キーコーヒー
テレビ東京【未来世紀ジパング~沸騰現場の経済学~】(8/25)で
世界コーヒー争奪戦をやっていたんですが、その中で「幻のコーヒー復活・日本とトラジャ族の絆」の部分のみ記録しました(青字はナレーション)
ゲストのインドネシア人も知らない話だそうです。
トアルコトラジャ族言う「40年前日本人は我々を決して見下さなかった」「日本人は素晴らしい」の意味とは・・
SHELLY「・・そんな中シェアを伸ばそうとしているブランド豆があるそうなんですけど、皆さんこのコーヒーの名前知っていますか?トアルコトラジャ・・実はこのトラルコシラジャ、日本と深い絆がある特別な豆なんです。」東京・大田区。ここに常連客でにぎわう喫茶店(Cafe処・綱島園)がある。こだわりはドリップコーヒー。注文を受けてから一杯ずつ丁寧にドリップする。喫茶店一筋25年の店主・綱島さん。4年前、店で使う豆を変えたと言う。豆の名はトアルコトラジャ。すると・・まろやかで芳醇なコクと香りに客の反応も上々。 このトアルコトラジャの豆を卸しているのがキーコーヒーだ。芳賀氏「我々はたくさんのコーヒーの製品を持っているんですけれども、その中でも特別な存在になっておりまして、、」実は、トアルコトラジャ、幻のコーヒーと呼ばれた逸品。復活の影に知られざる絆があった。トアルコトラジャのふるさとへ、日本からジャカルタを経由しておよそ12時間、インドネシアの地方都市マカッサルへ。 インドネシアで4番目に大きな島。スラウェシ島。この島の中心地マカッサルから400km。車で8時間の秘境にトアルコトラジャの産地がある。山奥へと進んで行くと集落が現れた。良く見ると家の屋根が不思議な形をしている。これは一体?まるで船のようだ。これはこの地域特有の伝統家屋トンコナン。確かに屋根は船を模った物だと言う。ここの住むのはインドネシアの少数民族、トラジャ族。 インドネシアでも独自の文化を守っている。一番大事な儀式は葬式。牛が天国に連れて行ってくれる。神輿の様な物は棺おけだ。村人たちが威勢よく棺おけを担ぎ上げまるで祭りのように死者を弔っていた。 実は、トアルコトラジャコーヒーは彼らが作っている。コーヒーの名前はこの民族から取られているのだ。取材班は更に山奥のコーヒー農場へと向かった。標高は1200m。 そこは雲の上のコーヒー農場だった。コーヒーの木を掻き分けると・・トラジャ族の女性がいた。収穫作業の真っ最中のようだ。歌いながら一粒一粒手で丁寧に摘んでいく。「どうしても段差が激しいですから、収穫作業の彼女達も大変ですよね。」ここはキーコーヒー直営のコーヒー(パダマラン)農場。渡邉さんはこの近くに駐在しながら収穫の状況を管理している。収穫した実は、すぐその場でチェック。青い実や痛んだ実は徹底的に取り除く。彼女達は摘んだ量に応じて賃金が支払われるシステムだ。こちらは元農場長のユスフさん。日本人にとても感謝しているという。「40年前日本人は我々を決して見下さなかった」実はトアルコトラジャと日本の間には知られざる絆があった。第二次世界大戦以前、オランダ領だったインドネシア。オランダ人はトラジャ地域がコーヒー栽培に適した土地である事に目をつけ、トラジャ族に栽培をさせた。オランダに送られるとその味わいは絶賛され王室御用達のコーヒーとなる。しかし、大戦後インドネシアが独立。オランダ人が去るとコーヒー農場は荒れ果て、いつしか幻のコーヒーと化してしまったのだ。そんなコーヒーを、もう一度復活させようとした日本人がいた。大木久さん。当時のキーコーヒー副社長だ。 大木さんはトラジャ族と力を合わせ、まず道路や橋などのインフラを整備。そしてコーヒーを復活させる為、近代的な栽培技術や品質管理を教えたのだ。「日本人は素晴らしい。私たちに対してまるで自分の子供に接するように指導してくれたのです。」1978年幻の(トラジャ)コーヒーはついに復活を果たす。(CM映像 「上手さ際立つ幻のコーヒー、トアルコトラジャ。キーコーヒーの傑作です。」)そう、幻のコーヒーを蘇らせたのは日本人だったのだ。やがてコーヒー生産が軌道に乗ると彼らの生活も大きく変わったという。「私には6人の子供がいますが、4人が大学まで進学しました。」今では皆立派に成人したという。「農場で働いていなければ子供を学校に行かせなれなかった。キーコーヒーにはとても感謝しています。」そんな感謝の気持ちを表す物を村で発見。「(Q.この橋の名前は?) オオキ橋! 」当時の大木副社長の名前がついた橋。そのたもとにはキーコーヒーのマーク。今でも人々の暮らしに欠かせない大切な橋となっていた。キーコーヒーのトアルコトラジャが作られるのは直営農場だけではない。この日、渡邉さんがやって来たのはとある集落。そこでは村人達が自分の畑で収穫したコーヒー豆を持って待っていた。キーコーヒーは農場の周辺の農家からも豆を直接買っているのだ。しかしどんな農家からでも・・という訳ではない。求める基準をクリアし、許可証を発行した農家に限られる。そこには責任者・渡邉さんの直筆のサインが。コーヒー豆は彼らの貴重な現金収入源となっている。「これで台所用品を買えるわ」実は、トアルコトラジャは自社の農場で作るより近隣の農家から買う方が多く全体の8割を占めるという。「非常にフレッシュで良いフルーティーな香りがします。で彼らは非常に丁寧に精選をしてくれますので非常にうれしいです。」(キーコーヒーインドネシア法人・中野正孝副社長の1年に1度の評価の日。合格した渡邉さんの顔には笑み。皆で喜びあう様子 略)
そう、トアルコトラジャはトラジャ族との共生の中で作られているのだ。
