カリバタ英雄墓地
でも、インドネシア独立の為に最後まで戦った日本兵の事を、日本人はあまり知らないのでまとめてみました
天皇陛下が供花に、インドネシア英雄墓地に眠る残留日本兵たちもきっと涙を…(JBpress) - Yahoo!ニュース6/20(火)「靖国神社」を問題にする人達にこそ読んでほしい記事です。
天皇、皇后両陛下は17日からインドネシアを公式訪問されている。
両陛下の外国への親善訪問は即位後初めてとなるが、それがインドネシアだった意味は大きい。
【写真】独立宣言を読み上げるスカルノ。右にいるのがハッタ(1945年8月17日)
インドネシアは、終戦後も現地に留まった日本兵が独立戦争に加わり、アジアの植民地支配からの解放を果たした国だ。20日には、その元日本兵も埋葬されている「カリバタ英雄墓地」を訪れ、供花される。これは歴史的なことでもある。
■ インドネシア独立宣言を起草した日本の駐在武官
日本が敗戦を迎えた1945年8月15日の2日後、インドネシアでは独立が宣言される。首都ジャカルタの現在の独立記念塔(モナス)が経つ場所で、後の初代大統領となるスカルノが「独立宣言」を読み上げた。そこから再植民地化を狙う宗主国オランダとの独立戦争がはじまっていく。
そもそも日本軍は、統治下にあったインドネシアで現地の優秀な若者を集めた補助部隊として「ペタ」と呼ばれる義勇軍を創設し、軍事教練を実施していた。これが独立運動の原動力となっていた。
スカルノが読み上げた「独立宣言」も日本海軍のジャカルタ駐在武官だった前田精少将邸が、前日の夜に起草したものだった。インドネシアの独立を日本軍が後押ししたことは事実だった。
日本敗戦の2日後の独立宣言。これがきっかけとなって、アジアの周辺各国が植民地支配からの解放を目指して立ち上がっていく歴史的瞬間。
この時、スカルノを囲んで警護の役割を果たしていたのが、日本軍の憲兵たちだった。そのうちの一人、補助憲兵としてスカルノの脇に立ち、独立宣言を読み上げる肉声を聞いていた人物に話を聞いたことがある。
「インドネシアの独立という歴史的現場に立ち合っちゃったんだなあ」
私が話を聞いたのは戦後60年の節目の年、18年前の夏。終戦後も日本への復員を拒み、現地に留まって生きた残留日本兵を訪ねた時のことだった。すでに80歳を超えたジャカルタ在住の彼の名前を藤山秀雄といった。もともとは日本陸軍の「隼」戦闘攻撃機の整備をしていたが、終戦の混乱で憲兵が不足して、補助憲兵に借り出されていた。
「演説を聞いて、独立に熱いものを感じたんです。市民の熱気を! まあ早く言うと、若さも手伝ったんでしょう」
■ 「脱走兵」として咎められようとも
インドネシアは、太平洋の島々を攻略・奪還して日本本土を目指すアメリカ軍の戦略ルートから外れていた。そのため、本格的な戦闘もないまま、戦力が温存されていた。空襲すらなければ、「ビルマの地獄、ジャワの天国」と囁かれていたくらいだった。だから、敗戦が受け入れられず、失意から自決する日本兵も少なくなかった。
なぜ敗けるのか、俺たちはまだ戦える――。熱い意気込みは残っていた。その兵士たちの思いがほかの方向に向かわせる。
宗主国オランダの再上陸がはじまると、義勇軍「ペタ」やインドネシア軍のほうから、日本兵を勧誘に来た。独立戦争を勝ち抜くための軍事指導が欲しい、一緒に戦ってほしいと訴えた。
しかし、インドネシア軍に参加することは、隊を離脱した「脱走兵」となって、日本軍からも咎められる立場となる。もとの日本兵には戻れない。それも覚悟で、独立戦争に身を投じる兵士たちがいた。現地語で「独立」を意味する「ムルデカ!」が合言葉になった。
あの夏、やはりジャカルタで出会った宮原永治もその1人だった。むしろ彼には、帰る場所がなかった。宮原は台湾の生まれだった。帰りたくても、帰れなかった。
「蒋介石が入ってたんだ」
彼は一言でそう説明した。
■ 大東亜共栄圏と植民地解放を夢見た日本人
台湾名も持つ宮原が軍に入ったのは、1940年の日中戦争の最中だった。それも軍属として、志願して入隊している。
