ソ連兵
火曜特集「今こそ歴史に学ぶ ロシア指導者の残酷史」の中で、ヨシフ・スターリンの部分だけ記録しました(メモです)
自国民を抑圧し、多くのウクライナの人達を餓死させ、第二次世界大戦終了後、日本人にも悲劇が…
ウクライナを、家族で人肉を食べ合うまでの凄まじい飢餓状態にしたスターリン
1930年代のウクライナ
— さくらにゃん(テレビにだまされないぞぉ) (@KGJw0W5vmqDE8qG) April 26, 2022
ソ連時代のホロドモール(ヨシフ・スターリン下の人為的大飢饉)の過酷すぎる歴史
「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」#ホロドモール #虎8 pic.twitter.com/TVbC6aXLKk
日本人をシベリアへ強制連行し、強制労働をさせた
もちろんソ連は許し難いけど、このシベリア強制連行・強制労働に関し、日本の左派議員のロクデナシ度合いが酷すぎる
野溝勝と戸叶里子はクズ中のクズ(社会党左派の議員のみハバロフスクの戦犯収容所への訪問がソ連側から許可された。野溝はこの視察団の団長)日本側の対応 「引き揚げ」を参照
1945年(昭和20年)11月になって日本政府は関東軍の軍人がシベリアに連行され強制労働をさせられているという情報を得る。1946年(昭和21年)5月、日本政府はアメリカを通じてソ連との交渉を開始し、同年12月19日、ようやく「ソ連地区引揚に関する米ソ暫定協定」が成立した。
1952年(昭和27年)に緑風会の高良とみが収容所を訪問した。このとき健康な者は営外作業に出され、重症患者は別の病院に移されるなどの収容所側による工作が行われ、高良の「他の収容者はどうしたのか」との問いに対し、所長は「日曜日なのでみな魚釣りか町へ映画を見に行った」と平然と応えている[47]。
1955年(昭和30年)に当時ソ連と親しい関係にあった社会党左派の国会議員らによる収容所の視察が行われた。視察はすべてソ連側が準備したもので、「ソ連は抑留者を人道的に扱っている」と宣伝するためのものであったが、調理場の鍋にあったカーシャを味見した戸叶里子衆議院議員は思わず「こんな臭い粥を、毎日食べておられるのですか」と漏らしたという。・・
戸叶・野溝両議員は帰途香港で記者会見を行い、「戦犯"たちの待遇は決して悪くはないという印象を受けた。一日八時間労働で日曜は休日となっている。食料は一日米三百グラムとパンが配給されており、肉、野菜、魚などの副食物も適当に配給されているようで、栄養の点は気が配られているようだった」と、視察で知った事実とは異なる内容を語った[4]。
視察団は日本人抑留者から家族への手紙を託されていた。同時に、国民や議員に宛て、同胞への仕打ちに憤慨してソ連将校を斧の峰で殴り営倉に入れられた仲間の釈放のための外交努力と、収容所の窮状を訴えるとともに、将来の日本の国策のためならば、祖国のためにこの地に骨を朽ちさせても悔いはないとする収容者らの決意を認めた7通の手紙も手渡されていた。しかし、社会党議員らはこれら7通の手紙を握りつぶし、議員団団長である北村徳太郎への報告もしなかった。抑留者らが帰国後に新聞へ投書したことから虚偽が発覚し、野溝らは海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会で追及を受けている[5][6]。
≪「知の巨人」渡部昇一氏の日韓関係問題・戦中戦後の話。若き日(ドイツ留学時)の韓国の神父とのバトルなどエピソード。そして提言。≫あと、ソ連兵は粗暴で野獣的だったという引揚者の証言●社会党と在日の関係の話 ・戦後の在日の横暴と社会党
渡部氏「村山さんは社会党ですよね。社会党には恨みみたいなもの解せないものある。社会党は日本が独立する為のサンフランシスコ講和条約に反対したが、その責任を取ってない。共産党が賛成しなかったのはスターリンの命令だが。
僕の仮説は過激すぎるかも知れないが、当時の社会党は日本が占領され続ける事を望んでいた。一番それを望んでいたのは在日だ!当時在日は闇(闇市)をやっても捕まらない。東京-山形まで満員の満員だったが、満員の方は闇だと取り上げるが、在日のいる所(車両)は3、4人で日本人、警官すら入れない。しかも在日達は当時社会党の大きな財源だった。社会党の人達はその辺を反省してから出直せと。独立反対でまだ謝っていない。(その在日はどうして日本に連れて来られたのではという話になるのでは?:反町) いやいやいやとんでもない。それは国会でも問題になった。朝鮮人も日本人だったので、戦争終盤、徴用令があった。徴兵令は兵隊へ、徴用令は工場に行く。戦後アメリカは徴用令の人は船を用意してすぐに帰した。ところが帰りたくなかった人(恐らく闇で儲けていた人)がいて、議会では残ったのが245人かな?、当時、僕も色々言っていたから朝鮮の人が押しかけてきたり、カミソリの刃・血染めの抗議書を送ってきたりされたが、会って『いつ来たか!?』と言えばオワリ。・・
スターリンの野望、日本侵略
「とっとと降伏しろ」派の人は、ロシア・ソ連が周辺国にやってきた蛮行をもっと「知る」べきだと思います。でないと、野溝勝と戸叶里子と同類だよ!≪【シリアのブッチャー・虐殺者】(クラスター爆弾、化学兵器で)民間人を標的にし、街を破壊した、ロシア軍新指揮官・ドボルニコフ【週刊ワールドニュース】≫2022年04月17日
・・ソ連時代も「スターリンが欲しかったのは不凍港の釧路。記録では北半分とされているが、あわよくば北海道全島を占領しようとしたのだろう」というのもあったし、一部のアイヌの動きがプーチンによる「解放」を呼び込む恐れも「スターリンの野望」北海道占領を阻止した男 2019/01/27もしも、この時樋口季一郎中将が戦う決断をしなかったら・・・・😱
・・だが、ソ連の最高指導者だったヨシフ・スターリン(1878~1953)が最初に目指した「第二次世界大戦の結果」は、北方4島ではなく、北海道の北半分だった。南樺太と千島列島でソ連軍と対峙 した第5方面軍司令官、樋口季一郎(1888~1970)中将の決断がなければ、スターリンの北海道占領の野望は実現していた可能性が高い・・
とにかく、ソ連・ロシアってそういう「赤い闇の国」だと日本人は肝に銘じないと、今後大変な事になるかと・・
腹の立つ話だったので、口直しの話を1つ。、旧日本兵捕虜が建設に携わった有名な「ナボイ劇場」(ナヴォイ劇場)
捕虜になっても立派で尊敬された先人のお蔭さまで、いまの日本の発展があるんですよね。
心から感謝します☆
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ロシア軍兵士によるウクライナ人女性へのレイプの被害者の証言を直接聞き、レイプなどの証拠・証言を収集している人権オンブズマンにも取材していたので記録しました(青字はナレーション)
「性的暴行」なんていう言葉で済ませれるもんじゃないその蛮行を書き起こして胸が痛くなりました。
終戦後、大陸でソ連兵が日本人女性にやっていた事と一緒!ケダモノの所業!