SHELLY「インドネシア人はトラジャ族と日本との関係を知っている?」イレス氏「実は知らなかった。はい。キーコーヒーの皆さん、どうもありがとうございます。」(インドネシア人)SHELLY「トラジャ族と日本企業の共生、これはいわゆるフェアトレード?」鈴木亮氏「はい、実は日本ではずっと以前からこういう関係作りをしてきた。」(日本経済新聞社 編集委員)夏野剛氏「これが単なるボランティアや援助だったら長続きしない。"サステイナブル"で持続的な関係が出来ているのは良い。」
・・・ヨーロッパでは植民地の奴隷制廃止が時代の趨勢になっていたのに、オランダは例えば西インドでは一八六三年まで奴隷制を維持していた。それに加えて東インド植民地でも奴隷制と見紛うばかりの強制栽培制度を強行し、高い収益を上げていた。特に後者は収益の多い植民地として、周辺諸国から羨望の眼差しで見られていた。」
「一九世紀のオランダの植民地政策を代表するものは、世界史的にもよく知られた、いわゆる強制栽培制度である。もちろんオランダでは"強制"という語は使われず、単に栽培制度と言うだけである。この栽培制度は一八三〇年からジャワに導入されたが、その骨子はジャワの農民や小作人に対して、耕作地の二〇パーセント、もしくは労働時間の二〇パーセントを東インド政庁が指定した農作物の栽培に割くように強制するものであった。政庁が指定した作物とは、当時西ヨーロッパで庶民の日常生活の中に普及し始め、人気のあったコーヒーと砂糖が中心で、他に茶、藍、タバコなどがあった。政庁はこれらの作物を独占的に集荷し、農民は政庁以外の第三者に売ることは禁じられていた。」
「一八七〇年にいたり、オランダはそれまで進めてきた悪名高い強制栽培制度を完全にではないが、段階的に廃止することになった。サトウキビ栽培は農民の稲作を犠牲にして強行され、慢性的な飢饉の大きな原因となっていたので、まずサトウキビ栽培から段階的に廃止されることになった(ただし強制栽培制度の象徴的作物であったコーヒーについては二〇世紀初頭にいたるまで廃止されなかった)。」
・・・ここでインドネシアについても触れておきましょう。
インドネシアの植民地支配は、1596年にオランダが艦隊をインドネシアに派遣したことに始まります。
オランダの350年以上に及ぶ植民地支配に終止符が打たれたのは、1942年の日本軍の進攻によるものでした。オランダ軍は、わずか7日で降伏してしまいました。
インドネシアには、「白馬に跨る英雄が率いる神兵がやってきて、インドネシアの独立を援けてくれるという伝説」がありました。
日本軍の進攻は、伝説の神兵の到来を思わせました。日本兵は、神話の軍隊であったのです。
ジョージ・カナヘレは「日本軍政とインドネシア独立」という著書で、次の4点を掲げています。1. オランダ語、英語の使用を禁止。これにより公用語としてインドネシア語が普及した。
2. インドネシア青年に軍事訓練を施した。これにより青年が厳しい規律や忍耐、勇猛心を植え付けられた。
3. オランダ人を一掃し、インドネシア人に高い地位を与え能力と責任感を身につけさせた。
4. ジャワにプートラ(民族結集組織)やホーコーカイ(奉公会)の本部を置き、全国に支部を作り、組織運営の方法を教えた。
日本は第二次大戦でアジアの国々を侵略したとされますが、どうして侵略する国が、侵略された国の青年に軍事教練を施すのでしょうか?
彼らの精神力を鍛え、高い地位を与え、民族が結集する組織を全国につくり、近代組織の経営方法を教えることがありますか?
この事実は、侵略したのが日本でなかったことを証明しています。日本はアジアの国々を独立させるために、あらゆる努力を 惜しまなかったのです。では一体、どこからの独立でしょうか?
もちろん、アジアの国々を侵略していた白人諸国の植民地支配からの独立です。ジャカルタの中心にムルデカ広場があります。
ムルデカはインドネシア語で「独立」を意味します。独立の英雄ハッタとスカルノの像とともに高さ37メートルの独立記念塔が立っています。
地下1階には、独立宣言の実物が納められています。ハッタとスカルノが直筆でサインをしています。そこに独立の日が「17-8-‘05」とハッキリ書かれています。
17-8は8月17日の独立の日を示していますが、‘05、05年とはどういう意味でしょうか?
インドネシア人はイスラム教徒ですからイスラム暦ですが、これはイスラム暦ではありません。ましてやキリスト暦でもありません。では05年とは、いったい何暦でしょう?
実は’05年は、日本の「皇紀」なのです。
1945年は、日本の「皇紀」では2605年にあたるのです。
初代の天皇である神武天皇が即位して建国をした時から数えた年です。ハッタとスカルノは日本に感謝して皇紀を採用したのです。
インドネシア独立の生みの親は日本だったのです。だから二人はインドネシアの独立宣言の独立の日を日本の「天皇の暦」によって祝福したのでした。
皆さん、こうした西欧の500年に及ぶ植民地支配は、世界中で広く認知されたことであります。私たちは今日、植民地支配の禍の終焉をこうしてここに集い祝福しています。
日本は「日いづる国」です。真に自由なアジアを求めるみなさんで、手を取り合ってゆきましょう。 民主的なアジアの連帯を実現する重要な役割を、日本が果たすことを願っています。
日がまた昇ることを祈りつつ、本日の私の話を締め括ら せて頂きます。
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