国につくり、近代組織の経営方法を教えることがありますか?
この事実は、侵略したのが日本でなかったことを証明しています。日本はアジアの国々を独立させるために、あらゆる努力を 惜しまなかったのです。では一体、どこからの独立でしょうか?
もちろん、アジアの国々を侵略していた白人諸国の植民地支配からの独立です。ジャカルタの中心にムルデカ広場があります。ムルデカはインドネシア語で「独立」を意味します。
・・インドネシア人はイスラム教徒ですからイスラム暦ですが、これはイスラム暦ではありません。ましてやキリスト暦でもありません。では05年とは、いったい何暦でしょう?
実は’05年は、日本の「皇紀」なのです。
1945年は、日本の「皇紀」では2605年にあたるのです。
初代の天皇である神武天皇が即位して建国をした時から数えた年です。ハッタとスカルノは日本に感謝して皇紀を採用したのです。
インドネシア独立の生みの親は日本だったのです。(中略)日本は「日いづる国」です。真に自由なアジアを求めるみなさんで、手を取り合ってゆきましょう。 民主的なアジアの連帯を実現する重要な役割を、日本が果たすことを願っています。
大東亜会議に参加した各国首脳。左からバー・モウ、張景恵、汪兆銘、東條英機、ナラーティップポンプラパン、ホセ・ラウレル、スバス・チャンドラ・ボース
日がまた昇ることを祈りつつ、本日の私の話を締め括ら せて頂きます。
ご清聴ありがとうございました。 Henry S. Stokes 以上
«天皇・皇后両陛下、54年ぶりフィリピンの訪問。「”日いづる国”の天皇として再びの訪問です」【フィリピンABS-CBN】»2016年01月27日天皇・皇后両陛下の訪問を大歓迎するフィリピンを見れば、どっかの国のように日本に対する悪感情がないのが分かります。
フィリピン・マニラ市内の独立記念日ポスター。日本は白人からの解放をもたらしたと讃えられる。
この番組の「フィリピン亡命政府の話」も、覚醒のきっかけになれば良いなと思いました。
「日本がアジア諸国を侵略した」という洗脳からいい加減目覚めましょう。
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