2014年10月22日08:01「日韓条約 知られざる交渉の内幕」 その1 【NHK】 (再)

NHKで【BSドキュメンタリー 日韓国交40年企画 日韓条約 知られざる交渉の内幕】という番組を昔見たんですが(2005年6月18日放送 )、その動画を見つけたので、二年半前にもこれに関しての記事を書きました。

《日韓基本条約 詳細動画》2009年4月

日本と韓国の14年間に亘る、凄まじい交渉の様子や、韓国人の証言、交渉した人達の証言などなど

(ただし、徴用された韓国人と慰安婦の証言は信憑性が薄いし、ナレーションも突っ込みどころアリ)

流れ的には、韓国政府のネコババが分かりやすく、良い番組だったと思います。

政権末期になり、また慰安婦問題を蒸し返してきた韓国・・(呆)

日韓条約で完全に解決済みのため、全くの韓国国内問題だという事を再確認するためと、とにかくスゴイ動画のため消されないか心配で^^;、頑張って文字起こししました(青字はナレーション)(昔のテレビのアナウンサーの声はピンク字)


から40年前、日本と韓国の間で日韓条約が交わされました。

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この日、大韓民国の国歌が日本の首相官邸で始めて流れました。

基本条約と関連する4つの協定から成り立っている日韓条約

日本の36年間に亘る朝鮮半島の植民地支配で途絶えていた国交は、この条約によって回復しました。過去の清算は決着していた事になっています。

請求権に関する問題は"完全かつ最終的に解決された"2005年1月、ソウルで日韓条約を見直しを求めるデモが行われました。

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「植民地支配の被害者救済のため日韓条約の交渉をやり直せ!

日韓条約の締結から40年、これまで植民地支配の被害者への補償はほとんど進んでいません

解決したはずの過去の清算を求める声は今も続いています。

日韓条約の妥結には14年を要しました。両国は過去の歴史をどう決着させようとしたのか、交渉の詳細はほとんど明らかにされてきませんでした。

松永信雄氏「日韓交渉はですね、開催しては決裂。決裂しては再開という曲折を経てきておりですね、日韓双方の立場が各問題ごとに著しくかけ離れているだけにですね、交渉はこのような交渉は容易な事ではないと、、」(当時の外務省条約課長)

交渉妥結の鍵を握る人物・韓国の金鍾泌(キム・ジョンピル)元首相が、長い沈黙を破り、NHKの取材に応じました。

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キム・ジョンピル元首相「生きる為にはそうしなきゃならない。その時には、まず日本と手を結んで日本の協力を得ながら出る方法しかない。だとすると日本と国交正常化を図る、、」(流暢な日本語)

2005年1月、韓国で日韓条約についてのニュースが人々の関心を集めました。

韓国のニュース

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韓日条約の文書が公開されました。その結果、苦しい立場に立たされた韓国政府は、過去の過ちを認め、被害者を救済する措置を検討すると発表しました。」

1/17日、韓国政府は日韓条約締結に至る会談の会議録や政府の内部文書の一部を公開しました。これまで極秘扱いとされてきた物です。

今回公開されたのは、会談の最後の5年間に行われた第6次と7次会談の1800ページに及ぶ記録です。

その中では植民地支配の被害者に対する補償は、韓国政府の手によって行うという事が明記されていました。

文書の公開を求めてきたのは日本の裁判で個人補償を訴えてきた被害者や遺族たちでした。

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キム・キョンソク会長「政府は金を何に使ったのですか。 我々がひもじい思いをしている時に製鉄所や高速道路を作った! もう我々に返してくれてもいいじゃないですか! 利子をつけて返してくれてもいいではないですか!」

日韓条約で韓国政府が行う事になっていた被害者への補償はほとんど行われてきませんでした。韓国政府は今、植民地支配の調査に乗り出しています。

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「(どこに行きましたか?) サイパン。サイパンに行って・・・ (徴用の話を覚えていますか?)もう随分昔のことだからなぁ(笑) (何でもいいですから)当時働いてケガをして今でもお尻の辺りが痛むんだ。」

「金をどういう風に受け取ったかって、給料の事は私は知らない。見たこともないからね。」

せめて10年前、まだ皆さんが70代であれば、もっと聞きだせると思うんですがね。何しろ60年も前の事ですから、難しいですよ。」(真相糾明委員会 調査統括課)