記者「ロシア軍がウクライナ東部に進軍する中、北部の首都キーウ近くにある町や村でのおぞましい事件が明らかになっています。現在こうした地域では戦争犯罪の証拠集めが行われています。ロシア兵による性的暴行を取材する事が出来ました。ロシアによるウクライナへの軍事侵攻がもたらした苦痛をお伝えする事が重要と判断しました。
それでは被害者を取材したリポートをご覧頂きます。尚、一部生々しい表現があるのでご注意ください。」
郊外にある閑静な住宅地が、野蛮な暴力で筆舌に尽くし難い苦痛を味わいました。首都キーフの西部にある村で、ロシア兵による暴行を被害者から直接聞く事が出来ました。取材当初は話の内容を予想する事は出来ませんでした。身の安全を守る為、女性の顔は放送できません。被害者はこのように話しています。
「ロシア兵が家に入ってきました。私は夫と居たんです。銃口を向けられ近所の家に連れて行かれました。『服を脱がないと撃つ』と言われました。そして暴行(レイプ)を受けました。その間、他の兵士4人が入ってきました。もう駄目だと思いましたが、4人はその兵士を連行していきました。自宅に戻ると夫は腹部を撃たれていました。2日後亡くなりました。そして裏庭に埋葬しました。
ロシア兵が残していった麻薬とアルコールを見つけました。興奮し酔っていました。兵士の大半は殺人者で暴行や略奪を犯します。マトモな兵士は極一握りに過ぎません」
「ロシアのプーチン大統領に、何故このような事が起こるのか聞きたいんです。私には分かりません。石器時代に生きているわけではありませんから」
少し離れた所で別の暴行事件に気づくことが出来ました。現在警察が捜査を行っています。これが女性が連れて行かれ、暴行を受けた住宅です。二階には寝室があり、女性はそこで殺害されました。
現場は衝撃的でした。鏡には 『見知らぬ人々から拷問され、ロシア兵に埋められた』と口紅で書いたメッセージがありました。
女性は裏庭に埋められ、取材の翌日ウクライナ警察が遺体を掘り起こしました。遺体を見つけてここに埋めたのは別のロシア部隊で、書置きを残していったという事です。
近所に住むスブレンカさんは、亡くなった女性の話を聞きました。
「性的暴行を受けた上、首に刺し傷があり、大量の出血があったという事です」
更に110km東の別の村に向かいました。ある家族が住んでいた所です。
残骸の中には、30代の夫婦と幼い子供の穏やかで普通の生活の跡が残っていました。
3月9日、ロシアの戦車部隊がこの村を襲い、兵士2人が夫を射殺しました。妻は子供を連れて逃げ出し、ウクライナ警察に告発しました。
記者「妻は夫を殺した酔いどれの兵士2人に、『言う事を聞かなければ子供を殺す』と脅され、何度も性的暴行を受けたという事です。兵士らは去り際に家に放火しました。話を聞いた警察署長は国際裁判所への訴追の為、証拠を集めたと言っています。」
(スタジオトークはやや要約)
キーウではウクライナの人権オンブズマンに会いました。デニソワさんは性的暴行の実態の記録をしています。
リュドミラ・デニソワ氏「ブチャをロシア軍が占拠した時に、民家の地下で女性25人が性的暴行被害に遭いました。被害者の年齢は14歳から24歳で9人が妊娠しました。別の25歳の女性は、16歳の妹が目の前の路上で暴行されたと告発しました。全てが通報されているわけではないのでこうした事件を全て知るのは不可能です。話したがらない人もいます。」
ロシア兵が去っても恐怖は残っています。人生を取り戻せない程、台無しにされた人々がいるからです。 以上
レイプされたウクライナ人女性の心のケアも必要だと思います。あと、堕胎手術も。
『プーチン大統領のような人が戦争を始めれば、女性と子供が追いやられ、傷つきレイプされ死んでいく。ウクライナの女性と子供に起きていることはおぞましく理解を超えている』
アメリカのトーマス・グリーン・フィールド国連大使は11日開かれた国連安全保障理事会で強い言葉でロシアを非難した。会合では、避難民の約9割が女性と子供で、性的暴行や人身売買のリスクが高まっている事も指摘された。女性と子供をこの異様な状況から救い出す為にも一刻も早い停戦が求められている。
同じような事が80年近く前、日本人女性の身にもありました
≪「奥底の悲しみ ~戦後70年、引揚げ者の記憶~。「特殊婦人・二日市保養所」とは 後半 【NNNドキュメント'16】≫2016年02月23日
このような日本人女性は「特殊婦人」と呼ばれ、その女性を保護した「二日市保養所」は証言・資料証拠も残っている事実です。・・博多から20キロ程離れた二日市では毎年水子供養祭が行われます。法的には許されていない堕胎・中絶が極秘に行われていたのです。二日市保養所
人道的立場から女性達を救う為、終戦の翌年、引き揚げ援護をする医師や関係者によって自発的につくられました。堕胎は違法行為でしたが、国も黙認し協力していました。手術にあたったのは2人の医師と10人の看護婦達です。
報告書によると望まぬ子を宿した妊娠に不法妊娠とし、堕胎は妊娠後期の8か月や9ヶ月になっても行われていました。手術に立ち会った看護婦の1人に話を聞く事が出来ました。
青坂寿子さん(90歳)。人助けが信条で72歳まで看護婦を続けました。二日市保養所の堕胎の仕事は本当は断りたかったという青坂さん。これまで多くを語りませんでしたが、90を過ぎた今、これ私の役目と重い口を開いてくれました。
「私達は仕事だからあれだけど、やっぱり引き揚げた人達は強姦されてね、辛い思いして帰ってきた人が、やっぱり故郷にも帰られんで海に飛び込んで死んだ人もおるんですよ。
だけども上陸してね、療養所に運ばれてきた人にね、1日も早く体をきれいにしてね、故郷に帰してあげたい。やっぱり身奇麗になった人達はね、もう喜んでね・・・病院から振り向かずに帰って行ったんですよ。お産もね、臨月に足らない人堕すんだからやっぱり大変だったです。当時は道具もあまりないしね。」
麻酔なしの手術にみな声も出さず耐えていた。赤ん坊の泣き声を聞くと母性本能が目覚めるので、声を聞かせないよう幼い命を始末したが、バケツの中で息を吹き返し、泣き声を上げることもあった。・・
ソ連兵は人間じゃなく獣
≪「奥底の悲しみ ~戦後70年、引揚げ者の記憶~。「特殊婦人・二日市保養所」とは 前半 【NNNドキュメント'16】≫2016年02月23日
・16歳の女学生が危うく陵辱を受けるところ、見るに見かねて飛び込み身代わりとなりました。
・強引な要求を遂に拒みきれず、とうとう我が娘を出しました。
・皆の見ている目の前で犯されました。
・63歳になる老婆さえ暴行を受けました。
#特殊婦人 #二日市保養所 は全部証拠が残る事実
— さくらにゃん(テレビにだまされないぞぉ) (@KGJw0W5vmqDE8qG) August 13, 2019
「日本が負けると大陸に暮らしていた女性達
身にはボロ布を纏い、足に履物はなく、
見るも無残な姿で日本へ引き揚げてきたのです」#引揚げ者 #仙崎引揚援護局史 #マダムダワイ#奥底の悲しみ ~戦後70年、引揚げ者の記憶~https://t.co/ePWi7Ov6mo pic.twitter.com/KtuNzDzXhO
昨日は、ロシア兵が1歳の赤ちゃんまでレイプしたニュースも・・・😨
1歳の赤ちゃんをレイプ後に動画を同僚に…97年生まれのロシア兵士の衝撃の蛮行 ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2022.04.11ウクライナの民間人の平穏な生活を奪ったロシア軍。侵略戦争を始めたプーチンは、地獄に堕ちろっ!