「当時は学生だったから、社会的経験もないだろ。染められてない、純粋だったんだなぁ! 出征軍人、婦人会から戦意一色でね。『八紘一宇』だ。当時は『大東亜共栄圏』『植民地解放』の2つを標榜してな……。当時の私はそれを聞いて、地図を見たんだ」
開いたのは、学校に置いてあったアジアを示した世界地図だった。
「地図の色が一色に染まってたんだ」
独立国だった日本と、それにタイを除いて、あとはアジア地域が同じ色で塗られていた。
「みんな白人の植民地。中国も半分は白人の植民地になっている。タイと日本以外は。それも、タイは両隣がもう植民地でね」
一色に染まったアジアの地図が、日本の掲げる“解放”と“共栄圏”の夢へと駆り立てていった。
「正義の戦争と信じてたんだ」
それが敗戦と同時に、独立戦争に駆り立てた。
「インドネシアの独立が目的なんだから、独立しないと今度はオランダ軍に捕まって処刑される。敵が入ってきている台湾に帰っても処罰されるだけだろう。日本もアメリカに占領されて、どうなるかわからない。まして、部隊を離れては脱走兵だ。だから、もう、第2の人生をインドネシアの独立に賭けたんだ。言わば、賭けだ! 人生の!」
宮原や藤山を含めて、私は9人の残留日本兵から話を聞いた。当時、インドネシアで存命だったのは、その9人だけだった。
ある士官は、オランダ軍を支援する英印軍の砲撃によって街が燃える赤い炎を見て、敗戦の失意が残留と独立戦争参加の決意に変わった。
まだ10代だった日本兵は、上官に連れられて行った場所がインドネシア軍の拠点で、すでに自分が「脱走兵」になっていたことに気づいて、止むに止まれず参加したと言った。
ある軍属の男性は、現地で出会った女性を愛した。彼女と生きたいがために、日本軍の収容所を抜け出し、独立に全てをかけた。
理由や事情はそれぞれだが、誰もが自分の正義を胸に、日本軍として送り込まれたインドネシアのために戦った。(当時の詳しいインタビューは拙著『帰還せず 残留日本兵 六〇年目の証言』にある)
■ インドネシア独立後も運命に翻弄された元日本兵たち
それから1949年12月までの戦争を戦い抜き、翌年インドネシアは公式に独立する。
ただ、そうなると独立戦争に賭けた日本兵たちの役割も終わり、気がつくと居場所もなくなっていた。ある者はそこから日本へ帰国し、ある者は現地での新しい生活を始めた。
「こっちに残った日本兵は、約1000人あるかないかと言われるが、そのうち700~800人が戦死か行方不明だ。それから後に帰国した者を含めると、1950年から残りは240人から250人になると思う。日本政府が『帰れ、帰れ』で20~30名は帰っとる」
それが当時の宮原の説明だった。
だが、残留日本兵の誰しもが、満足に暮らしていけるわけではなかった。とりわけ独立直後は、その日の食事にも事欠く生活を送った者もいた。1979年に、ある元日本兵が貧困長屋で孤独死したことがきっかけで、互助会組織をつくることになった。「インドネシア福祉友の会」といった。
当初は300人近い名前が名簿にあった。その事務をボランティアで取り仕切っていたのが宮原だった。それが、私がジャカルタを訪れた時には9人となり、そしていまでは誰も残ってはいない。
ただ、彼らの子どもや孫、曾孫たちは大勢いる。あの時、スマトラ島に訪ねた残留日本兵は、イスラム教に改宗して妻は4人、子どもは16人、孫が34人、曾孫が4人いた。そこで紹介された彼の一番下の子どもは当時8歳で、彼が73歳の時に生まれていた。
■ 英雄墓地に眠る元日本兵たち
独立戦争を戦った元日本兵の血脈は、いまもインドネシアに残る。そして、各地の英雄墓地や納骨堂で静かに眠っている。天皇陛下が供花される「カリバタ英雄墓地」には、私があの夏に出会った元日本兵も眠っている。
私がジャカルタに滞在した当時、できるだけ長く、宮原や藤山と過ごせるように努めた。戦争を知らない世代の私にとっては、話すことの全てが貴重だった。
その時、天皇についての話題に触れて、藤山がこう言ったことがあった。
「恩賜の煙草も、もらってる。御国のために死んでくるつもりでいたからね」