実態調査を行っているのは"日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会"です。

大統領が委嘱・任命した9人の委員と民間の専門家、公務員、あわせて85人のスタッフから構成されています。

主な業務は戦争中に強制動員された軍人・軍属や労働者の調査です。そして慰安婦などの調査も行われています。

政府は本人や遺族に対し被害実態を申し出るよう呼びかけています。

申告に基づいて調査を行い、国が被害者として認定します。

しかし、被害の補償を国が行うかどうかはまだ決められていません。

チェ・ボンテ事務局長「委員会の目的は、補償に直接関わる事ではなく、まず被害の真実を明らかにすることです。被害者にとって真実を解明していく事は金銭的な補償よりも重要な意味を持っているのです。被害者たちは植民地時代に日本によって被害を被っただけでなく、戦後の社会でも放置され長く苦しい年月を強いられてきました。それは韓国社会が民主化されていなかった事を物語っています

条約の文書公開によって被害者問題に対する社会の関心が高まり、真相究明への取り組みもより重要性が増してきたと言えます。」(真相糾明委員会)

真相糾明委員会の調査は日本でも行われています。ここには強制連行されたと言われている人達の墓が残されています。筑豊の炭鉱で命を落とした朝鮮の人達の物です。名前も、亡くなった時の年齢も今では分かりません。

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シン・ヨンスク課長「来るのが遅くなって。これから韓国政府はあなた方の問題について一生懸命調査することを誓います。申し訳ありませんでした。」(真相糾明委員会)

日韓条約締結から40年、韓国政府はようやく植民地時代の実態調査に乗り出しました。

しかし、その取り組みの前には長い時間の壁が立ちはだかっています。

(日本ニュース)  大韓民国独立

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「マッカーサー元帥夫妻を迎えて大韓民国独立式典は解放3周年記念日の8/15日、首都京城で盛大に挙行されました。」

日本と韓国の国交正常化に向けた動きは1948年、大韓民国の建国から始まりました。

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韓国の初代大統領・イ・スンマン。韓国は植民地支配から独立を勝ち取った戦勝国であり、日本から賠償金を得る事が出来ると考えていました。

「対日講和会議開会の瞬間が迫りました。」

しかし、韓国は戦勝国の一員には加えてもらえませんでした。"日本と戦争をしていたわけではない"という理由で日本やイギリスが反対した為でした。

戦後補償の問題は二国間交渉に委ねられる事になりました。

1950年、朝鮮戦争が勃発。アメリカを中心とした国連軍、そして中国人民義勇軍が参戦し、戦闘は朝鮮半島全体に広がりました。

当時、中国・北朝鮮などの共産主義勢力が台頭し始めていました。

これを憂慮したのがアメリカでした。連合国総司令官・マッカーサー元帥はイ・スンマン大統領に対し、日本との国交正常化を要請しました。さらにアメリカは日本にも、韓国と話し合いを持つよう働きかけました。

1951年10月、14年に及ぶ長い交渉が始まりました。

日本側の首席代表は外務省顧問の松本俊一。韓国側の首席代表はキム・ヨンシュク駐日大使。会談は冒頭から激しくぶつかり合うことになりました。

両国はそれぞれ基本条約の草案を提出し合っていました。対立の引き金となったのが『韓国併合』をめぐる解釈でした。

韓国側は1910年に結ばれた『韓国併合条約』は武力によって強制されたものとしていました。第3条 大韓民国と日本は1910年以前に締結された全ての条約が無効であることを確認する。

"null and void まったく無効である"

この第3条について、日本側は削除を要求しました。

日本側の発言「この条項は、日本国民の心理面に不必要な刺激を与える恐れがある。『韓国併合条約』が今も有効であると考える日本国民はただのひとりもいない。」

韓国側は即座に反論しました。

韓国側の発言「この第3条が日本国民の感情を刺激するのであれば、それは日本人が過去の帝国主義の過ちを今尚生産出来ていないという事を立証するものではないか。韓日基本条約にこの条項を入れる事は韓国国民の民族感情からにじみ出る基本路線である。