ロシア兵士がウクライナの1歳の赤ちゃんに対して性的虐待を行う映像がオンラインに流布して世界に衝撃を与えている。
10日(現地時間)、英紙ミラーなどによると、1人のロシア兵士がソーシャルメディア(SNS)にウクライナの赤ちゃんをレイプする映像を投稿して警察に逮捕された。
ロシア現地メディアは該当の兵士について、ロシア南部クラスノダール出身で1997年生まれだと伝えた。また、この兵士のSNSには赤ちゃんのレイプ映像の他にも歪んだ性意識を持っていることを証明する各種映像が他にもあったと説明した。
この兵士が撮影した映像はテレブラムやその他のソーシャルメディアのサイト等を通してシェアされた。
ウクライナメディアによると、この兵士が同僚の兵士に淫らなイメージと動画を送った。
海外のネット上ではこの兵士の許されざる行為に対して怒り、写真や年齢、故郷、住んでいるところなどの個人情報を突き止めて広めた。
ウクライナ外交官のオレクサンドル・シェルバ氏はツイッターに「赤ちゃんを強姦した怪物を見よ。誰かが私に彼がやったことについてのリンクを送ってきたがとても開いて見ることなんてできなかった」とし、該当兵士の写真を公開した。
一方、ロシア軍が占領した後に撤退したウクライナ北部地域では、ロシア兵士たちが性犯罪を犯したという証言と証拠が連日報告されている状況だ。
レイプ、民間人虐殺、略奪等をやった現行犯だけでなく、「戦争犯罪」でプーチンも裁く為、国連による「特別法廷」設置を強く望みます。
その為に、日本の自称ジャーナリストも、BBCのようにウクライナに入って、ロシア軍の蛮行の証拠を集め、真実をガルージンやプーチンやに突き付けるべき
≪ガルージン駐日ロシア大使「虐殺はでっちあげ!WW2後、最も残虐な虐殺、反軍事犯罪、戦争犯罪を起こしているのはゼレンスキー政権」「推定無罪はどこに消えた?! 」【報道特集】≫2022年04月10日
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ブチャのフェドルク市長がインタビューで「ロシア兵は野蛮人」と言い、キーフ在住の高垣さんも「店は全部略奪されて、各家庭をまわって金品を全部略奪していく」と証言していたので記録しました(青字はナレーション)
77年前の日本人もソ連兵から凌辱、略奪などされたけど、ロシア兵の残虐性は、シリアやチェチェンみても納得。
あと、中国の報道もロシアに同調してて同レベル。そんな国々が国連理事国だという事をよく考えなきゃいけないと思います。
ロシア兵は、民間人を殺し、金品を略奪するゲームだと思っているんだろうか酷すぎる…
アナ「多くの住民が殺害された首都キーウ近郊のブチャの市長がフジテレビのインタビューに応じ、ロシア兵を『野蛮人』と呼んで強く非難しました。」
フェドルク市長「これまでに320人の市民の死亡を確認した」
ブチャのフェドルク市長は5日、「まだ死者の数を数えている」段階だとした上で、子供から高齢者までこれまでに320人の死亡を確認したと明らかにしました。市長はまた、ロシア軍が市民に行った残虐な行為を強く批判ましした。
フェドルク市長「市民を捕まえてまず手足を縛り、銃で撃った。彼らを軍人と呼ぶことはできない。野蛮人だ!」
また、友人を探そうと首都キーウからブチャに入った高垣典哉さんは、略奪行為も耳にしたといいます。
高垣さん「店は全部略奪されて、店だけじゃなくて、各家庭をまわって略奪していくそうですわ。金品を全部略奪していくそうですわ」
「ブチャは富裕層も多く住む美しい町だった」という高垣さんは、様変わりした町に衝撃を受けていました。
で、国営ロシアテレビは、ブチャ市民の犠牲はロシア軍によるものと見せる為のにウクライナ側の捏造と報道し、その中で中国の専門家が「ウクライナや西側の話に疑問」を呈していると流していました。中国📺CCTVでも
5日、国連安全保障理事会で、ゼレンスキー大統領は“最も恐ろしい戦争犯罪”だと訴えました。
アナ「ウクライナの首都キーウ近郊のブチャで多数の民間人の遺体が見つかった事について、中国では国営メディアが「フェイクだ」と反発するロシア側の主張を中心に報じています。」
中国国営中央テレビの5日正午のニュースでは『ロシア外相、ブチャ事件の嘘を暴く』とのタイトルで「ウクライナと西側がフェイクニュースをばら撒いている」と批判するラブロフ外相や「捏造の証拠を示す」とするロシアの国連大使など、ロシア側の主張が続きます。
最後に現場を視察するゼレンスキー大統領に触れますが、ブチャの実態を伝える映像や凄惨な状況を訴える住民の声はありません。また、人民日報や新華社など他の主要な国営メディアはブチャについて、これまでほとんど報じていません
対してロシア大使は、“ウクライナ側のねつ造だ”とする反論を一方的に繰り返していましたが…
さすがに、中国大使は「深く心を痛めている。事件の状況や原因を検証すべきだ」と言い、
あと、これまでロシアを批判しなかったインド大使が明確に非難したのも大きな前進
中国とインドもブチャ民間人虐殺の検証や調査を要求 国連安保理 2022/4/6中国も、ロシア兵のあまりの野蛮な虐殺が明らかになり、ちょっと距離を置き始めたのかも?
【ニューヨーク=平田雄介】ウクライナのゼレンスキー大統領は5日、国連安全保障理事会でのオンライン演説で、首都キーウ(キエフ)近郊のブチャなどロシア軍が占領していた地域の民間人虐殺の惨状を動画で伝えた。国連のグテレス事務総長は「戦争犯罪の可能性がある」と言及し、ロシア非難を控える中国やインドも「事件の検証」や「独立した調査」を求めた。
会合はロシアによるウクライナ侵攻をめぐって開かれ、ゼレンスキー氏は露軍は「第二次大戦以来、最も恐ろしい戦争犯罪」に関与したとして「ロシアは責任を免れない」と非難した。安保理の機能不全と改革も訴えた。
ロシアのネベンジャ国連大使は「わが国は民間人や民間施設を狙った攻撃はしていない」と反論し、露軍が関与したとの訴えを「ウソだ」と主張した。
国連によると、2月24日の侵攻開始後、少なくとも1480人の民間人が死亡し2195人が負傷した。露軍が人口密集地で殺傷能力の高いクラスター(集束)弾を使ったとの情報もある。
グテレス氏は、ブチャでの民間人虐殺は「国際人道法や国際人権法への重大な違反」との認識を示し、責任追及のための「独立した調査」を求めた。ロシアを除く全ての理事国が賛意を示し、インドのティルムルティ国連大使は「民間人殺害を明確に非難する」と述べた。中国の張軍国連大使も「深く心を痛めている。事件の状況や原因を検証すべきだ」と訴えた。
それにしても、ロシア兵(ソ連兵)の残虐性はずっと変わらない
≪ロシア軍のウクライナ人への凌辱など「戦争犯罪」疑惑 & 77年前のソ連軍の日本人への凌辱証言、「マダムダワイ」とは…≫2022年04月04日実は、そういう残虐性は中国も同じ。やった事を相手がやった事にするプロパガンダも同じ手口
≪【南京大虐殺】元海軍軍人・深井俊之助(104)さんの証言「支那は略奪・強姦平気でやる、日本人はしないから歓迎されていた」【#虎8】≫2018年12月05日戦後の戦勝国史観で、「日本兵は極悪だった」と洗脳されてきた日本人。
ウクライナ戦争での、ロシア兵の民間人の殺戮や略奪・強姦、「黒を白と言い続ける」のを見て、そろそろ目覚めないと
日本が降伏した後にも、民間人がどんな目に遭わされたかを「知る」べき時です
≪「奥底の悲しみ ~戦後70年、引揚げ者の記憶~。「特殊婦人・二日市保養所」とは 前半 【NNNドキュメント'16】≫2016年02月23日
・16歳の女学生が危うく陵辱を受けるところ、見るに見かねて飛び込み身代わりとなりました。
・強引な要求を遂に拒みきれず、とうとう我が娘を出しました。
・皆の見ている目の前で犯されました。 ・63歳になる老婆さえ暴行を受けました。
一方的に侵略されて、降伏したところでロシア(ソ連)相手だとこうなる。もう野蛮人じゃなく鬼畜、獣
こういう史実を知らないのか、「命が大事、逃げろ、降伏しろ」とか言う頭がおかしいコメンテーターもいるけど・・
他国に侵略されてもすわ降伏すれば、女こどもは助かるという話ではありません。
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ブッチャのロシア軍の虐殺に関し、遺体映像はウクライナや欧米側の捏造というロシア政府の主張を報じていたので記録しました(青字はナレーション)
これに対し調査報道グループ「ベリングキャット」が検証・反論。
NYTも、衛星画像で「遺体が数週間ブチャに横たわっている」という検証記事も出し、ロシアの子供騙しのプロパガンダは完全に論破された形に。
スタジオ解説はやや要約
本当にロシアの子供騙しの言い逃れが腹立たしい
だけど、ロシアが仮にこの侵略戦争の勝者になれば、この子供騙しの嘘が「歴史」になってしまうんでしょうね😨
こんな残虐な事やっておきながら、ラブロフ外相の「フェイクニュース攻撃だ!」にも呆れる
ロシア(ソ連)のやり口は、ついも同じ(閲覧注意) 動画: #キーウ 近郊で民間人の遺体多数発見、国際社会に怒り広がる #ウクライナ pic.twitter.com/J1qiNcoGoZ
— ロイター (@ReutersJapan) April 5, 2022
国際社会は、ウクライナ人を拷問虐殺した当事者を絶対に許してはいけないポーランド人を虐殺した「カティンの森事件」をナチスのせいにしてたのに、1990年代にべリヤからスターリンへ宛てたべリヤ書簡では、25,700人を証拠提出なしに最高刑すなわ ち銃殺刑に処することが書かれていることが確認されている。過去にもやってるしバレバレなんですよ。 https://t.co/AU9AqLKFPt
— 和泉守兼定 💙💛応援 (@netsensor1) April 4, 2022
ウクライナ、ブチャで「戦争犯罪に直接関与」のロシア軍兵士の名簿をネット公表…2千人掲載 2022/04/05ロシア軍の部隊司令官が「誰も殺すような事はしない。ロシアの敵は軍とナチスだけだ」と言いながら、やったブチャでの民間人虐殺。
【ワシントン=横堀裕也、田島大志】ウクライナ国防省は4日、首都キーウ(キエフ)近郊の複数都市で多数の民間人の遺体が見つかったことについて、このうちブチャで「戦争犯罪に直接関与した」とするロシア軍兵士の名簿を発表した。英BBCによると、約2000人が掲載されている。多数の兵士が関与したとの訴えに呼応する形で、欧米などはロシアへの非難をさらに強めている。
ウクライナ国防省は、露軍兵士のリストを氏名や生年月日、階級などとともにホームページ上で公開し、「ウクライナ市民に向けられた犯罪は、全て裁判にかけられる」と非難した。
ウクライナ側は、ブチャを含む複数都市で計410人の遺体が確認されたとしており、ウォロディミル・ゼレンスキー大統領は5日にインターネットでの国民向け演説で、露軍に殺害・拷問された市民がブチャだけで300人超になると訴え、「犠牲者は相当増えるだろう」と語った。
ゼレンスキー大統領は5日午前(日本時間同日深夜)、ロシアの侵攻後初めて、国連安全保障理事会で演説する予定。4日に自身が訪れたブチャの状況などを説明するという。
一方、露軍は東部や南部で攻勢を強めている。ウクライナ国営通信などによると、東部のドネツク州とハルキウ(ハリコフ)州では4日、露軍の砲撃で少なくとも計4人が死亡した。南部ミコライウでは中心部に露軍の攻撃があり、子供1人を含む11人が死亡、60人以上が負傷した。
露軍の動きについて、米国のジェイク・サリバン国家安全保障担当大統領補佐官は4日、「当初はウクライナのほぼ全土が標的だったが、東部と南部の一部に戦力を集中する戦略に切り替えた」との見方を示し、米国防総省高官は4日、キーウ周辺に集結していた露軍部隊の3分の2が既に撤退したと記者団に述べた。
こういう状況をみても尚、ロシア側のプロパガンダの方を信じる人はいるんでしょうかいるとしたらもう救いようがない。
で、ゼレンスキー大統領は、別の町で、もっと大量虐殺しているようだと言っています😱
子供・女性を含むウクライナへの民間人大量虐殺・「戦争犯罪」の罰を、侵略戦争をはじめたプーチンはじめ、直接手を下したロシア兵には絶対に受けさせなければいけないウクライナの為にも、世界の秩序を保つためにも必須だと思います。まずはロシアには出来る限りの制裁を!