すると、事務仕事を片付けていた宮原が手を止め、遠くを見るようにして言った。
「恩賜の煙草かぁ‥‥。神棚の上だな、今も」
令和になって、天皇陛下が供花される。独立戦争を戦った残留日本兵たちにとって、これほど嬉しいこともないはずだ。青沼 陽一郎
あと、以前日テレでも「カリバタ英雄墓地」の事を報じていたので紹介します
≪国立カリバタ英雄墓地に眠る、インドネシア独立の為に戦った最後の残留元日本兵・小野盛さんの思い 【news every.サタデー】 ≫2015年05月03日インドネシア、アジアにとって希望の光だった日本・・エルスヨノさん「『インドネシアの為の独立の為』だけ。お父さんが言ったのはそれだけ。」(日本語で)
日本統治時代に、日本がインドネシアと交わした『将来の(インドネシアの)独立を認める』という約束を守るため、現地に残ったのだというのです。 日本人とインドネシア人の血をひくエルスヨノさん。日本にどのような思いを抱いているのでしょうか。
エルスヨノさん「昔はインドネシア人の子供の中には日本人を見て恐れていた子供もいたけど。今は"オハヨウ"や"アリガトウ"と声をかける身近な存在になっている。過去をきちんと認識して、次の世代に生かさないといけないと思う」。
インドネシア独立の英雄を父に持つエルスヨノさん。歴史を認識した上で過去の悪を非難するだけでなく互いに未来を見据えて日本との関係をより良くしていければと望んでいます。・・
大東亜会議70周年記念大会 ⑦ ヘンリー・ストークス「日本はアジアの希望の光だ」より)
ついでに、インドネシアがオランダの植民地時代に酷い搾取され、その後農業指導した日本人に感謝している話も紹介します
インドネシアにとって「残留日本兵」は英雄《インドネシア幻のコーヒー「トアルコトラジャ」を復活させた日本人。日本とトラジャ族の知られざる絆 【未来世紀ジパング】》より抜粋・
でも、一時は「脱走兵」として名誉を棄損されていた「残留日本兵」。その皆様に対し、天皇陛下が供花・黙祷されて本当に良かったです。
と、同時にこんな歴史的な事の意義を、詳細に報じないテレビメディアは本当に終わってると思いました。
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日本テレビ【news every.サタデー】(5/2)で、
インドネシア独立の為に戦った数百人の残留元日本兵の中で、去年亡くなった最後の元日本兵がどのような思いでインドネシアに残ったのかを取材していたので記録しました(青字はナレーション)
残留日本兵の存在すら知らない日本人が多いけど、
民放のテレビが、もっとこういう先の戦争の側面の部分を普通に報じていったら、「日本は悪い国」という国民の洗脳も解かれていくかも。
アナ「太平洋戦争当時、日本が占領・統治していたインドネシアでは終戦後数百人の日本兵が現地に残り、インドネシア独立の為に戦いました。」
女子アナ「去年亡くなった最後の日本兵、どのような思いでインドネシアに残ったのかその記憶を取材しました。」
独立戦争を戦った戦士達が眠る東ジャワ市の(バトュ)英雄墓地。
そこに出身地「北海道」、そして「ONO」という日本人の名前が刻まれています。
去年、95歳で亡くなった小野盛さんの墓です。
オランダの植民地だったインドネシアは太平洋戦争中の1942年に日本が占領。
終戦で日本が撤退した後、オランダからの独立戦争に突入しました。
その戦いには現地に残った元日本兵、数百人も参加していました。
陸軍に所属していた小野さん。日本兵からなるゲリラ部隊に身を投じ、戦いで左手を失いながらもインドネシアが独立を勝ち取るまでの4年間戦い続けました。
独立後にインドネシア国籍を取得し、現地で結婚。多くの子供に恵まれました。躾には厳しい父親だったと言います。
(小野盛さんの二男)エルスヨノさん「ちょっと厳しいけど、でも子供達の為だから厳しいね。」(日本語で)
インドネシア独立に貢献した英雄として国立の英雄墓地に埋葬された小野さん。戦争については多くを語らず、ある言葉を繰り返していたと言います。