黒田瑞夫さん85歳。第一次会談に外務省の三等書記官として参加していた黒田さんは、韓国側の強い反発に驚きました。

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黒田氏植民地というものを持つという事は、戦前は普通だったんですね。で、韓国民に対してそれだけの酷いですねぇ、恨みの念を抱かせたとは気がついて、当時の指導者はそれほどとは思っていなかった。というそういう事がありますね。あのチャーチルなんか、大英帝国のどこが悪かったんだという気持ちですから、植民地っていうものを持ってたっていう事は決して悪いことではないと。そういう考え方、そういう時代だったんですね。」

韓国側の代表団のひとりオ・ジェヒさん73歳。会談最終盤の第7次会談に参加したオさんは、歴史認識を巡る対立は14年を亘る会談を通じて、ずっと続いた問題だと振り返っています。

オ氏「どんな交渉でもそうですが、絶対に譲歩できないポイントというものがあります。日韓会談でもいくつかそういうポイントがありましたが、韓国側から見ればそれはまさしく過去の清算でした。この問題の解決なくしては国交正常化はありえません。それは韓国国民の世論でもありましたし、韓国政府の立場もそうでした。」

第一次会談の開始前から韓国側は植民地支配に対する賠償を試算していました。

その額は、当時の額でおよそ20億ドル、日本の国家予算の3倍に及ぶ額でした。

これに対し、日本側は逆に韓国側に要求をつきつけました。

日本が朝鮮半島に残してきた財産の返還を要求し、韓国側の要求から差し引くよう求めたのです。韓国側はこれを拒否しました。

韓国側の発言「日本が真に誠意を示そうとするならば、韓国に対する請求は撤回すべきである。この問題が解決しない限り会談を続けても意味がない。」

第1次会談は開始から2ヶ月あまりで決裂しました。

「いわゆる特需の波に乗って、再び兵器製造に乗り出し、隔壁砲弾・発煙弾などの大量生産が行われ、異様な活気を呈しています。」

朝鮮戦争は日本にとって戦後の窮乏から抜け出すきっかけになりました。特需景気が続き、国民総生産は戦前の水準を回復するまでになりました。

一方、国土全体が戦場となった韓国の経済は最悪状態が続いていました。

軍事費が財政を圧迫し、アメリカの援助に頼る経済状態が続きました。

第1次会談の直前からイ・スンマン大統領は日本に対して強硬な政策を打ち出していました。

(朝日ニュース)    李承晩ライン問題

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「遥かに朝鮮半島を望んで果てしなく広がる海原。この自由な公の海上で、しばしば日本漁船に対する不法事件が繰り返されており、日韓の海を遮るリショウバンラインが一方的にされているのです。」

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イ・スンマン大統領はリショウバンラインと呼ばれる境界線を設定しこれを超えた日本漁船を拿捕しました。国家の防衛と漁業資源の保護がその理由でした。

日本では、激しい抗議の声が巻き起こりました。

(つづく)



次は、久保田発言を巡る紛糾の様子や徴兵・徴用された韓国人の証言・李ラインの事などです。

久保田発言とは「日本としても朝鮮の鉄道や港を造ったり、農地を造成したりしたし、大蔵省は当時多い年で2000万円も持ち出している。これらを返してもらえば、韓国側の請求権と相殺できるではないか。これから先言う事は記録を取らないでほしいが・・・

当時、日本が行かなかったら中国かロシアが入っていたかも知れない。」

という正論に、韓国が激怒し会談が紛糾、決裂。

韓国側の発言「あなたは日本人が来なければ韓国人は眠っていたという前提で話をしているのか。日本人が来なければ、我々はもっとよくやっていたかも知れない。1000万円とか2000万円とかの補助は韓国人のために出したのではなく、日本人の為に出したもので、その金で警察や刑務所を造ったではないか。」

あと、こんな事を言う人もいて・・・・

キム氏「もちろん、日本の統治時代に鉄道も敷かれ、色々な制度も整備され、学校も建てられたのは事実です。しかし、韓国国民からすると久保田発言はまるで韓国に能力がないので日本が助けてあげた。他の国の場合より日本は韓国に良い事をたくさんしてあげたという事ですよねぇ。しかし、私はそもそも日本が何故我々を侵略し韓国を植民地化したのかというところに問題の本質があるのだと思うのです。(元中駐日大使)

というように日韓会談はこんな具合で平行線が続き、14年間もかかったわけですね・・

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この記事へのコメント

1. Posted by    2014年10月22日 12:07
<p>征韓論のときから、今日まで何一つ変わっていないことが分かる。</p>

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