関連記事
≪ロシア軍のウクライナ人への凌辱など「戦争犯罪」疑惑 & 77年前のソ連軍の日本人への凌辱証言、「マダムダワイ」とは…≫2022年04月04日
・・地下室に手足縛られバラバラに切断された子ども…ロシア軍は遺体に地雷設置か 4/3(日)
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ロシア兵の戦争犯罪の「疑惑」として報じられていますが、かつてのソ連兵の所業を見ると疑惑ではなく事実だと思えます。
第二次世界大戦直後のソ連兵の日本人に対する凌辱行為も凄まじかった・・という証言を以前書き起こししていたので併せて紹介します露助
明らかに一般人の服を着た男性は後ろ手に縛られ後頭部を撃ち抜かれ
— 貴虎𝐭𝐚𝐤𝐚𝐭𝐨𝐫𝐚 (@Takacobaltfang) April 4, 2022
女性と少女は陵辱され全裸で毛布にくるまれ焼かれた
道路に放置された複数の遺体に地雷のトラップが仕掛けられていた
プーチン1人が悪では無い
🇷🇺軍は77年前日本人に行った残虐行為から何も変わってないんだよ#ひるおび https://t.co/QR9W1UDeZe
ロシアの戦争犯罪の証拠も
ロシア軍の“性暴力”疑惑、ゼレンスキー大統領が告発 避難民の銃殺も 仏企業名指しし「資金提供やめなければならない」 待遇の悪さが暴行誘発か 4/2(土)
ウクライナでのクラスター(集束)弾の使用や民間人への無差別空爆などが批判されているロシア軍に、さらなる非道な行為の疑いが浮上している。ウクライナの民間人女性への性暴力や避難民の銃殺が行われているとゼレンスキー大統領が告発、同国当局も調査に乗り出した。都合の悪い情報はプーチン大統領に伝わっていないとの指摘もあるが、「戦争犯罪」はどこまでエスカレートするのか。(中略)
・・ 安全保障や戦史について研究・執筆するジャーナリストの石井孝明氏は「第二次世界大戦におけるドイツや東欧ではソ連兵により性的暴行が多発したが、戦後のソ連による東欧の支配によって被害女性の告発自体がタブー視され、隠されてきた。一方、1990年代から2000年代のチェチェン紛争ではロシア軍による住民の虐殺や性的暴行がいくつも報告されてきた。ロシアは徴兵制度が続いていて、兵隊同士のいじめなども報告される待遇の悪さが暴行を誘発してきたともいえる」と語る。(中略)
・・ ゼレンスキー氏らの発言のように性的暴行は起きているのか。石井氏は「可能性は十分あるが、注意したいのは、さまざまな国で性的暴行の証言がプロパガンダとして利用されてきた側面もあることだ。今回のウクライナ侵攻でも他の戦争犯罪と共に戦後に国際的な調査が行われると思われる。事実確認の経緯を見守るという目線も必要ではないか」と指摘した。
地下室に手足縛られバラバラに切断された子ども…ロシア軍は遺体に地雷設置か 4/3(日)
かつてのソ連兵がどんな鬼畜行為をしていたか読んでください。77年前の話です
≪「奥底の悲しみ ~戦後70年、引揚げ者の記憶~。「特殊婦人・二日市保養所」とは 前半 【NNNドキュメント'16】≫2016年02月23日
・・敗戦から間もなく町の様子は一転します。
ソ連軍が押し寄せて来たのです。深澤さんの両親は、年頃の娘・幸代さんを2ヶ月間天井裏に隠しました。
男のように頭を剃り、食料は天井の隙間から入れてもらいます。寝るのは細い柱の上、用を足すのは壷の中でした。
「怖いとか何とか通り越してね、どうしたら生きられるだろうかと、、両親がいるから生きにゃならんと思うでしょ。それがゲルマンと戦ってきたもん(ソ連兵)だから一番荒いのが来たの。それを第一に何を目的にするかって言ったら、女性なんです。そうすると私達が一番酷い目に遭ってるわけ、、」
国会の議事録の中に、現地で日本人女性の被害に及ぼすソ連兵に関する記述を見つけました。
ソ連兵は粗野で、一面野獣的な性格を所有し、シベリアの囚人をかり集めて組織されていた
「本当、やられた人たくさんおる、小さい子供ね、1歳2歳の子供????に入れても声がするからダメじゃないですか。友達もたくさんイタズラされた。死んだ人もたくさんいる。
(当時はどうしようもなかった?)どーしようない、どーしようもない。それが戦争に負けたっていう事でしょ。日本人が手を出す事、全然出来ないもん。逃げる事が一生懸命、どこが手助け出来ますか、日本から来ることは全然ない。だから私達もクラスの中で1/3は帰ってないから、どういう死に方しているか分かりません。」・・
・・敗戦から1年後に北朝鮮から引き揚げた小林茂さん(81歳)。
「ああ、戦争に負けたんだなっていうのがね、ハッキリと1人1人の胸にね、叩き突きつけられたっていうかね、、」
小林さんの手記は90ページに及びます。戦後80年にはもう生きていないかもしれないと、前々から少しずつ書き進め、地図などの資料も合わせて作りました。
「これ、父の転勤したコースなんですけどね、ここでね、球場ってとこですけどね、ここで敗戦になったんです。」
敗戦当時、小林さんは11歳。父親を戦地へ送り出し、家の中は母と子供達だけでした。敗戦後すぐに街はソ連軍に占領され、日本人は長屋に押し込められます。その後1年間毎日のようにそこにやってきたソ連兵。
「マダムダワイ」女を出せと大声で喚き、発砲したのです。
「抵抗するものは撃ち殺すんですよ、もうマンドリン銃ゆうて、この位の小銃で、それガーンと撃つんです。そういったのを見てるんですよ。もう全部裸にされるんですよね。そして後ろ向けってな格好なんですよね、だからねぇ、もう犬が盛っているようなカンジのね、まぁ言えば男女間のセックスしてるんですよ。口の中にね、銃を持っとるんですよ。ほいで周りに男性が1人か2人おるんですよ、次の人が待っとる、それで強姦しよるんですよ。
それでこん畜生、体を開かんかったらボンッ、と撃つんですよ、目の前で。ほんでそれを引きずり出して次の、、もうそんな事考えられませんよ、あの状況の中で。(昼の日中でも?) そうです。雪の中でも、道路の中でもそうです。」
恐怖と興味が混ざり合う心で初めは遠くから見ていたという11歳の小林さん。しかし、幾度もその場を目にする内に自分に出来る精一杯の事をするようになったのです。
ソ連兵が去った後、放心状態で動けない女性の為に服を拾い、湯を沸かし、体を拭き・・そんな11歳の記憶を子や孫達にもいつか知ってほしいと手記にしました。書き終えて肩の荷が下りたと言います。・・
性暴力から逃れる為に2ヵ月間、天井裏に隠れた深澤さん。
女学校時代をすごした北朝鮮の町・チンナンポからの引き揚げ者と今も交流を続けています。皆当時の記憶は鮮明に残っています。
「マダムダワイ マダムダワイってね、女くれ女くれって、、」
「マダムダワイって言って入ってくるんですよ、、私達は畳を上げて床下に隠れました」
ソ連兵に怯える日々。チンナンポの日本人会の幹部達は悩んだ挙句、特定のの職業の女性達に犠牲になってもらう事に決めたのでした。
「一般の婦女子が危険な目に遭うので、あなた方は済まんけども何とかそういう人達の事を考えて助けてやってくれないかという事で、そういうお姉さん達に頼んだわけです。」
「水商売の人がおられて・・・なんか皆からお金を集めてね、申し訳ないけどって言って、まぁ素人の娘がねそういう目に遭うのは可哀想だからっていう風な、、」
敗戦から1年後、集団で町を脱出。しかし引き揚げる道中に女性を要求するソ連兵が待ち伏せていました。その時も・・