エルスヨノさん「『インドネシアの為の独立の為』だけ。お父さんが言ったのはそれだけ。」(日本語で)
日本統治時代に、日本がインドネシアと交わした『将来の(インドネシアの)独立を認める』という約束を守るため、現地に残ったのだというのです。 日本人とインドネシア人の血をひくエルスヨノさん。日本にどのような思いを抱いているのでしょうか。
エルスヨノさん「昔はインドネシア人の子供の中には日本人を見て恐れていた子供もいたけど。今は"オハヨウ"や"アリガトウ"と声をかける身近な存在になっている。過去をきちんと認識して、次の世代に生かさないといけないと思う」。
インドネシア独立の英雄を父に持つエルスヨノさん。歴史を認識した上で過去の悪を非難するだけでなく互いに未来を見据えて日本との関係をより良くしていければと望んでいます。以上
日本は敗戦したけど、残留日本兵がその志を受け継ぎ、日本がインドネシアと交わした約束は守られました
そのインドネシア独立の為に残留した日本兵ですが、たくさんの命が犠牲になりました
ホント、「過去をきちんと認識」しなければいけませんね。
歴史には光と影があります。戦後70年の今だから、日本がインドネシアでやった事を日本人はしっかり知るべき
《『朴大統領演説の波紋と日韓外交"迷路"出口』、渡部昇一氏、小倉紀蔵氏の議論 (後半) 【プライムニュース】》より抜粋
大東亜会議70周年記念大会 ⑦ ヘンリー・ストークス「日本はアジアの希望の光だ」より)
この際、インドネシアがオランダの植民地時代に酷い搾取され、その後農業指導した日本人に感謝している話も紹介します
《インドネシア幻のコーヒー「トアルコトラジャ」を復活させた日本人。日本とトラジャ族の知られざる絆 【未来世紀ジパング】》より抜粋
話を残留日本兵 に戻します。インドネシアもだけど、ベトナムなどに残った日本兵が現地で教育・指導し評価された事をみても、「日本はアジアの光」と言われていたのが分かりますね
中国[編集]
中国大陸では、残留日本軍が非軍人の在留日本人とともに多数が国民党軍や共産党軍に参加し、国共内戦を戦った。山西省では国民党軍に軍人・非軍人合わせ約2600人の日本人が参加し、終戦後も4年間にわたり戦闘員として戦った(中国山西省日本軍残留問題)。また、八路軍支配地域では旧日本陸軍の飛行隊長を始めとする隊員300名余りが教官となってパイロットを養成した(東北民主連軍航空学校)。
インドネシア[編集]
第二次世界大戦終結後、インドネシアでは日本軍から多くの武器が独立派の手に渡り、再植民地化を試みたオランダとの間に発生したインドネシア独立戦争では、旧日本軍将兵が独立軍の将兵の教育や作戦指導するとともに、自ら戦闘に加わるなどした。戦後、インドネシアでは多くの元日本兵が独立戦争への功績を讃えて叙勲されている。
インドネシア残留日本兵が作った互助組織「福祉友の会」は、日本に留学する日系インドネシア人学生に奨学金を与えるなど、日本とインドネシアの架け橋としての役割も果たした。元残留日本兵は、毎年行われるインドネシアの独立式典にも呼ばれているが、全員が死亡したり、高齢で体調が悪化したりなどで参加者は減っていき、2014年の式典には1人も参加できなかった[1]。
2014年8月25日、小野盛(インドネシア名:ラフマット)が94歳で死去した。小野は、行方不明者を除くと、最後の残留日本兵とされ、これで所在が確認できるインドネシアの残留日本兵は全員死亡したとされる[2][3]。小野の葬儀はインドネシア国軍が執り行い、棺にはインドネシアの国旗が被せられ、カリバタ英雄墓地に埋葬された。
ベトナム[編集]
ベトナムでは700人から800人の日本兵が残留し[5]、ベトナム独立戦争中の1946年に設立されたクァンガイ陸軍中学などいくつかの軍事学校で旧日本陸軍将校・下士官による軍事教育が行われた。ベトナム独立戦争に参加して戦死した旧日本兵には烈士墓地に顕彰されているものもいる[5]。
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