「これ言っていいかどうか・・・いまだに胸が痛みますけど、女の人4人選び出してですね、ロスケ(ソ連兵)に与えたんですよ。そしてその間に私達は移動しました。自分だけ今幸せで居れるって事はねぇ・・・」・・
新田浩治さん(78歳)。敗戦の翌年、満州から引き揚げました。暮らしていたのは満州最大の都市・奉天。
父親は国民学校の校長を務め、3人の女中と2人の運転手を抱える生活でした。
しかし敗戦後、ソ連兵は銃を撃ちながら家の中に押し入り、金目の物は全て奪って行きました。そしてここでも・・・
「丁度皆兵隊にとられてますよね、家には子供と奥さんしかおらんでしょう。皆奥さん方は軍服を着てちゃんと戦闘帽子も被っているけど、やっぱ女って分かるじゃないですか。全部トラックに乗せてね強姦しとる訳ですよ。」
新田さんが見ている目の前でソ連兵に連れて行かれた女性達。
近所の家の母親も強姦されました。更に悲劇が起こります。辱めを受けたその母親は子供を道ずれに手榴弾で一家心中をしたのです。
「うちの隣の隣位だったですけど、ボーーンってったから僕らも走って出たらもうブァーって物凄い爆風でしてね、肉片が飛ぶでしょう。その飛んだの(肉片)を犬が咥えるのを僕は目の当たりに見たんですよ。だからその頃食料ないでしょう、コーリャンとか粟とかカンパンとか芋しかないのに、腹がすいているにも関わらず4日間位メシが食えませんでしたね。」
北朝鮮・鎮南補の町で女性達が身を守る為に覚えさせられたのは自ら命を絶つ事。
「どうやって死んだらいいかって、死に方を一生懸命習ったんだよ、・・・昔でいう隣組。首のくくり方、ここの頚動脈の切り方、親によってはその青酸カリを持って、、私なんか持ってましたけど、親は最後に死ぬから、最初子供達が死ぬのを見届けて死ぬっていう事を聞かされてたんで、、」・・
敗戦翌年の秋、満州から引き揚げました。枌谷勝二さん(79歳)。
笑顔を絶やさない事を信条に生きてきたという枌谷さん。当時暮らしていたのは北朝鮮との国境に近い龍井(リュウセイ)町は、敗戦とほぼ同時にソ連軍に占領されました。
銀行マンだった父とよく気がつく母、二人の姉と弟。枌谷さんは当時9歳でした。ソ連兵による性暴力は占領後すぐに始まりました。
「(占領した)ソ連兵は囚人兵で最低の兵隊だった。『ロスケロスケ』って言いよったけど、女は犯す、本当に惨めなもんだったんですよね。一番上の姉が女学校3年生、姉も坊主にして男装して、、姉は小さい方だったからだから姉は犯されずにすんだんですよね。子供だと思ったんだろうね。
姉は無事でした。しかし枌谷さんの母・とし子さんは夫の目の前でソ連兵に連れて行かれたのです。
「パーンっと空に向けて(撃ち)脅かすんですからね、逆らうことできんかった、、だからね、仕方がないですよ、親父は自分の女房を連れて行かれるからそれはもう死ぬような思いだったでしょう。男連中は(女性が)ポンポンポンポン車に乗せられるのを見とるんですからね。そしてら『イヤー』ちようた。かえって男の方が泣きながら、(敗戦したんだから命までは取られんからと説得した)そりゃ辛かっただろうと思うねぇ。女房を連れて行かれるのはそりゃただ事じゃないねぇ・・」(奥さんが「思い出すのもイヤって言ってたのにとうとう言ったね」と)
≪「奥底の悲しみ ~戦後70年、引揚げ者の記憶~。「特殊婦人・二日市保養所」とは 後半 【NNNドキュメント'16】≫2016年02月23日
ウクライナでも「マダムダワイ」とロシア兵は口々に言っていたかも。二日市の水子供養祭に、毎年欠かさず参列する女性がいます、山本千恵子さん(78歳)。山本さんが暮らしていたのは北朝鮮北部の町・羅南。
敗戦が色濃くなると本土へ向けて母親は子供4人を連れて引き揚げ始めました。
しかしソ連兵に捕らえられ引き揚げは途中で断念。ソ連軍の監視下にある収容所での生活が始まりました。その収容所でも・・
「マダムダワイって言って入ってくるんですよ、、犯されないように用意をしているんですけど収容所の中にバッと冷たい空気が走ってお姉ちゃん達は奥に走るし、みんなで知らないふりをして庇いながら奥に行って奥の畳を一枚はいでお姉ちゃん達は床下に隠れるわけです。」
収容所の生活は性暴力のみならず飢えや病気寒さとの戦いでもありました。山本さんの母・ふみさんは当時身重でした。その上、収容所の環境は劣悪で疫病が流行り始めます。何よりも食糧不足が深刻でした。当時8歳の山本さんはソ連兵の宿舎に潜り込み、ごみ箱からじゃが芋の皮を拾い集め、下水溝から流れ落ちる米粒を拾いなんとか飢えを凌いだのでした。最初に2歳の弟が亡くなりました。更に母親が死産。その母も3日後に亡くなり子供3人だけが残されたのでした。・・
ソ連兵の所業を振り返ると、ロシア兵も変わらないと思います。もう人間じゃなく獣。本当に酷い。
一方的に侵略されて、降伏したところで、ロシア(ソ連)相手だとこうなるんです。
他国に侵略されてもすわ降伏すれば、女こどもは助かるという話ではない
日本の政治家には、「他国が絶対に日本に手を出させないようにする策」を必死で議論し、そして「二度と戦争に負けない」にはどうすべきかを真剣に考えて頂きたい。
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日本が35年間植民地として支配した朝鮮半島に、小林さん一家は暮らしていました。
性暴力の被害を何度も目にした小林さんの記憶は自分達が被害者であるという事に留まりません。
「朝鮮の方っていうのは植民地になった為、日本人は第一等皇民って言ったんですよね、ほいで朝鮮の人は第二皇民であると。であとの国民は第三等皇民って言ってね、もう虫けらみたいな扱いだったんですよね。」
多くの差別がありました。配給制度では一等皇民の日本人には米が、二等皇民の朝鮮人には米と雑穀のコーリャンが半々、三等とされた満州人などにはコーリャンだけだったと言います。
日本語を教育するなど現地の人々を日本人化する為に皇民化政策も進められました。そして敗戦。支配する側に立っていた小林さんは、
「棒で叩くんですよ、日本人ちゅうのが分かったら。ちょっと恥ずかしいですけどね、頭叩かれて、、(陥没した所を触らせる)随分叩かれたんですよ、日本人の為に僕らこんな苦労しているこんな貧乏せないけんちゅう事で、殺されるんじゃないかと思うほどね、殴られるんですよ。」
頭の形が変わるほど顔中に傷跡が残るほど、現地の子供から度重なる暴力を受けました。しかしそこで初めて日本がしてきた支配とはどういう事なのか、子供心に考えたのでした。
「それはね、僕らが悪い事したんだなってそういう理解ができたんですよ、殴られて初めて。叩かれて初めて。」
国内最大の引き上げ港、博多。ここにも139万人が上陸しました。
博多港では多くの特殊婦人達が本土上陸を目の前にして命を絶ちました。
金谷美沙子氏「あの、若い女性の方たちがね、海に飛び込んだって話をね、やっとこさ故郷に帰った。でも自分が望んでいない子が宿ってる、、」
望まれなかった小さな命。その命も程なくこの世の中から消えて行きました。
博多から20キロ程離れた二日市では毎年水子供養祭が行われます。法的には許されていない堕胎・中絶が極秘に行われていたのです。
二日市保養所
人道的立場から女性達を救う為、終戦の翌年、引き揚げ援護をする医師や関係者によって自発的につくられました。
堕胎は違法行為でしたが、国も黙認し協力していました。手術にあたったのは2人の医師と10人の看護婦達です。
報告書によると望まぬ子を宿した妊娠に不法妊娠とし、堕胎は妊娠後期の8か月や9ヶ月になっても行われていました。
手術に立ち会った看護婦の1人に話を聞く事が出来ました。
青坂寿子さん(90歳)。人助けが信条で72歳まで看護婦を続けました。二日市保養所の堕胎の仕事は本当は断りたかったという青坂さん。これまで多くを語りませんでしたが、90を過ぎた今、これ私の役目と重い口を開いてくれました。
「私達は仕事だからあれだけど、やっぱり引き揚げた人達は強姦されてね、辛い思いして帰ってきた人が、やっぱり故郷にも帰られんで海に飛び込んで死んだ人もおるんですよ。
だけども上陸してね、療養所に運ばれてきた人にね、1日も早く体をきれいにしてね、故郷に帰してあげたい。やっぱり身奇麗になった人達はね、もう喜んでね・・・病院から振り向かずに帰って行ったんですよ。お産もね、臨月に足らない人堕すんだからやっぱり大変だったです。当時は道具もあまりないしね。」
麻酔なしの手術にみな声も出さず耐えていた。
赤ん坊の泣き声を聞くと母性本能が目覚めるので、声を聞かせないよう幼い命を始末したが、バケツの中で息を吹き返し、泣き声を上げることもあった。
堕胎の様子をこう証言したのは看護婦の村石正子さんです。
この隠された事実を語り継ぐ活動を続けてきましたが、去年春に亡くなりました。また1人語れる人がいなくなりました。
二日市の水子供養祭に、毎年欠かさず参列する女性がいます、山本千恵子さん(78歳)。
山本さんが暮らしていたのは北朝鮮北部の町・羅南。
敗戦が色濃くなると本土へ向けて母親は子供4人を連れて引き揚げ始めました。
しかしソ連兵に捕らえられ引き揚げは途中で断念。ソ連軍の監視下にある収容所での生活が始まりました。その収容所でも・・
「マダムダワイって言って入ってくるんですよ、、犯されないように用意をしているんですけど収容所の中にバッと冷たい空気が走ってお姉ちゃん達は奥に走るし、みんなで知らないふりをして庇いながら奥に行って奥の畳を一枚はいでお姉ちゃん達は床下に隠れるわけです。」
収容所の生活は性暴力のみならず飢えや病気寒さとの戦いでもありました。山本さんの母・ふみさんは当時身重でした。その上、収容所の環境は劣悪で疫病が流行り始めます。何よりも食糧不足が深刻でした。当時8歳の山本さんはソ連兵の宿舎に潜り込み、ごみ箱からじゃが芋の皮を拾い集め、下水溝から流れ落ちる米粒を拾いなんとか飢えを凌いだのでした。最初に2歳の弟が亡くなりました。更に母親が死産。その母も3日後に亡くなり子供3人だけが残されたのでした。
「雪の舞う中を、山の、それこそ死者の為に掘られた穴の中に母を葬りに行きました。もうその時はね、涙なんか出ません。当時は本当に極限状態で、弟の時は泣いたんだけど、母の時は泣かなかったなぁと思い出しますねぇ。」「その頃ってのは内地に辿り着くまではもうあの当時で2歳以下、それから65過ぎ・・ってのは皆死んだよ。食べ物も、病気になっても薬もないしね」
母親が性暴力の被害にあった枌谷さん。敗戦翌年の夏、もう二度目の冬は越せないと一家は町を脱出しました。道端の草や泥鮒を食べ逃げるように大陸を彷徨いました。
数ヵ月後、満州の首都・新京へ。遂に母親が動けなくなってしまったのです。子供達を守る為にソ連兵の言いなりになるしかなかった母。引き揚げる間も少ない食料を5人の子供に分け与え自分は衰弱していきました。
「お袋は着物をたくさん持って逃げたから、それを中国人に物々交換、食料と衣類と・・新京で生き延びたんですよね、でもその時にはお袋は・・新京で栄養失調でなくなったんですよ。・・当時39歳」
枌谷さんは幼い頃の自分を抱いた母の写真を二つに折り畳み、靴底に隠して持ち帰りました。今も母の夢を見ます。しかし元気だった頃ではなく亡くなる直前の姿なのです。
「初めは骨と皮に痩せる・・そしたら次は太るんじゃなくて腹水が溜まるんです。・・・体験っていうのは酷いもんですね。根性まで変えてしまう。だから忘れる為に極力明るく明るく振舞ってきた・・・」.
小林さんは家族に手記を読ませた後、直接自分の口からもう一度伝えました。これでいつの日かこのひ孫にも伝わるだろうと、胸をなでおろしています。,
北朝鮮で母親を亡くした山本さん。戦時中母は敵国語である英語を勉強していました。戦争が終わったら世界中を飛び回る事が亡き母の夢でした。
山本さんも同じように英語を学び中学校の英語教師を35年間勤め上げました。いま朝鮮語を勉強しています。いつの日か母が眠る北朝鮮の地に手をあわせに行きたいのです。
「母が色んな夢を持っていたのを分かって来る度に辛い思いをして、どんなにか無念だっただろうと。母だけじゃなくて戦争で亡くなられた方みんながね、本当に夢を断たれどんなにか無念な思い出なくなられただろうと思うと、もう堪らないですねぇ。」
「笑って生きよう」目の前で妻を連れて行かれた父親の教えです。引き揚げの後、父は貧しくも男手一つで枌谷さんを育て上げてくれました。残りの人生も笑って生きたいと枌谷さんは胸を張ります。
この先も語らない人、語らずに亡くなってくなっていく人、きっと大勢いることでしょう。戦争というものが生み出す奥底の悲しみ、その深さを私達はまだ知りません。
以上
このような悲劇は語り継がなければいけないと思います。
こういう悲劇の上に今の日本の平和があり、全ての先人に感謝しなければいけません。
関係者の高齢化が進んでいるので、こういう証言を元にして取材した番組は凄く良いと思いました。
で、少し 気になったのが小林茂さんの証言。やはり朝鮮半島の事情って、相当濃淡があると思いました。
というのも、6年ほど前、京城帝国大学(ソウル大学の前身)の医学生たちの証言をでは、京城帝国大学はそんな支配的な事は一切なかった様子だったので。
《衝撃の医学生戦争証言(京城帝国大学編) 前編 【NHK・戦争証言】 》2010年4月26日
・・当時、京城帝国大学は、朝鮮半島から旧満州、中国へといたる東アジア地域の教育研究の一大拠点を目指していました。医学部では、朝鮮半島や大陸の風土病について最先端の教育が行われ、 その附属病院は最新の医療設備が整えられていました。(中略)・・大村氏「それはもう日本人も朝鮮人も全然区別はないよ。あのー、教授から見ればね、先生から見れば。成績の悪いやつは朝鮮人であろうが日本人であろうが落ちとった(落第)からね。だいたい、日本人の方が落ち取ったよ、たくさん。(笑)優秀だから、エリートが入って入ってきとるから(笑)」
キム氏「当時、専門学校生は戦闘帽をかぶり、ゲートルを巻いていた。しかし、私達の大学では(そのような格好を)しなかった。戦闘服を着ず、戦闘帽もかぶらず、ゲートルも巻かずに通学していたので、少し自由がありました。」(韓国語)
医学部を卒業し、戦後アメリカに移住したイ・クワンホウさんです。イさんは卒業後に日本軍の軍医になる事を条件に大学の授業料が免除されていました。
イ氏「日本政府が授業料などを払ってくれたので、私は家のお金を全く使わずに医学部を卒業しました。(日本人学生に対して)特に良いとも悪いとも感じませんでした。日本人学生は主にソウル出身でしたが、日本本土から来た学生もいました。彼らに問題を感じる事は無く、級友として接しました。朝鮮人の学生同士のように親しくは付き合いませんでしたが、私の場合、他の人よりも多分、日本人に対して友好的でした。周囲がそれをどう感じたかはわかりません。」(英語)
村石氏「(最初にやって来た女性は)4、5人だったかね。だからね、あの、それ見たら声が掛けられなかったの。『お帰んなさい』とか何とかって、なんって言って声を掛けようかと思って、、」
吉田氏「犯されて、連れ去られて、もうモノ言えない、、、涙も出ない、、『何が起こったの、私?! 私、、、これ何?! これ私?!』っていう様な、、、それぐらいあの、辛い思いして逃げてきたんだなと、、」・・
二日市保養所で治療を受けた引揚者の日本女性に強姦による妊娠をさせた相手の男性は
朝鮮人28人、ソ連人8人、中国人6人、アメリカ人3人、台湾人・フィリピン人各1人という記録があります。
この際、「衝撃の医学生戦争証言(京城帝国大学編)」も次に再掲します。
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第11回日本放送文化大賞グランプリ・ 民放連賞最優秀をW受賞した
「奥底の悲しみ ~戦後70年、引揚げ者の記憶~」/ KRY山口放送という番組の書き起こしをして記録しました露助
番組内容(NNNドキュメント'16)
太平洋戦争の敗戦を機に、本土への引き揚げを余儀なくされたのは軍人だけでなく、 これまで築き上げてきた資産を放棄した、着の身着のままの一般の人々でした。山口県長門市の仙崎港は、全国でも5番目に多い41万人が引揚げた港です。そこで引揚げの援護業務にあたった、厚生省の記録を探ると、私たちは聞き慣れない言葉を見つけました。「特殊婦人」の文字です。それは一体何を意味するのか…私たちの取材が始まりました。全国で最も多くの人が引揚げた博多港、そして佐世保港へと取材を進めるうちに、当事者たちの記憶の奥底には、70年間、家族にも打ち明けられなかった、深い悲しみがあったのでした。
特殊婦人・二日市保養所に関しては、証言だけでなく資料がしっかり残っているので、「朝鮮人慰安婦」の話とは説得力が違います。
本来、人権派の皆さんはこのファクトに対して力を注ぐべきなんですが、日本女性は名乗り出ない・・その意味も分かります!それにしても「マダムダワイ」のソ連兵は、人間じゃなくて獣・・・
戦争に負けるって悲惨なことです。
71年前、祖国・日本が負けると大陸に暮らしていた女性達にはどうしようもない事が待っていました。身にはボロ布を纏い、足に履物はなく、見るも無残な姿で日本へ引き揚げてきたのです。
日本海を臨む山口県の(長門市)仙崎。この小さな港に、全国で5番目に多い41万人が引揚げました。当時、国が残した引き揚げの記録があります。
『仙崎引揚援護局史』・・・検疫・医療・物資などについて書かたその中に、私達は聞き慣れない言葉を見つけました。「特殊婦人」です。
「特殊婦人」とは・・。北朝鮮や満州からの引き揚げ婦女子には現地で暴行を受けた結果、身体に異常をきたしている者がいる。
国はそんな女性達を「特殊婦人」と表現していました。港には特殊婦人達の話を聞けるよう相談所が設けられました。『婦人特殊相談所』です。北朝鮮と満州から上陸する特殊婦人の数を月毎に記録していました。
暴行を受けた女性達の相談に乗り、把握しようとしたのは妊娠や性病。相談を受けた女性の5%、500人以上が妊娠または性病を患っていたと記録されています。それが戦争に負けるという事。
「マダムダワイ マダムダワイってね、女くれ女くれって、、」「マダムダワイって言って入ってくるんですよ、、」
「マダムダワイってしますよね、、」「パーンって空に向けて(撃ち)脅かすんですからね、逆らうことできんかった、、」「お母さんの目の前で銃を突きつけられて娘が犯されるっていうのはどういう気持ちだと思いますか、、」
戦争の終わりは女性達にとって、新たな戦いの始まりでした。引き揚げ者の記憶の奥底を見つめました。
特殊婦人とは・・・私達は引き揚げ者を訪ねました。深澤幸代さん(89)。19の時北朝鮮から引き揚げました。向こうで覚えた朝鮮漬けは今も毎年作ります。
「北朝鮮は寒いっていうか、痛い。私なんか教室にね、ストーブ3つ置いておいて、で学校に行くまでに睫毛が凍るんよ」
深澤さんは北朝鮮の南部・平壌に程近い鎮南浦(チンナンポ)で育ちました。敗戦から間もなく町の様子は一転します。
ソ連軍が押し寄せて来たのです。深澤さんの両親は、年頃の娘・幸代さんを2ヶ月間天井裏に隠しました。
男のように頭を剃り、食料は天井の隙間から入れてもらいます。寝るのは細い柱の上、用を足すのは壷の中でした。
「怖いとか何とか通り越してね、どうしたら生きられるだろうかと、、両親がいるから生きにゃならんと思うでしょ。それがゲルマンと戦ってきたもん(ソ連兵)だから一番荒いのが来たの。それを第一に何を目的にするかって言ったら、女性なんです。そうすると私達が一番酷い目に遭ってるわけ、、」
国会の議事録の中に、現地で日本人女性の被害に及ぼすソ連兵に関する記述を見つけました。
ソ連兵は粗野で、一面野獣的な性格を所有し、シベリアの囚人をかり集めて組織されていた
「本当、やられた人たくさんおる、小さい子供ね、1歳2歳の子供????に入れても声がするからダメじゃないですか。友達もたくさんイタズラされた。死んだ人もたくさんいる。
(当時はどうしようもなかった?)どーしようない、どーしようもない。それが戦争に負けたっていう事でしょ。日本人が手を出す事、全然出来ないもん。逃げる事が一生懸命、どこが手助け出来ますか、日本から来ることは全然ない。だから私達もクラスの中で1/3は帰ってないから、どういう死に方しているか分かりません。」
いくつもの国や地域を統治下に置き、領土と勢力圏を広げていった大日本帝国。
新天地での成功を夢見て多くの人々が海外に渡りました。満州などには国策の開拓団として27万人が移り住みました。そして敗戦・・
海外に取り残された日本人、その数660万。軍人は武器を捨て、一般人は現地で築いた財産を捨て、皆一斉に本土を目指しました。
しかしソ連軍の占領下にあった満州と北朝鮮からの引き揚げは、数ヶ月から1年以上大幅に遅れました。
アナ「山口放送では今年に入って引き揚げに関する特集を放送しています。このように多くの方々から貴重な体験記をお寄せ頂いています。本当にありがとうございます。」
引き揚げの体験を聞かせてほしいと、山口県内の視聴者に呼びかけたころ、多くの反響がありました。私達は寄せられた手記を元に取材を進めました。
敗戦から1年後に北朝鮮から引き揚げた小林茂さん(81歳)。
「ああ、戦争に負けたんだなっていうのがね、ハッキリと1人1人の胸にね、叩き突きつけられたっていうかね、、」
小林さんの手記は90ページに及びます。戦後80年にはもう生きていないかもしれないと、前々から少しずつ書き進め、地図などの資料も合わせて作りました。
「これ、父の転勤したコースなんですけどね、ここでね、球場ってとこですけどね、ここで敗戦になったんです。」
敗戦当時、小林さんは11歳。父親を戦地へ送り出し、家の中は母と子供達だけでした。敗戦後すぐに街はソ連軍に占領され、日本人は長屋に押し込められます。その後1年間毎日のようにそこにやってきたソ連兵。
「マダムダワイ」女を出せと大声で喚き、発砲したのです。
「抵抗するものは撃ち殺すんですよ、もうマンドリン銃ゆうて、この位の小銃で、それガーンと撃つんです。そういったのを見てるんですよ。もう全部裸にされるんですよね。そして後ろ向けってな格好なんですよね、だからねぇ、もう犬が盛っているようなカンジのね、まぁ言えば男女間のセックスしてるんですよ。口の中にね、銃を持っとるんですよ。ほいで周りに男性が1人か2人おるんですよ、次の人が待っとる、それで強姦しよるんですよ。
それでこん畜生、体を開かんかったらボンッ、と撃つんですよ、目の前で。ほんでそれを引きずり出して次の、、もうそんな事考えられませんよ、あの状況の中で。(昼の日中でも?) そうです。雪の中でも、道路の中でもそうです。」
恐怖と興味が混ざり合う心で初めは遠くから見ていたという11歳の小林さん。しかし、幾度もその場を目にする内に自分に出来る精一杯の事をするようになったのです。
ソ連兵が去った後、放心状態で動けない女性の為に服を拾い、湯を沸かし、体を拭き・・そんな11歳の記憶を子や孫達にもいつか知ってほしいと手記にしました。書き終えて肩の荷が下りたと言います。「重かったですねー、それを抱えとるっちゅう事が。だからね、家族にも言えんし、今初めて話すんですけどね、秘密っちゅう事はないけどね、自分のこの負の世界っちゅうのをね、抱えとるっちゅうのはほんっとに厳しかったですね。
で、まさかこういう風にしてね、読んで下さるとは夢にも思わんで、ただ原稿ぼしゅうしてますよって事で出したんだすけどね、だから考えてみましたらしあわせだなぁ、、聞いてくださる方がおられるって事は幸せやったと思ってね。(涙を拭く)ごめんなさい。
だから子供も戦争の後の辛さっていうのはあったんですけどね、子供を持っとる親はまだ辛かったと思うんですよ。無事に連れて帰らにゃいけんしね。」
性暴力から逃れる為に2ヵ月間、天井裏に隠れた深澤さん。
女学校時代をすごした北朝鮮の町・チンナンポからの引き揚げ者と今も交流を続けています。皆当時の記憶は鮮明に残っています。
「マダムダワイ マダムダワイってね、女くれ女くれって、、」
「マダムダワイって言って入ってくるんですよ、、私達は畳を上げて床下に隠れました」
ソ連兵に怯える日々。チンナンポの日本人会の幹部達は悩んだ挙句、特定のの職業の女性達に犠牲になってもらう事に決めたのでした。
「一般の婦女子が危険な目に遭うので、あなた方は済まんけども何とかそういう人達の事を考えて助けてやってくれないかという事で、そういうお姉さん達に頼んだわけです。」
「水商売の人がおられて・・・なんか皆からお金を集めてね、申し訳ないけどって言って、まぁ素人の娘がねそういう目に遭うのは可哀想だからっていう風な、、」
敗戦から1年後、集団で町を脱出。しかし引き揚げる道中に女性を要求するソ連兵が待ち伏せていました。その時も・・
「これ言っていいかどうか・・・いまだに胸が痛みますけど、女の人4人選び出してですね、ロスケ(ソ連兵)に与えたんですよ。そしてその間に私達は移動しました。自分だけ今幸せで居れるって事はねぇ・・・」
新田浩治さん(78歳)。敗戦の翌年、満州から引き揚げました。暮らしていたのは満州最大の都市・奉天。
父親は国民学校の校長を務め、3人の女中と2人の運転手を抱える生活でした。
しかし敗戦後、ソ連兵は銃を撃ちながら家の中に押し入り、金目の物は全て奪って行きました。そしてここでも・・・
「丁度皆兵隊にとられてますよね、家には子供と奥さんしかおらんでしょう。皆奥さん方は軍服を着てちゃんと戦闘帽子も被っているけど、やっぱ女って分かるじゃないですか。全部トラックに乗せてね強姦しとる訳ですよ。」
新田さんが見ている目の前でソ連兵に連れて行かれた女性達。
近所の家の母親も強姦されました。更に悲劇が起こります。辱めを受けたその母親は子供を道ずれに手榴弾で一家心中をしたのです。
「うちの隣の隣位だったですけど、ボーーンってったから僕らも走って出たらもうブァーって物凄い爆風でしてね、肉片が飛ぶでしょう。その飛んだの(肉片)を犬が咥えるのを僕は目の当たりに見たんですよ。だからその頃食料ないでしょう、コーリャンとか粟とかカンパンとか芋しかないのに、腹がすいているにも関わらず4日間位メシが食えませんでしたね。」
北朝鮮・鎮南補の町で女性達が身を守る為に覚えさせられたのは自ら命を絶つ事。
「どうやって死んだらいいかって、死に方を一生懸命習ったんだよ、・・・昔でいう隣組。首のくくり方、ここの頚動脈の切り方、親によってはその青酸カリを持って、、私なんか持ってましたけど、親は最後に死ぬから、最初子供達が死ぬのを見届けて死ぬっていう事を聞かされてたんで、、」
ある集団自決の記録を見つけました。満州からの引揚者の証言です。
佐世保引揚 援護局 婦人相談所の問診日誌
金品のみならず女性を求めるソ連軍の圧力は日に日に強まりやむなく開拓団の老若男女全員での自決を強行。何も分からない子供達は薬だといって青酸カリを飲まされ、ぐずぐずしている老婆は団長から首を切られ、あたり一面は修羅場と化した。と、その場を脱出した女性は証言しています。この証言記録が残っていたのは、長崎県の佐世保市。ここには139万人もの人が引き揚げました。
佐世保市でも特殊婦人の相談は行われました。15歳から50歳までの女性達、全員に話を聞いたという記録が残っています。
相談員を務めたのは佐世保友の会の婦人達でした。全国で2万人がいまも活動をする友の会では、70年前の引揚げの事が語り継がれています。引き揚げてくる女性達に直接向き合った当時の会員達。その1人、故・西村二三子さんの娘が母親のから引き継いで今も活動しています。
中山興子さん(76歳)。当時、まだ幼かった中山さんは母が毎晩遅くに消毒の匂いをさせて帰ってきた事を憶えています。中山さんの母親達は相談の内容を日々(問診日誌に)書き残していました。「お母さんの目の前で銃を突き付けられて娘が犯されるというのはどういう気持ちだと思いますか。そして赤ちゃんを身ごもって、身ごもった体で日本には帰れないって、島々が見えた時に身を投げたっていう、、それをお母様が淡々と語られる。語られた事を書き表すっていう、、」
悲しみを胸に引揚げてきた特殊婦人達の記録。ソ連兵から要求され、未婚の婦女子47名を出しましたが、それでも足りないので第二班として合計80名を出しました。
・16歳の女学生が危うく陵辱を受けるところ、見るに見かねて飛び込み身代わりとなりました。
・強引な要求を遂に拒みきれず、とうとう我が娘を出しました。
・皆の見ている目の前で犯されました。
・63歳になる老婆さえ暴行を受けました。
敗戦翌年の秋、満州から引き揚げました。枌谷勝二さん(79歳)。
笑顔を絶やさない事を信条に生きてきたという枌谷さん。当時暮らしていたのは北朝鮮との国境に近い龍井(リュウセイ)町は、敗戦とほぼ同時にソ連軍に占領されました。
銀行マンだった父とよく気がつく母、二人の姉と弟。枌谷さんは当時9歳でした。ソ連兵による性暴力は占領後すぐに始まりました。
「(占領した)ソ連兵は囚人兵で最低の兵隊だった。『ロスケロスケ』って言いよったけど、女は犯す、本当に惨めなもんだったんですよね。一番上の姉が女学校3年生、姉も坊主にして男装して、、姉は小さい方だったからだから姉は犯されずにすんだんですよね。子供だと思ったんだろうね。
姉は無事でした。しかし枌谷さんの母・とし子さんは夫の目の前でソ連兵に連れて行かれたのです。
「パーンっと空に向けて(撃ち)脅かすんですからね、逆らうことできんかった、、だからね、仕方がないですよ、親父は自分の女房を連れて行かれるからそれはもう死ぬような思いだったでしょう。男連中は(女性が)ポンポンポンポン車に乗せられるのを見とるんですからね。そしてら『イヤー』ちようた。かえって男の方が泣きながら、(敗戦したんだから命までは取られんからと説得した)そりゃ辛かっただろうと思うねぇ。女房を連れて行かれるのはそりゃただ事じゃないねぇ・・」(奥さんが「思い出すのもイヤって言ってたのにとうとう言ったね」と)
長くなったのでつづく・・後半は、二日市保養所に関する証言・などです。